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よくしゃべるツインテールと分かれた俺は、自分の教室のドアを開く。がらがらと福引きのような音に、少し心地よさを感じた。
残念ながら、俺の高校デビューを飾る栄光の勝利は煙となって消えた。まだ燻る気持ちはあったが、一番でなかった事実は覆せない。
俺は大きく深呼吸する。切り替えていこう。俺の高校生活三年間は、まだホイッスルが聞こえている段階なのだ。
ちらと時計を見やる。6時50分を回ったところだ。
始業までまだ一時間以上ある。ひとまず自分の席に着き、鞄を置いて疲労した脚を投げ出した。
「……何しような」
独り言をつぶやいても、聞いているやつは誰もいない。
一番に着くことだけを考えていたから、それから始業までの時間をどう過ごすか、完全に抜け落ちていた。
そういえば、二階堂はどうするのだろう。机に伏してゆっくり休息でもとるのか。はたまた誰も居ないのをいいことに携帯ゲーム機にでも手を伸ばすのか。
二階堂の行動予想のうち、前者の回答が明るく点灯した。
今日のための十分な睡眠と食事のおかげか、眠気や倦怠感はほとんどない。しかし、メンタルの方は、気持ちが二転三転したせいで、底にたまったシェイクみたいによどんでいる。
学校一番乗りを目指したからと言って、通常の学校生活をおろそかにする理由にはならない。
今日からは授業だ。一日を乗り切るために、しっかりリフレッシュしておくのは悪くないな。
俺は隣の机を持ち上げ、自分の机に合わせる。何も入っていない机は、中学の机よりも軽く感じた。
ただ休むだけじゃ、面白くないよな?
当初の目的こそ果たせなかったが、転んでただで立ち上がる俺ではない。クラスで一番早く教室に入った男にはなれた。まだ顔と名前の一致しないクラスメイトたちがたどり着くまで、俺はこの教室に一人君臨する支配者なのだ。なれば、休み方もそれ相応のものにしなくては。
俺は上着を椅子にかけ、つなげた二つの机の上にゆっくりと身を横たえた。
「~~~~~っあ!」
テーブルクロスになったつもりで手足を投げ出し、背骨を伸ばす。
こんな大胆なことができるのも早朝登校ならではだ。
なんという開放感……俺の行為を邪魔するものも、咎めるものもこの教室には居ない。
俺は全身から力を抜き、その身を重力に任せる。首の支えを失った頭がリノリウムの床へ向かう。逆さまの教室。机と椅子の脚が茂る植物のよう。視線の先にあるドアは少し浮かんで、まるでからくり屋敷だ。こんな風景をいったい何人の生徒が見るだろう。
優越感に頬を緩めた瞬間、ガタリとその逆さのドアが揺れた。誰も来ないと思い込んでいた俺は驚いた。
誰だ? 二階堂か。あるいはこのクラスの生徒か。先生か。誰にしろ、早く机から降りなければ……。
と、思ったときにはこの教室のドアが、すーっと、まるで自然現象のようにスライドした。
上下の反転した女子生徒が、不安げにうつむいて入ってきたとき、俺は頭に血が上ってきたのを感じたのだった。
奇行におよぶ俺を認めた女子生徒がアッと小さく悲鳴をあげる。いや、悲鳴をあげたんだと思う、口が開いていたから。しかしそれは本当に小さな、小さな悲鳴で、その後には彼女のふんわりとしたセミロングがセーラーに擦れる音すら大きく聞こえた。
見覚えのある顔だ。誰だったか。無言で机から体を降ろしながら考える。
セミロングの女子が救いを求める目で廊下を振り返る。その横顔が、俺の記憶の一片にぴたりとシンクロした。
思い出した。同じクラスの「
わりに寝た机、その片割れの持ち主だ。
いやな沈黙が教室を覆う。学校から貸与されている机の持ち主は生徒なのだろうかなどと考えている場合ではない。しかし、場を取り繕おうにも、もはや目を合わせることもできないほどの羞恥が思考を鈍らせていた。 結局俺は何事もなかったかのように机を元に戻し、自分の席でじっと手のしわを数えた。
一瞬だけチラと三上を見ると、まだドアレールの上で躊躇していた。
顔の火照りが治まらぬまま観察対象がしわから爪に移った頃、ようやく三上は自分の席に向かう。猛犬を起こさないようにするような足取りで俺の後ろを通り抜け、どうやるのか、無音で椅子を引いて腰掛ける。
机の上を払われたらヤダな、と思ったが杞憂だった。鞄を置くと教科書などを机の中にしまっていく。それも終えると、三上はグラウンドに視線を置いてマネキンのように動かなくなってしまった。
「…………」
「…………」
教室に満ちた重い沈黙が水圧のように肺をしめつける。この最悪の第一印象をもって一年のクラスメイトとなるのか。頭が痛い。
「あの……三上さん」「ヒッ…………なんで名前を……!」
「朝早いんだねぇ。どうしたの?」「イヤ……! 私にヒドイことするつもりでしょ!」
「声を出しても誰も来やしないさ」「い、イヤァァァァァ!」
うわああああああ! 会話をシミュレートしようとしたら最ッ低な想像をしてしまった。そもそも声出せば二組の二階堂が気づくだろ!
