磯の香り

波打つ水面。飛び散る雫。燦々と降り注ぐ陽光。

蝉がせわしなく鳴いている。


今日はプールの授業の日。

防水キャップとゴーグルを身につけ、子供達が軽快に泳ぎ回っている。


「先生ー、水が耳に入っちゃった」

「頭を傾けて振ってみて」


少女は私の言う通りに頭を傾けて振ってみる。そして、にっこりと笑った。


「取れた! ありがとう。先生」


少女は、はしゃぎながら、列に戻って行った。

せわしなく鳴く蝉の声が耳に響き、頭の中で反芻する。

プールを見るといつも思い出す。




あの夏、私は保健室にいた。




プール授業の時になると決まってお腹が痛くなり、保健室の椅子にいつも座っていた。水が怖かった。大きな水面を見ると、緊張して体が強張り、足がすくんでしまう。授業が終わるまで、保健室の窓から、木に止まって鳴く蝉をじっと見ていた。


ガラガラと戸を引く音がして、タオルを巻いた水着姿の同級生が入って来た。同級生は膝を擦りむいていた。


「君も怪我したの?」

「ううん、お腹が痛くて・・・」

「そっか、先生知らない?」

「先生、トイレ行ってる」

「・・・」

「・・・」


あんまりこの子とは話した事がなかった。沈黙が気まずくて、私は蝉に視線をずらした。

「蝉好きなの?」

「え、うん」

「そっか。・・・あ! ちょっと待ってて!」


同級生は保健室から出て行って、すぐ戻って来た。カンカンを手に持っていた。


「これあげるよ」

同級生はカンカンを開けると、蝉の抜け殻を取り出して、私の掌に乗せた。


「・・・ありがとう」


カンカンを見ると中には、花の種や、木の実や石など、自然の物が沢山入っていて、私の知らない物もいくつかあった。その中で一際美しい物があった。


「これ、何? 綺麗だね」

「貝殻だよ。拾ったんだ」

「貝殻・・・どこで拾えるの?」

「海だよ。海に沢山あるよ」

「海・・・」


海はプールより怖い。行った事はないけど、写真で見た事がある。広い水面

に飲み込まれてしまいそうだ。


「プールの授業で見かけないけど、苦手なの?」

「あ・・・、うん。沢山の水が怖いんだ」

「そっか。でも、水って凄いんだよ。生き物はみんな水から生まれたんだって」

「え、そうなの? この貝殻も?」

「そうだよ。この貝殻もあの蝉も、僕たちもだよ」

「・・・そうなんだ」

「今度、夏休みに入ったらさ、一緒に海に行こうよ。そんで一緒に、貝殻拾わない?」

「拾いたい。 あ、でも・・・」

「泳げなくても大丈夫だよ」

「うん。でも・・・」

「怖い?」

「・・・うん」

「そっか」


同級生が私の手をそっと握った。


「僕が手、こうやっててあげる。だから、今度プールで一緒に練習しようよ」

「あ・・・」


手から伝わる温もりが私の緊張を和らげてくれた。怖いけど、一緒なら・・・。


「うん、海、行きたい、一緒に貝殻拾いたい」




私はその後、同級生と一緒にプールに入る事ができた。そして、夏休みには一緒に海に行って、貝殻を拾った。







家に帰宅すると、彼が先に帰っていた。今、私は彼と同じ家に住んでいる。

窓辺には貝殻の入った小瓶が飾ってある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る