第十七章

始末 一

 陸王りくおうなく再び現れた森の中を彷徨さまよっていた。いや、少なくとも探している場所はある。岩場だ。この森のどこかに魔族の巣穴があるだろうと思ったからだ。だが、それだけでは右か左かも分からない。途中までは女が巣穴から戻ってきただろう獣道を追っていたのだが、途中からぽかりとなくなっていたのだ。


 それでも兎に角、辺りを窺いながら真っ直ぐ進んでみることにした。ほらの一つでもあればと。しかし、森は広大で、岩の一つも見当たらない。どちらを向いても木々が茂っているだけだ。走ればよかりそうなものだが、それでは見落としがあるかも知れない。だから陸王は足早に歩いて行くしか出来なかった。ほんの少しの手がかりでも見逃したくない。気持ちは急いていたが、それとは逆に身体は慎重を極めていた。


 陸王にも精霊の声が聞こえればよかったが、魔族故に『聴く』力はない。あちこちを注意深く確認しながら進んでいるが、果たしてこの森のどこに求める場所があるか分からなかった。もしかしたら、全く見当違いの場所を捜し回っている可能性すらある。


 陸王はただただ、雷韋らいが今でも無事であることを祈る気持ちで森の中を進んでいた。


 その時、声のようなものが聞こえた気がした。それは声にしてはあまりにもか細く小さかったが、はっとして辺りを見回す。雷韋の声に思えたからだ。それからまた、今度はもう少しはっきりと声と認識出来るものが聞こえてきた。それはやはり雷韋のものだった。声変わりのすんでいない、独特な高音が聞こえてくる。陸王はその声の聞こえる方向に、耳を澄まして感じ取ろうとした。声はどうやら陸王の左手奥からのようだった。雷韋の声に応じるように陸王も声を張り上げ、同時に走り出す。


 声のした方向へ走っていくと、雷韋も走っているのか、声が段々大きくはっきりとしてくる。


 そうしているうちに、雷韋の姿が遠目に見えた。陸王はそのまま雷韋に向かって走ったが、雷韋はどうしてかその場に膝をついてしまった。


 走り疲れるほど走ってきたのかと思ったが、近くに行けば行くほど、雷韋の表情が歪んでいることに陸王は気付いた。黄色く変色していたはずの瞳も、元の深い琥珀色を呈している。


 陸王も少し呼吸を乱していたが、雷韋の傍へ近づいた。もう、手が触れるほど近くに。


「雷韋、無事だったか」

「陸王、怖かった。凄く」

「あぁ、だろうな」


 言って、陸王は恐怖と安堵で歪んだ雷韋の頬にそっと触れてやった。


「もう大丈夫だ。安心しろ」

「うん。うん、分かってる」


 感情を堪えるように雷韋が目を瞑ると、陸王は吐息でふっと笑った。


 雷韋はそこで、


「アッシュ、もう平気だ」


 そう背後に声をかけたが、そのまま固まってしまった。口から小さく疑問の声も出る。


 アシュラーゼの姿がなかったのだ。手には火影が握られているだけ。子どもの小さな手はなかった。姿も。


 陸王はその雷韋の様子に、声をかけた。


「誰か一緒にいたのか」

「アシュラーゼって言う、天使族の子供だよ。確かに牢で手をつかんでここまできた筈なんだ。手を放した覚えもない」

「だが、俺がお前の姿を見つけたとき、お前は左手に火影しか握っていなかったぞ。しかも天使族の子供なんてのは」


 皆まで言わず、陸王は言葉を止めた。


「でも、確かに俺はアッシュの手を握った。魔族が本当に天使族を餌に利用しようとしてるって知って、一緒に逃げ出してきたんだ」


 立ち上がって、辺りを見回す。


「その天使族のガキは別になって逃げたんじゃねぇのか。天上とかな」

「分かんない。どこ行っちまったんだろう」


 雷韋はきょろきょろと辺りを見遣る。


 陸王も僅かながら辺りを見回したが、どこにも誰の姿もない。


「まぁ、それはいいとしよう。間違っても魔族のところへ戻ったりはしないだろうからな」

「そりゃ、そうだけど。無事でいればいいな」


 雷韋はアシュラーゼのことを気にしているようだったが、陸王も気になっていることがあった。さっきから雷韋は右腕を一切動かしていないのだ。不自然なほどに。


「雷韋。右腕、どうかしたのか。さっきから動かしてねぇが」

「あ、うん。凄く痛くって」


 そう言って、魔族に喰われかけたこと、恐怖より痛みの方が上回って殴打したことなどを語って聞かせると、外套がいとうに隠れていた右腕を見せる。


 火影で切った傷は致し方ないとしても、歯の並び通りに肉が抉られていることに対して陸王は腹が煮えた。あまつ、痛々しく傷口は朱色に腕が腫れ上がっているのだ。思わず嫌悪の表情になる。陸王は険しい顔をしたまま、「治せるか?」と聞いた。


