第7話 一人では生きて行けないがキリストがいる
野田師は、暴走族仲間とシンナーを吸いながら駄弁っていた真夜中の公園で、今度は、聖書を片手に説教をしている自分自身が不思議だった。
野田師は、聖書学院に通い牧師になることを決心した。
残念ながら野田師は、学校の勉強にはついていけなかったが、読書は好きで三浦綾子の「塩苅峠」や太宰治の「走れメロス」はよく読んでいた。
特に塩苅峠で、他人のために命を賭けるという生き方には感動した。
イエスキリストは、神の子で罪のない人であったが、神は人間の罪の身代わりとしてイエスキリストを十字架に架けた。
だからイエスキリストを信じるだけで救われる。
イエスが架けられた十字架の隣にいる人物は、なんと強盗バラバだったのである。
「どうして罪もないあんたが、俺と同様に十字架(処刑道具)につけられるかが、不思議である。あんたは天国に行くに決まっているが、俺のことも思い出してくれたらなあ」とつぶやいたという。
イエスキリストは、十字架の処刑された。
最初にイエスキリストの墓を訪れたのは、当時売春婦だったマグダラのマリヤだった。イエスキリストは100%神であったが、人間の肉体をもって地上に降臨してきたのだから100%人間であった。
だから当然マグダラのマリアに対しても欲望があってもなんら不思議ではなかったが、他の人と違ってマリアを差別することなく、一人の女性として接していたのだった。
イエスキリストを伝えた最初の伝道者は、マリアだったのかもしれない。
イエスキリストは十字架に架けられいったんは息を引き取ったが、三日目に死人のなかから蘇られた。
イエスキリストはバラバの予想通り、天国に行ったというより、天国の神の下へと戻っていった。
だから、イエスキリストは今も生きておられるのである。
イエスキリストを十字架に架けたのは、律法学者やパリサイ人など当時身分の高い権力者であったが、原因は人間の罪のあがないのためである。
野田師は、そのとき確信した。
どんな罪をもっていても、イエスキリストを信じれば救われるんだなあ。
人は罪責感をもつと心が痛くなり、闇の世界に引き込まれるようになるという。
一度闇の世界に入ると、類は友を呼ぶの通り「ワルにはワルの匂いがする」通り、いろんな悪党が最初は優しい言葉で近づき、悪事に利用しようとする。
オレオレ詐欺の受け子でも同じことである。
一度身分証明証を見せると、相手は弱みに付け込み、執念深くまとわりついてくる。
たった一度の金儲けが、一生の闇の道へとひきずりこまれる結果へとなるのである。
ちなみに野田師の友人は、イエスキリストを選んだ野田師とは違い、反社事務所への就職(?!)を選んだ。
これで暴走族時代、今まで歩んできた二人の道は、Yの字のようにまったく別方向へと別れた。
「あなた(人間)が私(神)を選んだのではない。
私(神)があなた(人間)を選んだのだ」(聖書)
まさに野田師は、神から選ばれたのだろう。
神が選ぶ基準というのは、この世の基準とは違う。
この世のように容姿端麗、能力旺盛、社交性優秀などではけっしてない。
むしろこの世において、そういった人は悪事に利用される危険性大である。
この世は所詮、人間の都合ー健康、金銭、人間関係であるが、神の基準はそれとは別のところにある。
野田師の、昔の暴走族時代の後輩は意外と野田師のキリスト信仰を受け入れてくれた。
しかし牧師となると話は、少々変わってくる。
暴走族リーダー、ナイフ使いの名人、少年院上がりが果たして牧師になれるの?
世の中はそんなに甘くない。
一度悪のレッテルを貼られた人が、そう簡単に更生し、世間に受け入れてもらえるのだろうか?
まあ、しかし野田師はキリストの道を選んだのだ。
キリストが野田師を力づけてくれるだろう。
「まことにまことにあなた方に告げます。
イエスキリストを信じ、敬虔に生きる人は誰でも皆、迫害にあいます」(聖書)
人は決して敬虔ではなく、欲深い。
事実私は、高校時代、洋服を貸してやるというお誘い(?)を断ったばかりに、グループ三人から総スカンにあってしまったことがある。
そのとき洋服を借りて、返せなかったらどうなってただろう。
謝ってすむ問題なのだろうか?
世の中は愛想で人を釣り、お互いの都合で受け入れようとする。
しかし、都合が合わなくなると去って行く。
戦争とはお互いの利害があわなくなったときに、生じるものであるが、一度相手から被害を受けると、復讐心が芽生えるので、なかなか元には戻らない。
ウクライナ戦争はいつ終結を迎えるのだろうか?
