【1】マッチョザ〇エル編
(1) 異変は突然に
代り映えのしない日々の中に、ふと紛れ込んだような異変に気付いたのは桜が咲き始めた春先のことだった。
いつもように軽めの朝食をとってアパートを出ると、玄関先で携帯を取り出し、コンビニの公式サイトを開いて、今日は何を買っていこうか、なんて心を弾ませながら画面を眺めた。毎朝、近所のコンビニでLサイズのカフェラテを買い、職場のデスクでそれを飲みながらメールチェックをするのが日課だった。
「今日は期間限定の桜ラテの発売日だったね。カフェラテじゃなくて、今日はそっちにしようかな」
商品名と発売日をしっかり確認し、コンビニへ向かって歩き出した時だった。
アパートから十数メートル先にある交差点の右側の道路から、こちらへ向かってゆっくりと曲がってくる一台の黒い車が視界に入った。
出勤する時間帯が早いことも理由の一つだが、私が住んでいるアパートは住宅街の中にあって車の往来はほとんどない。おまけに車の色が黒だったこともあって、何となく気になって目で追っていた。
車は交差点の角に建っている一軒の住宅の前でゆっくりと停車した。車の運転手はその家の住人なのか、あるいは親族か職場の同僚にでも頼まれて迎えに来たのだろうか――そんなことをぼんやりと想像しながら道路を横断し、停車している車の傍を通り過ぎた時だった。
―― カシャッ
私の耳に聞き覚えのある音が届いた。
驚いて振り返った瞬間、停車していたその黒い車は素早くエンジンをかけて走り去ってしまった。それは妙な違和感というか、直感とでもいうのか。目覚めの悪い夢を見た後のような、なんとも晴れない嫌な気分に襲われていた。
「今の音って、カメラの音だよね……?」
運転手の男は誰かに電話をかけていたのか、右耳に携帯を当てている姿が走り去る直前に一瞬だけ見えた。
私の勘違いだろうと思おうとしたのだが、目にした光景はどう考えても違和感しかなかった。住宅の前に車を停めたにも関わらず、運転手は降りてくる様子もなければ、住宅から誰かが出てくる様子もない。
〝おかしい〟――その言葉が一瞬で体を駆け抜けた。
状況として〝電話がかかってきて車を停めた〟なら話はわかる。だが、あの運転手はその逆の状況である〝電話に出た状態で車を発進〟させていた。普通に考えてもあり得ないことだった。
「もしかして、電話をかけるふりをして、私を撮った……?」
車の傍を通り過ぎた時、耳に届いたあの音は間違いなく、携帯で写真を撮影した時のシャッター音だった。あくまで推測でしかないのだけど、その理由ならば電話をかけながら車を発進させたことの説明がつく。耳に当てた時、外側にあるカメラは私の方に向いていたのだから。
「まさか、そんな。いやいや、考えすぎだよね」
嫌な冷や汗がどっと吹き出して気分は最悪だったものの、自意識過剰だろうと思い直していた。
私はすでに三十路を迎えていた。肌も艶々で素足でも平気でスカートをはけてしまう一〇代の若い子ならまだしも、三十路の私を撮影するためにあの運転手が車を停めて待っていたとは到底考えられない。
「きっと、私の聞き間違いだよ」
小さな棘のような違和感は残っていたものの、あり得ないという言葉でその日は片付けてしまっていた。ただ、私の直感も強ち外れてはいなかったのだと早々に思い知らされることになった。
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