頭を振って顔の熱を飛ばす。消えろ、俺の煩悩よ、消えろ!
「あの……大丈夫、ですか?」
ドッキィィィン! という描き文字が心臓をつらぬく。
気づけば三上はこちらを見て眉をハの字にしている。
「あの……その……」
「大丈夫! 俺普通! 普通だから!」
『普通だから』ってなんじゃい!
「えっ……でも、あ、足……」
「足? あっ」
ひょっとして。
三上の指先からたどると、俺の俺の毛羽立ち、砂の付いたスラックスの裾が。そういえば、リムジンを避けようとして派手に転倒したんだった。大丈夫って、これのことか?
「ああ、来る途中転んで……大丈夫、大したことは……」
無事を示そうとズボンをめくる。それを見て、三上はまた声なき悲鳴をあげ、俺もうっと唸った。
思いのほかひどい傷だった。皮の裂けたすねは血がにじんで真っ赤になっている。流血もしていたようで靴下に血が染みていた。
知覚すると急に痛みを感じ始める。空気に触れるだけでつうと冷たさが走る。
「参ったな。保健室、まだ開いてないだろうし……」
休み時間にでも行っておくかと、まくったズボンを戻しかけた俺を「待って」と三上が止めた。
三上は鞄に手を入れる。すると出てきたのは木でできた立派な箱。それを三上はガン、と机に置く。長方形のそれには角ばったフォントでこう書かれていた。『救急箱』。
「いや、いい! 後で保健室行っとくからさ!」
ふるふると首を振る三上。その表情は、さっきのおびえる子犬のようなものから一転して毅然としている。
「まずは水道で傷を洗ってきて。準備してるから」
「いや、だから、いいって!」
自分で勝手に作った傷を、同級生に処置してもらうなんて、悪いやら情けないやらで……。
「早く。菌が入ったらどうするの」
ぴしゃり、とまるで母のように言いつけられて、俺は根負けする。今朝から負けてばっかじゃねえか。
傷口を廊下の水道で洗って戻ってくると、三上は机に敷いたガーゼの上に救急箱の中身を広げて待っていた。椅子に座るように促される。まるで、っていうかほんとに診察じゃないか。
「見せて」
か細く、しかし芯のある声に命じられ、俺は右足を差し出す。床にひざをついた三上は傷口を少し観察すると、実に清潔そうな白い布を手に取る。
「傷広いから、包帯にしておくね」
三上はふくらはぎを掴んで足を引き寄せ、ガーゼを当てる。痛みがくると思って身を強ばらせたが、むしろ包帯の巻かれた部位から痛みが和らいでいく。くるくると、まるで現役の看護師のように手際よく三上は白布を巻き付けていく。細い指先は完全にそれらの扱いをわかっていた。
「……よし。いいよ」
処置を終え、三上は甲斐甲斐しくもめくったズボンを元に戻す。それくらいは自分でやれるのに……。
「すごいな」
率直な感想だ。準備もよければ手際も良い。まるで誰か怪我することがわかっていたみたいだ。
「お母さんが、看護師で」
三上は少し恥ずかしそうに言った。
「前に教わったの。いつか助けられるから……自分も、だれかも」
「助けられたよ。ありがとう」
ぽわわ、と三上のほほに朱がさした。処置代とられるかもとか思ってすまん。
これがケガの功名か。幸運にも会話の糸口を掴むことができた。二階堂のあの顔が脳裏をよぎったのはおいといて。
「三上、さん。でよかったかな」
名前を呼ぶと椅子に横座りした由良が慇懃に頭を下げる。
「
「よろしく……って名前、知ってるのか?」
彼女は糸を解くようにほほえむ。
「席割表で……珍しい名字だったから」
俺の名字を「おまえ」とか「みさき」と読まなかった人間は数少ない。足の手当をしてくれた時点で頭打ちかと思われた三上への評価が、グラフの上辺を突き破った。
「御前零次だ。よろしくな」
三上は目を細め、にこりと笑った。こんなことを言うのもなんだが、結婚するとしたらこんな女性が良いと思う。
「三上は、どうしてこんな早く来たんだ?」
自然に切り出したつもりだったが、三上はためらうように視線を振る。しばし逡巡したのち、口を開いた。