「あ、うん。それは平気だ。すぐに治せる」


 雷韋は答えて、火影を送還すると、左手を右腕に翳した。すぐに淡い緑の光が灯る。すると、見る間に傷口が塞がっていった。火影でつけた傷も共にだが。


 しかしそこで、雷韋は痛そうに顔を歪めた。小さく呻き声も上がる。


 陸王はそれを見聞きして、雷韋に声をかけた。


「なんだ? そんなに傷が酷ぇのか?」

「痛い、痛いと思ってたら、筋肉が骨から剥がれてる。もうちょっとで食い千切られるところまでいってるんだ」


 陸王は僅かに顔色を変えた。


「そこまでいっていて、治せるのか?」

「うん、ちょっと時間はかかるけど、治せる」


 雷韋の言葉に陸王は、そうか、と呟き、再び腹の煮える思いをした。雷韋がもし痛みに耐えかねて殴り倒していなければ、雷韋の細腕から腕の一部分が噛み切られていただろう。


「どうだ? 今はどの程度治ってる」

「うん、傷口自体は塞がったけど、中で筋肉と骨がくっつき始めてる。あと少しだ」


 陸王は頷き、それから言った。


「雷韋。悪いが、腕が元に戻ったあと、もう一度右腕を切っておいてくれ。魔族がどこにいるのか案内を頼みたい」


 それを聞いて、雷韋はてらいなく笑った。いつもの子供の笑みで。


「わかった。そんなの、骨ごと囓られるのと比べたらなんてことない」


 それから少しの間、雷韋は怪我を癒していたが、ある瞬間、頷いた。


 雷韋は無言で、送還したばかりの火影を召喚する。それで右の二の腕を切った。怪我が完治したから、新しい傷口を作ったのだろう。新たに開かれた傷口からは、まだ黒い血が流れてくる。魔族のもとから逃げ出してきて間もないから、それは仕方ない。


 雷韋は腕を切りつけて血が溢れ出すのと同時に、思い出したように陸王へ声をかけてきた。


「なぁ、もう一人の魔族と魔剣はどうしたんだ?」


 陸王はそれを聞いて忌々しげな顔をしたが、答えた。


「あいつに丸投げしてきた。何しろ、お前が攫われたあと、女の方が逃げ出したからな。それに男の方は、あの女の傀儡くぐつだった。肉を分断した、核もない肉の木偶でくだ。あんなもんの相手をしている暇なんぞあるか」

「でも、魔剣はいいのかよ?」

「俺が破壊したかったが、仕方ねぇ。お前の生命と引き換えには出来んからな」

「そっか。ごめん」


 雷韋は心底申し訳なさげな顔をして謝った。


 だが、陸王はそこで小さく笑う。


「いいさ。お前が無事ならな」


 本当に安堵して言うと、雷韋は上目遣いに陸王を見返してきた。陸王はそれに軽く首を振り、


「いい。それよりも、魔族の巣まで案内を頼む」


 今度は真剣な顔つきになった。


 雷韋も、分かったという風に首を縦に振って、踵を返す。


 道々、二人にはこれといった会話はなかった。陸王には今度こそ魔族を片付けようというはらしかなかったし、雷韋は魔族の巣まで陸王を案内するために粛々と歩いていたからだ。


 二人の中にあるのは、ただ一つ。魔族を殺すことだけ。それ以外にない。


 と、突然、雷韋がよろめき、陸王は魔族の気配を感じた。


 気配は上の方からする。見上げると、男の方が樹上にいた。


 陸王はそれを見てはっとする。


「いかん、雷韋! 女の方は逃げる気だ」

「え、え? 何!?」


 目眩が治まったところにいきなり言われて、雷韋は理解が追いつかない。


「木偶で俺達を足止めしている間に逃げる気だ。妖刀が手元にないんじゃ、あいつは俺に敵わん。だから逃げるつもりで木偶をここに寄越したんだ」


 陸王は雷韋に事の次第を伝えた。


「じゃ、じゃあ、どうしろって」

「先に行け。女の足を止めさせるんだ」

「だって、俺は魔族には何も出来ないよ」


 情けない声で言うと、陸王が叱りつけるように声を発した。


「一度は殴り倒したんだろうが。その時の気概でいけ!」


 そう言っている間に、男が頭から雷韋の方へと飛び込んできた。鋭い爪を生やした手を雷韋の顔面に翳している。


 その雷韋を陸王は体当たりで退かし、男を頭の天辺てっぺんから腹まで切り裂いた。だがその反動を利用して、男は難なく飛びずさる。肉の木偶は着地して、すぐに二つの上半身に分裂した。再び飛び掛かるのは陸王へではなく、雷韋へだった。


 戦いにおいて、弱い者から狙うのは常識だ。だからさっきも陸王は、瞬間的に雷韋を吹っ飛ばしたのだ。

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