第2話 幼馴染と隣の席②
五限目の授業は日本史で、先生の低い声と黒板をかけるチョークの音が、腹が満たされた午後一番に、いつも眠気を誘ってくる。
だが、今日という日は、そんなことも気にならない程に目が覚めてしまっている。
隣に座る
机をくっつけたせいで、僅かな息遣いも聞こえてきそうになるが、意識しないように授業に集中する。
そう思って黒板の方を見ていたのだが……
スッと、視界の端で何かが動いた。
なんだ?
と思って目を動かすと、繋がった机の上に広げた教科書の上に、更に一冊のノートが広げられていた。
姫榊のノートは美しい筆跡で、非常に丁寧にまとめられている。思わず感嘆の声をあげそうのなったが、それよりも、そのノートの下のスペースに目を惹きつけられた。
そこには授業内容とは関係のない一文が、少し乱雑に書かれていた。
“なんで無視するんですか”
…………え?
どういうことだ。と、ちらりと姫榊の方を見ると────
「っ!?」
ジトり。と、姫榊は眉間に皺を寄せて、俺のことを力強く睨みつけていた。
むむむむ……という、唸り声が聞こえてきそうなほどに、その表情はストレートに俺への不満を表しているのが見て取れる。
気圧されて、堪らず俺は目を逸らした。
コツンと、今度は足を軽く蹴られた。
別に全く痛くはないが、びっくりして飛び上がりそうになり、再び横目で姫榊を見ると、真面目な顔で彼女は黒板の方を見ていた。
授業を熱心に聞いている……フリをしている。
“なんで無視するんですか”
その一文に目を落とす。
すると、悩む暇もなく、姫榊はその一文をぐるぐると丸を描いて、何重にも囲み、その左上に“Q”と書いて、更に下のスペースに“A”と書いて、長いアンダーラインを引いた。
「なんで」と言われても……
しばらく話す機会がなくて、いざ話そうとするとなんだか気まずくなってしまったのが原因だ。
ただ、そもそも気まずいと思う原因はなんだろう。
それはきっと、『異性として見てしまう部分が大きくなってしまった』からなのだろうけど……それを直接伝えるのは、なんだか少しは恥ずかしい。
トントントン……と、答えに悩んでシャーペンを自分のノートの上で叩く。
その間も授業は進んでいるので、少し目を離した隙に文字が増えている黒板を見て、慌ててノートをとることにした。
その行動がまた無視されたと思われたのだろう。
姫榊は右手で自分のノートをとりながら、左手は俺のノートに伸ばして、器用に二つの手で別々に文字を書き始める。
しかし、姫榊は右利きなので、当然慣れてない左手では、文字は崩れて大きさもバラバラだ。
それでもお構いなしに彼女は書き続ける。
”なんで
なんで
なんで
なんで
なんで“
怖い!
文字が不安定なのもあってすごい恐怖を感じる!
とりあえず、何か彼女の気を静めるような言葉を容易するしか……そう思って、先程の“A”の部分に解答を書く。
“無視してない”
…………そんな訳がない。
小学生の言い訳でももっとマシなことを言うだろう。
明らかに目を合わせないようにして、目が合ったら逸して、そんなことをやられてる本人からしたら、「無視してない」は無理がある。
姫榊の顔は「は?」と言いたそうに、ぽかんと口を開けていた。
先程の怒った顔といい、恐らく他の人が見たこともないような表情をしていて、少し優越感に浸れる……こともなく。
姫榊は“無視してない”の一文の最後の二文字”ない“の部分に大きく☓印を書いて消すと、その下に“ます”と書いた。
“無視してます”
という文章に瞬時に書き換えられ、俺はもう何も言えなくなった。
悩んでいると、姫榊が先に自分のノートに書いて見せてくる。
“嫌いになりましたか?”
その文章にドキリとした。
決してそんなことはない。
姫榊の顔を見ると、今度は彼女の方が目を合わせないように俯いていた。
決して姫榊のことを嫌いになった訳ではない。幼馴染として、再び仲良くなれたらそれは俺としても嬉しい。
姫榊にそう思わせてしまったのは、俺に落ち度がある。ならば、恥ずかしいという気持ちなど捨てて正直に言うべきだ。
トントントンと、シャーペンで数度ノートを叩いた後に、自分のノートに書いて見せる。
“ヒサカキさんがキレイになったから緊張してる”
そんなことを書いてしまって、背中が少しに熱くなる。
多分、簡潔に表すのなら……言い訳をなくすのならこういう言葉になるだろう。
その一文を読んだ姫榊が、横目でこちらを見てくると、俺は恥ずかしく目を逸らしてしまう。
またやってしまった。と思ったが、先程までとは違う意味で逸したのが伝わったのか。今度は責めてこない。
俺は更にノートに追記する。
“だからごめん でした”
ちらりと、姫榊の方を見る。
姫榊は少し口を尖らせて、じっーとその一文を眺めると、シャーペンを持つ。
すると姫榊は“ヒサカキさん”の“さん”の部分を丸で囲んで“?”と書いた。
反応するとこそこなのかよ!
いや、言いたいことはわかるけども……昔は呼び捨てで読んでいた間柄だったし、ツッコみたくなるのはわかる。
だが、それでいうなら姫榊の敬語もおかしくないか?
どうにも腑に落ちないように思っていると、姫榊は更に追記する。
“ヒサカキ”の上に“姫榊”と……
それは許してくれよ!
漢字で書けないんだからしょうがないだろ!
周りに聴こえないように息を吐いた。どうやら姫榊はまだ少し拗ねているように見えて、横顔が未だ俯いたままだった。
ならばどうするか。
やはり言葉で伝えるべきかと、俺は意を決して、なるべく小さい声で呟いた。
隣にいる姫榊以外には聴こえないように、慎重に……。
「その、ごめん……琴歌」
ただ名前を呼んだだけなのに、恥ずかしさが込み上げて、首の裏に気持ちの悪い汗が吹き出すのを感じる。
授業が早く終わって、この状況から開放されることを望んだ。その時だった──
「いいよ」
タメ口で、消え入りそうな声で姫榊が呟いた。
口を固く閉ざして、横目に見てくる青い瞳が微かに揺れていた。彼女の頬が少し赤くなっているように見えて、なんだか扇情的にも見える横顔に、俺は目が離せなくなった。
そこで授業を終えるチャイムが鳴り響いて、ハッと我に帰る。
「よし、じゃあここまで」
先生がそういうと日直が号令をかけて授業が終わる。
机を離す時、姫榊は俺のノートに手を伸ばして、何かをサッと書きのこした。
そこには大きく“65”と書かれていて、その数字の下には二本の線が引かれている。
これはまるで……。
「及第点です」
「えっ」
座ったまま顔を上げると、俺のことを見下ろしている姫榊と目が合った。
ジトりと目を細めていたのも一瞬、すぐにいつも皆が見ているような、優しい笑顔を作り出す。
「ありがとうございました。依河くん」
「あ、ああ……また何かあったら、遠慮しなくていいからな。姫榊」
それはもう一度小学生の頃のように、仲良くなれたら、という意味を込めて言ったつもりだが……。
「……遠慮してたのはどっちなんでしょうか」
「うっ……」
俺にだけ聞こえるように呟いた言葉が、深々と胸に刺さった。
姫榊は自分の机を元の位置に戻すと、ノートを机の中にしまう。
自業自得ではあるが、冷たい態度の幼馴染に頭を掻いて苦笑する。
“65点”
そう評価された。ノートの一ページは酷い有様だったが、戒めとして消さないで置くことにする。
誰にでも優しい幼馴染は俺にだけ厳しい。
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