「わたし、電車通学で……もし電車が止まったらどうしようとか、行き先を間違えたらとか考えると、眠れなくて……始発に乗ってきたの」
「心配性なんだなあ」
ちょっと過ぎる気もするが、まだ真っ当な方の理由だ。
「俺とは対称的だな」
つい思ったことを口にしてしまい、後悔する。これじゃ説明することになるじゃないか。
「対称的?」
予想通り、三上は小首をかしげる。
「俺は今日、一番に学校に着こうとしてたんだ」
「それで、ケガを?」
バカなのかな、この人。と思っていることだろう。だが俺は誤魔化したりはしない。
「まあな。しかも一番じゃないんだから笑っちまう」
「えっ。そうなの?」
実に心外そうにしてくれるが、かえって心が痛い。
「でもほかの教室……誰もいなかったよ?」
「えっ」
そんなはずはない。
「二組に二階堂――ツインテールの女子がいただろ?」
「ツインテール……ううん、窓から見ただけだけど、誰も……」
「……トイレでも行ったんだろ」
ガララララララとドアが引かれ、おまけにバシャンッとドア縁にたたきつけられた。驚いた俺たち二人は同時に肩を跳ねさせる。
誰だ誰だ、そんな「話は聞かせてもらったぞ!」的な入室をするのは。俺たちは何も耳寄りな話はしてないぞ。
三上にはすでに見えているであろう来訪者の方へ、俺も振り向く。居たのは二階堂でも、先生でもなかった。
「あなたたち、一年生ね」
教室に満ちた穏やかな静寂を斬り伏せるような声だった。
現れたのはまたしても女子生徒。上級生かと思ったが、学年ごとに分けられたリボンの色が赤だから、同級生だ。
それより目を引くのは、彼女の腰まである黒髪だ。電気をつけていないこの教室においてもわかるほど艶々している。まるで濡れた日本刀のようだ。
黒髪を揺らして彼女は教室を見渡す。毛先が空気を斬る様を幻視した。
「来ているのはあなたたち二人だけ?」
次いで顔を見ると、それはもう、見たこと無いような端正な顔立ちだ。さらにふくらはぎ、太もも、腰、首筋、あご、鼻、目元、どのラインをとってもシュッと切れ味抜群。少し太い眉毛が意思の強さを示すようで、まるで戦乙女のようだ。
人なつこそうな三上の顔立ちとは全くの線対称。強いて残念なところをあげるとすれば、胸もシュッとしているところか……今思えば、二階堂は年の割に大きかったんだな。
「ねえ?」
「おっと……ああ、ここはまだ俺たちだけだ」
俺の答えに薄い唇が満足げな笑みをつくる。
「ちょうどいいじゃない」
「あ、あと二組に一人来てるが……」
「ああ、それはもういいわ。名前は?」
何しに来たんだおまえは。人に名を尋ねるときは、自分から名乗るものだろう。
「み、三上由良です」
言う前に三上が名乗ってしまったので、俺も後を追う。
「御前零次だ」
「午前7時過ぎだけど?」
「名前なんだ。時報じゃない」
「あら、ごめんなさいね」
やれやれ、十五年という短い人生で何度このやりとりをしたかわからない。
「御前零次くん。三上由良さん。ついてきなさい」
言うとさも従うのが当然とばかりに廊下へ去ってしまう。黒髪が尾を引いて誘うようだった。
「ついてこいって……」
残された俺たちは顔を見合わせる。
「…………行く?」
三上は俺に判断を委ねたいようだ。
しかし、何も心当たりがないのに言われるままというのもおかしな話だ。名乗りもしなかったあの女子とも初対面だし、学校側が俺たちを呼びつける理由も見当つかない。
何か、いやな予感がする。思えば俺は、今朝からツいてない。
俺は慎重であろうとした。しかし――。
「あの子……全然待たないよ」
三上の言うように奴の足音はどんどん遠ざかっていく。
人間、時を逃す恐怖には否応なしに判断を急がされる。期間限定、タイムセール、過ぎる週末、どれも然り。
「人手が要るのかも」
そこに同じく判断を急がされた三上に背を押され、俺は焦燥の崖を滑り落ちる。
「行こう」
用心のため財布とケータイだけもって席を立った。
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