3-3
さて、私は、今自室で発酵中の酢を思い浮かべて溜息を付いた。
「ただ、意外とうまくいかなくて。酢酸菌は果物に付着していると聞きましたからワインを使っているんですけど。全然上手発酵してくれないのですわ」
「あー、こないだのワインってそう言う」
「ええ。絶賛発酵中ですわ」
今まで黙っていた、パーシバルさんに私は頷く。
同時に、ジョシュア様が不思議そうに肩眉を上げた。
「その『酢』とやらにはどんな効果があるんだ?」
おっと、よくぞ聞いてくれました、ジョシュア様。
私は胸元で手を合わせる。
「ええ、酢には食欲増進効果があります!」
「食欲、増進………」
「これは、酢の酸味が味覚を刺激して食欲を――。ではなく、そうですね、美肌効果もあるのですわ」
あの反応、食いしん坊と思われただろうか。
慌てて、美肌に話を変えたけど、これ男性に興味あるかしら。
もうやけだ、続けてみよう。
「あとはお通じを良くし、肥満防止の効果も持っていますね」
「ほう」
「それから疲労回復に、食べたモノの消化を手助けしてくれる効果もありますの」
「ほう」
「それだけじゃありませんわ。食品を腐りにくくしたり、食中毒防止の薬にもなりますのよ」
「ほう」
どうしましょうか、私はにこやかな笑みを浮かべたまま、固まるしか無かった。
だって、皇子。「ほう」しか言わなくなったもの。これ、絶対興味ないでしょう。
後ろのパーシバルさんも同じ。また呆けている。いえ、助手でしょう貴方。ちゃんと話を聞きなさいな。
「つまりだが」
「は、はい」
手を組んで、漸く皇子が別の言葉を零した。
何か考えながら、口を開く。
「それは、美容に良く。女性が喜びそうな食品なのだな」
「――!そ、そうですね!」
「俺の妹も最近肌の艶が無いと常に嘆いている。無理に減量も初めて、最近は食欲もわかないと零していた。女性にはうってつけな物なのだろうな」
「そ、そうです!そう言った方に、ぜひとも進めたいのですわ!」
ああ、なんて理解力がある皇子様だろう。
流石、攻略対象者の皇子殿下!
あの女の敵の皇子とは大違い。――いえ、実際はコレが普通だったりする?
いや、もう何でもよい。
私は、身を乗り出す勢いで、彼の事なんて気にも留めずにジョシュア様に顔を近づけた。
「今の酢が出来上がったら、どうぞ妹様に持っていてくださいませ!」
「え、い、いや」
「いえ、酢だけじゃなくて、納豆も!」
「……」
ジョシュア様が赤面を通り越して、険しい顔になっているのが分かる。
まあ、未知な食べ物。それも
ただ、正直妹君の方が今は心配だ。
まずは取り敢えず、何でも良い。食べられる物を、食べたいと思うものを見つけて貰わないと。
私は貧血のとき、納豆しか食べられなかったから。「もしかして」の可能性だけで進めて見た。
「――すまない。流石にいきなりは無理だと思う。納豆は俺も食べて腹も下す事も無かったから大丈夫だとは思うが、一口食べるだけでも勇気がいる。酢に至っては、未知な物なのだろう?危険がある以上進められない」
しかし、当たり前だけれど拒否。
ぐうの音も出ない正論。
そうですよね、私も無理に進められません。
「――ただ、酢だが。味や匂いはどうなんだ?」
「え?酸っぱいだけですわ。ちょっと独特な酸っぱさですが、レモンよりは酸っぱくないと思います。今作っているのは食酢ですし、例え酸っぱすぎても水で薄めれば、飲みやすくなりますよ」
「そうか」
しかし、皇子は何か気になる事があるのか、続けて質問を投げかけて来た。
私に答えを聞いて、少し。彼が顔を上げる。
「だったら、安全性が保障されれば『酢』……『ビネガー』だったな、それなら妹も飲めるかもしれない。少々酸っぱいジュースとして、だが」
意外な歩と事だった。
皇子様、滅茶苦茶『
思わず唖然としてしまったわ。
だけど
どうやら意外にも『酢』はジョシュア様の心に突き刺さったようだ。
作り方はまだ今一把握していないようでいらっしゃるが。
「なので、ビネガーと言うモノが出来たら、まず最初に俺に飲ませて欲しい。実験台ぐらいなら手を貸せる」
そして、もっととんでもない事を言って来た。いや、実験台って何?
いやいや、無理ですよ。皇子様、貴方次期国王様でしてよ?
危険な事をしないでくださいませ。作った私が責任をもって、実験台になりますから。
なにが皇子の心をそんなに掴み取ったの?やっぱりジュリアンナの為?それとも妹君の為?
「い、いいえ!私が責任をもって、最初に毒見を致しますから」
「いや、女性にそんな危険な事はさせられない」
あ、ジュリアンナのことを思ってだったらしい。
でも皇子?ちょっと失礼でしてよ。いや、確かに私は素人ですから、素人の『
だけど、皇子の目は真剣だった。
何かしらコレ。断り辛い。
――こら、助手。パーシバルさん。此処は貴方の出番よ?
