(2) 確定です
身支度を整えてバッグと部屋の鍵を手にしたところで、ふと壁にかけられた時計に目がいった。時刻は午前7時15分――最近はその数字を見る度に溜息が出た。
確信のようなものを抱きながらも、どうか今日は違っていてほしいと祈りつつ、そろりとすり足気味にベランダに歩み寄って、かけられたレースのカーテンの隙間から外を見た。
人も車も通らないひっそりと静かな通りが見える。それから一分も経たないうちに、交差点の右側道路から黒い車が現れ、アパートの斜め向かいにある住宅前にゆっくりと停まった。それは言うまでもなく、写真を撮られたのではないかと疑っているあの黒い車だ。
あの日から2週間、その車は私が出勤する7時15分になると必ず現れ、毎日同じ場所に停車するようになっていた。それでも確固たる確証がなく気のせいだと思うようにしていたのだが、さすがに2週間も続くと嫌でも私が出てくるのを待っているのではないかと思わざるを得なかった。
外に出るのを躊躇っているうちに、時間はどんどん進んでいく。さすがに出発しなければ遅刻は免れない。そんな時、テーブルに置いていた携帯に着信が入った。画面に表示されているのは〈佑君〉の二文字。かけてきたのは彼氏の佑真だった。
「もしもし……」
『涼ちゃん、おはよう。どう? 車、停まってる?』
「うん、停まってる。ナンバーも車種も同じ」
『あぁ……それさ、やっぱり勘違いじゃないでしょ』
「だ、だよね……」
再びカーテンをそっと開け、姿が見られないよう気をつけながら外の様子を窺った。
車が停まっている住宅は、一階にある私の部屋のベランダから見て、道路を挟んだ対角線上にある。こちらから見えているということは、あの車からも私が外へ出てくるのを確認しやすいということ。
さすがに三十路にもなった私が「付きまとわれている!」なんて騒いで勘違いだったらと思うと、恥ずかしくて両親にも相談できずにいた。このモヤモヤした晴れない気持ちを一人抱えているのも辛くて、悩みに悩んだ末に彼氏である佑君にだけは打ち明けていた。
考えすぎだと馬鹿にされることも覚悟したけれど、佑君は真剣に私の言葉に耳を傾け、私の直感が間違っていないのか確かめるため、二週間ほど様子を見て証拠を集めようと言ってくれた。車のナンバーや車種、現れる時間帯を記録するよう冷静に指示を出してくれたおかげで、私の感じた異変は正しかったのだとわかった。
「あの車、やっぱり私のこと待ってるのかも……」
『〝かも〟じゃないよ。涼ちゃん、それ間違いなくストーカーだよ。それで、まだいる?』
苦々しく唇を噛み締めながら、様子を見ること五分。私が現れないことに痺れを切らしたのか、そろりと滑るように車を発進させていなくなった。アパートの横を通り過ぎ、車が見えなくなった瞬間に安堵の溜息がもれた。
「行った! いなくなったよ」
『もう少し待ってから出た方がいいよ。コンビニで待ってるから、気を付けてね』
「うん、ありがとう。すぐ行くね」
電話を切り、五分ほど経ってからからアパートを出た。
近くに車が隠れていないか辺りを見回し、車のエンジン音が聞こえないか耳を澄ませたりするこの作業が最も面倒だ。どこかで見られているのだと思うと気が気ではない。
一体、あの運転手の目的は何なのだろう。写真を撮られたことや毎朝アパートの前で待ち伏せをされている以外、今のところ何も起きていない。大きな動きがなく被害にも遭っていないのが幸いなのだが、これがストーカーに遭っているのかと言われると、はっきり断言するのが難しい状況だった。
見えそうで見えないもどかしさと苛立ちを抱えながら、佑君の待つコンビニへ向かって駆け出した時だった。目の前の交差点の右側道路から、スーッと車が侵入してこちらへ曲がってきた。それはいなくなったはずの、あの黒い車だった。
車は再びいつもの住宅前に速度を落として停まった。私の心臓は激しく動いているのに止まったような感覚を覚えた。
「ここで動揺したら駄目だ……!」
