第2話 宗教女 山川さんの結婚破綻

 山川さんはこう言った。

「あなた、食事のマナーの本読んだ? 

 私はあなたに食事のマナー教室に行くことを勧めるわ」

 えっ、食事のマナーの本は聞いたことがあるが、食事のマナー教室というのは聞いたことがない。

 第一、私はそんなに人に迷惑をかけるほど、妙な食事の仕方をした覚えもない。


 ちなみにスパゲッティーやパスタは、フォークに麺を巻き付けることによってすすらずに固体を食べるようにして静かに食べるが、蕎麦はすするようにして食べるので、多少ズルズルと音を立てた方がいいという。

 インドでは手づかみで食べるのが当たり前だという。

 だから、具ののっていないピザのようなナンが流行っているのだろう。

 

 私は失礼な物言いをする山川さんに、敵意と気味悪さを感じた。

 私個人に失礼な物言いをするだけではなく、会社の先輩にまで言い触らしてまわるとは。

 ただの変人ではなく、私の会社生活を脅かす恐れのあるとてつもない迷惑な人だ。

 自分ではそれが悪気がなく、正義であると思っているところが始末に悪い。

 

 ある日、山川さんから妙な電話がかかってきた。

「この前、会社からファーストフードに行ったとき、珈琲カップの持ち方が違うという報告が入りました。あっ、気にしないで、気にしないでね」

 また妙な癖が始まった。

「お父様とお母様によろしく」

 やはり自分が正義だと思っている。

 始末に悪い人だが、悪気がないだけに憎めない。

 しかしそれが山川さんとの最後の電話となった。


 三年後、私は山川さんと繁華街でばったり出会った。

「ご主人とこの前、お会いしましたよ」

 山川さんは、軽い笑みを浮かべながら言った。

「あら、そう。あっ、あらそうだって」

 私は一瞬キョトンとした。

 あら、そうだということは、もう二人は夫婦ではなく、別の道を歩み始めた他人だということなのだろうか。

 やはり山川さんは、一般人とは同じ道を歩めなかったのだろう。

「元気でね」といった表情に妙な落ち着きさえ感じられた。

 山川さんは、これからも我が道を行くのだろうか?

 人が食べている仕草を上目遣いにじろじろと観察し「食事のマナーが悪い」と怒鳴りつけ、職場につまらない噂をたててまわる。

 そんな生き方がいつまで通用するのだろうか。

 いつしか、人の恨みを買うときが訪れるのではないだろうか。


 それにしても、山川さんは世間知らずの純粋な変人としか言いようがない。

 人の向かい合って食事をするとき、上目遣いで観察し

 食べ終わってレジを済ませたあと、なにごとが起ったかのような凄い剣幕で

「あなたは私とは食べるスピードが違う。

 お茶碗の持ち方も お箸の持ち方も違う

 食べるときはむしゃむしゃ、ズルズルと音をさせ

 おまけに「先食べていいですか」と断りを入れなかったでしょう」 

 えっ、私そんな失礼な食事の仕方をしたでしょうか?

 なにか、人を怒らせるようなことでもしたでしょうか?

 私はそんなに人から怒りを買うほどの 極悪非道の大悪人なのでしょうか?


 疑問ですらある。最大の悲劇は喜劇でしかないというが、もう笑うしかない。

 あげくの果てに、会社の経理課の先輩に食堂でのうどんの食べ方を聞いてまわり、その芳しくない事後報告ーお箸の持ち方が、いやつるつるとうどんをすするなどーをしてワザと相手を不愉快にさせたりするーこのことが正義だと思っているのだろうか。百人いれば百通りの正義があるというが、これが山川さん流の正義なのだろうか?!

 社内結婚をしたあとでも、人事部長に遅刻をしているかそうでないかの素行調査を依頼しようとしたり、相変わらず食事の仕方について怒り出したり。

 山川さんは「高校は山の上の高校に通っていたの。私たちは下界に降りてはならないと言われていたの。だから、下界のことはなにも知らないし、何もわからない」

 このことを人に言うと

「へえ、じゃあその山の上の高校は自給自足ですか。下界の人のつくったものを食べ、下界の人のつくった製造品のおかげで生活しているんですか?」

 奴隷制度がなかったのは日本だけだったというが、じゃあ一般世間の下界の人というのは、山川さん以下の身分の低い人間とでもいいたいのだろうか?

 首をかしげるほど不思議である。

 やはり山川さんは、下界の男性とは離婚という結果に終わったが、それも本望だろう。

 今はどうしているのだろうか? いつか大きな爆弾が降りかかるときがきそうな気がするが、そのとき、山川さんはどう対処するのだろうか。

 もしかして、山川さんのような人こそ、聖書の言葉が必要なのかもしれない。

 この世とは違う世界で生き、この世とは違う価値観をもった女性ー変人という一言で片づけてしまうには、あまりにも変わりすぎているが、それを打ち砕くのは聖書の御言葉しかないような気がする。

「聖書の御言葉は骨の髄にまで響く」(聖書)

 山川さんがこれからどのような人生を歩むのかは、見当もつかないが、少なくとも悪の世界にだけは堕ちてほしくはないと祈った。

 世の中には、山川さんのような世間知らずの妙な癖をもっている人を利用、いや悪用してやろうとする輩も存在している。

 山川さんが、どうかそのような悪の渦に巻き込まれないように。

 悪とは無縁の世界で、まっとうに生きてくれることを祈った。



 

 


 

 


 

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