なのに、パーシバルさんは私と目も合わせようとしてくれない。逃げる気ね、助手君。
仕方が無い。溜息を付いた。
「ではこう致しましょう。私と、ジョシュア様、2人同時で毒見をすると言う事で」
「え?」
「私も作り手として安全なモノを作りたいですし、証明したい。だったら毒見役は多い方が良いかと。実験結果は多い方がよろしいでしょう?」
この発言にジョシュア様は何か言いたげな表情を浮かべたけれど、私はこれ以上の譲歩は許さなかった。
彼が何を言おうと、コレは絶対に許さないし。と言うか、無理があるでしょう。普通に考えて。
――いや、コレもまた彼を納得させるための嘘なのだけど。
出来上がったら、流石に人に勧める前に自分で毒見しますから、私。
「――わかった。決意は固そうだ」
意外と言うべきか、皇子様はすんなりと承諾してくれた。
いや、折れたと言う方が正しいか。ま、出会って10日前後の女性に強くは出られないか。
なんにせよ、これで毒見は決まった訳だ。そうなれば残る問題は1つ。
「それとジョシュア様。酢……ビネガーが無事完成し妹様にも受け入れられた後の話ですが。その後は如何するおつもりで?」
「?――あ、ああ。もし、妹が気にいったのなら……、俺の村の連中も進めたいと思っているのだが、良いか?」
ああ、そうだったわね。お忍びだったわね。国でも村でも、なんでも良いのだけど。
「それは、どうぞ進めて下さい」
「感謝する。もちろん、作り手の君の事は公表するつもりで――」
「それ、ソレに関してですけれど。作ったのは此方のパーシバルさんでお願いします」
「――は?」
私は遮る様に本題を告げた。
もちろんだが、いきなり名指しされた、今まで呆けていたパーシバルさんは素っ頓狂な声。
大いに驚きなさい。先ほど師匠を助けなかった罰よ。
ジョシュア様も驚きを隠せないようだ。私は問われる前に続ける。
「正確にいえば、パーシバルさんの家系で作られていた先祖代々的なアレでお願いしますわ」
「は?あの、お嬢?」
「あ、無事に完成した作り方を記したレシピをお渡しいたしますわね」
「あのー、お嬢様?」
私の隣迄やって来て、何やらもごもご言っているパーシバルさんをガン無視して話を進める。
あ、大丈夫よ、パーシバルさん。酢が無事に完成したら、貴方にもレシピを教えるから。
貴方はこの村で本当に酢を作って言ってちょうだい。
少しして、ジョシュア様が、それは不思議そうに問いただしてきた。
「いや、あの。なぜ、自分の名を伏せる?」
「面倒だから」
はっきり答えたわ。
二人が固まったのが良く分かった。
「冗談ですわ」
「じょ、冗談?」
「実は此方、マリーローズ王国の図書で見つけた古い文献に記されていた物なのですわ。そもそも私が発案した物ではありませんの」
正確に言えば、私が発明した物じゃないのに、私が発明したかのように伝わるのが嫌だからだ。
此処は正直に言ってしまおう。
私的には今回の1件で自分が楽しい経験が出来るのなら――。
いえ、今回の1件でお父様に『発酵』の素晴らしさを認めさせるだけで良い。
『酢』の発案者の手柄なんているものですか。恐れ多い。
ジョシュア様が怪訝そうな顔を浮かべたが知らない。
そうね
しかも古い文献なんて態々口に出して。
国の歴史を記した古い文献なんて、少なくとも城下街には存在しない。
あるとしたら、お城の中の。
つまり、私はお城に入ったことがあると言っているようなものだもの。
私の素性なら勝手に調べてくださいませ。
この件については全てお父様に報告するつもりだし。私が勝手にやらかした事だ。
皇子に私の事がバレても構わない。
そんな事よりもお父様が酢を気に入ってくれるかの方が大事だ
気に入れば、『酢』を
「それからレシピを渡す条件として、『酢』の更なる発展の研究をお願いしたいのですが、大丈夫でしょうか?」
さらに私はもう一つ条件を出す。
何故って?――当たり前だろう。
むしろ遅すぎる程だ。食文化前進させなさい。
「――それは、なぜ?」
「私が作る酢は飲むのに適しただけの酢です。でも、研究次第では料理にも使える代物になると思いますの」
「それを作って欲しいと?」
ジョシュア様の問いに私は頷く。
転生前ブドウ酢を呑んだことが無いから出まかせに近いけど。多分、普通に料理にも使えると思う
だけどブドウ酢から更に色んな酢が出来て、世界に広がって欲しい物だ。
「あの、お嬢。俺は」
「頑張ってね、パーシバルさん。大丈夫、作り方はしっかり教えますので、今度の発展が楽しみですわ」
師匠を助けなかった助手は適当に流しておいた。
私の助手になったからには、意地でも興味を持ってもらいます。ジョシュア様を見習いまし。
「――分かった。きみの作っているモノが成功したら、俺も全力で当たってみよう」
そんなパーシバルさんとの会話を遮る様に、今まで悩んでいたジョシュア様が大きく頷いた。
本当にこの方、なんて頼もしいのかしら。若干嫉妬にも感じけれど、この際何でもいいわ。
ただ、少し心配なので対策を取って置く。
したたかと言われても仕方が無い方法だが、ジョシュア様の手を取り握りしめたのだ。
「頼もしいですわ!約束でしてよ、ジョシュア様!」
「あ、ああ」
――ごめんなさい、ジョシュア様。
真っ赤になった彼を前に心の中で謝った。
◇
さて、これで『酢』の発展と流通は前進した。
そうなれば問題は、やはり今私が作っている『酢』の事である。
コレが完成しなければ、そもそもスタート地点にも立たない可能性があるのだから。
「けど……アレ、本当に発行するのかしら」
「――あ、あのジュリア嬢。その、良ければだが……」
発酵すると言う確信は、少なからずあるのだけど。もうちょっと自信が欲しいわ。
成功の比率を高めたいと言うか。これなら絶対成功すると言う確信と言うか。
「何かが足りないのかしら?」
「俺と……」
そうなれば何か更に、あの酢に付け足すしかない。でも何を?