仮に終焉を迎えたとしても、ロシアに対する復讐心は消えることはないだろう。
野田師は、今自分では一人ぼっちではないという確信を得た。
だからこそ、眉をひそめられるのを承知の上で、過去を語ることができる
私は主にふれられて 新しく変えられた
イエスの御名をほめ歌おう 私は変えられた
イエスの恵み イエスの愛
何ものにも代えられぬ
主を愛して主に仕えよ 新しい心で
イエスの御名をほめ歌おう 私は変えられた
そう、世間というものは、一度過ちを犯すとそう簡単には忘れてもくれないし、許してもくれない。
再犯率は六割を超えるが、やはり前科者という色眼鏡で見られるのが原因である。
人をだましたり、悪に引きずり込む人は、最初は決して金の話などしない。
おごってやったり、いろんな知識を提供することにより、友達いやそれ以上の身内のような関係を築き、結局金のために利用するという。
最初から金の話をすると、誰でも皆警戒する。
ここだけの内緒話というのは、人のゴシップだと週刊誌並みに伝わるが、あなたにだけしか教えない金儲けのこっそり話というのは、不思議と一人占めし、伝わることはまずない。
まあ、現実は儲け話などないのである。
「あなたが富に目を向けると、まるで鳥のように飛んでいってそこにはないだろう」(箴言)
「人は神と富とに兼ね仕えることはできない」(聖書)
実際、富を得た人は人付き合いはせず、親戚づきあいは毛嫌いして一切せず、ひたすら金ばかり握っているー残念ながらそういった人に限って、金銭ばかりか土地、不動産、店舗にまでわたりだまし取られる取り込み詐欺にあうのであるが。
やはり金銭は血液であり、使うべきものである。
野田師は、別の県の教会に通っていたが、地元で野田師を受け入れてくれる教会は、そうない状況だった。
そんなとき、報道番組で元反社の神学生がいるという話を聞いた。
なんでも、ミッションバラバといい、元反社が伝道活動をしているという。
番組では、阪神大震災のときに励ましの意味で、伝道をしていた。
ミッションバラバは今は独立し、それぞれ牧師や伝道師になって活躍している。
ミッションバラバのメンバーの一人で、野田師の地元と近い地区で教会を牧会している男性がいた。
金沢師といい、広域暴力団の若頭補佐であったが、内部抗争に巻き込まれ殺されかかり、キリスト教に帰ったという。
金沢師は、元々親がクリスチャンであり、幼いときから教会に通うのが当たり前であったが、そのときは十字架の意味もわかっていなかったという。
中学に入ってからは、カッコよさに憧れて長らんにボンタンズボンというヤンキーファッションをするようになった。
高校に入学してからは、暴走族がカッコよく見えるようになり、実際暴走族に入っているうちに、出席日数が足らなくなって中退。
ブラブラしているとき、暴走族時代の先輩から札束を見せられ「反社になったら、こんなに金が儲かる」と錯覚し、反社になろうと決意した。
しかし、反社になるにはそれなりの修行が必要である。
まず、二十四時間中正座をさせられ、頭から氷水をぶっかけられるが、声ひとつあげてはならない。
親分の命令は絶対であり、待ち合わせ時間は秒単位である。
何時何分何秒に集合と言われれば、一秒も遅れてはならない。
遅れた子分が日本刀で切りつけられていたが、これは金沢師に対する見せしめであろう。
やはり暴力団というだけあり、暴力で人を支配しようとして、カタギから金を脅し取る。
まあ現在は、暴力団と名乗った時点で行き場がなくなってしまうが。
野田師は、今まで見つからなければ何をしても許されると思っていた。
仮に誰かに見つかったとしても、相手に暴力を振るえば相手は弱気になって引っ込むと思っていた。
暴力が嵩じて刃物になり、人を傷つけたという罪責感からシンナーに走るようになっていったという。
野田師の母親は「私は兄が無くなると骨が壊れそうになるが、あんたが死んでもそうは思わないだろう」と言ったというが、その言葉に野田師はショックを受けたという。
しかし後に「(野田師の代わりに)私を刑務所に入れて下さい」と言ったというのがわかり、涙を流したという。
ちなみに、暴走族というのはある意味、格差社会から生じた産物だろう。
伝説の大親分山口組田岡組長は、不倫の子であり孤児だという。
高知県出身で不倫の子として産まれたが、五歳のとき実母が亡くなり、神戸の親戚に引き取られたのであるが、そこでひどい虐待を受ける羽目に陥った。
小学校もろくに通わせてもらえず、神戸港の肉体労働ばかりさせられていたという。
だから、田岡組長にしてみれば、親がいて帰るべき家があり、学校に通わせてもらっている家庭が幸せな状態であったという。
暴走族などとんでもない理解不能。高価なバイクに洒落た革ジャンを着て暴走行為を繰り返す。
田岡氏曰く「あいつら、親がいるのにどうしてこんなことをするのか?」
不思議でしかないという。
もちろん暴走族が世間から容認される筈もない。
高校生が暴走族の集会に二回行くと、退学という処分が下される。
野田師は、暴走族とは違う別世界へ行きたがったが、暴走族の後輩に慕われ、また暴走族の世界ではいっぱしの人物になっていた今、後戻りはできなかった。
高校もすぐ中退してしまった野田師に残された道はそう広くはなかった。
しかし、金沢牧師が卒業した寮制度の神学院に行き、牧師になるという大きな希望の光があった。
(参考図書「私を代わりに刑務所に入れて下さい」著 野田詠氏)
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