震える足を動かし、平静を装って通り過ぎた。素知らぬ顔でいつもように角を曲がって、見えなくなったところで猛ダッシュ。コンビニの前に止まっている佑君の車を見つけてすぐさま乗り込んだ。
「どうしたの、涼ちゃん!?」
あまりにも慌てて飛び込んだせいか、ドアを開けた瞬間に佑君がビクリと大袈裟なくらいに体を跳ね上げて驚いていた。
「戻って来たの! あの車っ……いなくなったと思って外出たら、同じ道から来たの」
「えっ、マジ?」
息が上がった私と、不気味さに表情が強張る佑君と無言のまま見つめ合って息を呑だ。
戻って来たということは、間違いなく私のことを捜していたということ。そうでなければ、わざわざ同じ道を辿ってくるはずがない。
血の気が引く感覚を味わいながら、何と言っていいのかわからずに沈黙が続く。この状況をどうすべきなのか、互いに考えていた時だった。運転席にいる佑君越しに、あの黒い車が入ってくるのが見えた。二台分離れた駐車スペースに停まったのを見た瞬間、私は素早く体を屈めて隠れた。
「涼ちゃん!?」
「あの車、そこに停まってる!」
「えっ!」
佑君は持っていた上着を私の頭からかぶせ、見えないよう自らの体で壁を作ってくれた。私は大勢を低く保ったまま、佑君の陰からこっそり顔を覗かせて様子を窺った。
「どうしてここに……?」
「ずっと気になってたんだよね。あの車のヤツは、どうして涼ちゃんのストーカーをするようになったのかなって。それってさ、どこかで涼ちゃんを見たからでしょ?」
「それが、コンビニ?」
「涼ちゃんのこと、ここで見かけたんじゃない? だから今そこにいるわけだし、ここに立ち寄るのも知ってたわけでしょ?」
私は必死に記憶を辿ってみたものの、勘違いさせてしまうような行動をとった憶えが全くない。カフェラテを買うこと以外に興味はないし、いちいち居合わせた客の顔なんて覚えていないだろう。
そうこうしているうちに、黒い車のドアが開いて男が降りてきた。車内に走る緊張を感じながら、食い入るように見つめていた。
「うわっ」
「ちょっ、嘘でしょ。何、あれ……」
紺色のスーツに身を包んだその男は、190近くはあろうかという大男だった。少しでも体を屈めたらスーツがはち切るのではないかと思うほどの筋骨隆々のがっちり体形だ。顔立ちからみても歳は50を越えているだろうか。そして何より目を惹くのが、つるんと輝く頭頂部。それはまさにマッチョなザ〇エルだった。
男は何かを探すようの周囲を見渡し、そのまま店内へ入っていった。驚きのあまり息を止めていたらしく、私と佑君は同時に息を吐き出した。
「ちょっと、思ってたのと違うね……」
「俺、もっと若いヤツだと思ってた。オッサンだったよ?」
「なんか急に怖くなってきた……」
放心状態のまましばらく動けずにいたものの、このまま駐車場にいればあの男に見つかると思った佑君は、すぐにエンジンをかけてコンビニから離れた。
何から話せばいいのか言葉が見つからず、職場へ向かう車の中は沈黙で満たされる。五分ほど走らせたところで信号に掴まり、停車したタイミングで佑君が静かに切り出した。
「あのさ
「う、うん」
「警察に相談しようよ」
それがこの状況を解決する最善の方法だということはわかっていた。ただ、私は素直に頷けずにいた。
「でも……勘違いだったら恥ずかしいでしょ?」
どうしても引っかかるのは、私がそういう類の対象であるはずがないという感覚だ。もっと若くて可愛らしい女性なんて山ほどいる。そんな中でわざわざ三十路を選ぶわけがない。それが警察に相談するというハードルを越えられずにいた。
「誰が三十路相手にストーカーなんてするかって、自意識過剰だって思われそうだし」
「いやいや、そんなこと言ってる間に何かあったらどうするの? 相談して調べてもらって、何もなければそれで安心できるでしょ?」
「うん」
「明日からはアパートまで迎えに行くし、職場まで送っていくから。早めに相談するんだよ?」
私は頷きながらも、まだ躊躇いを拭いきれていなかった。
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