私は「酢酸発酵」に関してを思い出す。
酢酸菌とは元から果物に付着している菌で。
アルコールと糖類をエネルギーにして、発酵に繋がる。
「あの、ジュリア嬢。聞いているか?」
――元から果物に付着している菌?
「――そうだわ!だったら果物を入れてみればいいのよ!」
私は勢いよく立ち上がった。
凄いひらめきを思いついてしまったと言わんばかりに。
でも、私の考えは間違っていないはずだ。
昔、酢の作り方を調べた時も。
殆どのレシピが果実を入れたり、レーズンを使用したり工夫していたじゃないか。
アレは各果実についている酢酸菌を利用していたのだわ!
気が付いてしまった。思い出してしまった。
そうなれば、善は急げ。今すぐ私も試さなくてはいけない。
村に出向いてレーズンかブドウを買ってこなくては。
私は速足で、家の玄関に向かう。
あ、最後にお二方に振り返って、お辞儀も忘れず。
「申し訳ございません。急用を思い出しましたので、失礼いたします。ではお元気で!!!」
必死に興奮を押さえながら、その場を後にする。
パーシバルさんが「不憫だ」なんて言ってけど気に留める暇も無く。
私の足は、そのまま村へと駆け出すのであった。
◇
あれから更に1ヶ月。
私は、自室に置いてあるワイン瓶に手を伸ばす。
蓋の代わりのガーゼを取って、グラスに注ぐと恐る恐ると匂いを嗅いだ。
――いいえ、恐る恐るなんて必要ないわ。
グラスに注いだ瞬間に香って来た酸っぱいこの香り。
でも、身体に悪い腐った物の香りじゃなくて、食欲がそそる様なこの香り。
間違いない。
「あああ!!見て!!成功だわ……じゃない、ですわ!『酢』の匂いがしはじめましたもの!」
私は興奮が抑えきれないと言う様に、はしたなく声を高らか響かせる。
きっと直ぐにお父様が憤怒の表情で来るに違いない。
でも、関係ない。漸く私は『酢』を完成させる事が出来たのだから。
グラスの中で、紫色の僅かに透明な液体を見つめた。
少しだけなめてみる。
うん、味も完璧に酢の味だ。
次はワイン瓶を目に映す。瓶の底にブドウの実が二つ沈んでいる。
やっぱり、追加で酢酸菌を入れたのが良かったのね。
早取りのブドウを、無理言って譲ってもらったかいがあったわ。
思わず笑顔になる。
これで、ジョシュア様にもお勧めできるわ。
漸く何故か『酢』の無いこの世界に、初めての一歩が踏み出せると事。
努力が実った気がして、私のにやけ面は中々直りそうにない。
グラスの中のビネガーを見つめながら思う。
今回は赤ワインから『酢』を作ってみたけれど、今度は白ワインから『酢』を作ってみようかしら。
赤ワインは作るのが大変だけど。白ワインなら私の手でも作れそう。試してみる価値は大いにある。
そうなれば、次はワイン作りか――なんて。
次の『発酵』に私は胸を躍らせるのだ。
――ただ、問題が一つだけ。
グラスの『酢』をみて思う。
飲んでみたいのだけど。
これ、衛生的に大丈夫かしら?
普通のワインだったらまだしも、途中でブドウの実を入れたのよね。
本当はレーズンが良かったのだけど売っていなくて。
酢の中で、ブドウはどうなっているのかしら。
酢は防腐の効果と殺菌効果があるとも言うけれど、1ケ月前よね?
――これ、このまま直に飲んでしまっても大丈夫なのだろうか。
流石に、ジョシュア様にも勧められないんじゃ……?
私はグラスを片手に考える。
「――取り敢えず、あれね」
思い付いた答えは一つ。
「ホット酢にして、飲んでみましょうか?」
加熱殺菌は重要だと思う。
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