被食者 四
「駄目か」
「火影は召喚出来たのになぁ」
嘆息交じりに呟いて、最後の手段とばかり、次に雷韋は火影のその長い刃を鉄柵に絡めるように引っ掛ける。そうして、火影に力をかけた。ぎりりと鉄が擦れる音がして、雷韋は鉄柵が外れるような像を頭の中に巡らせながら、より強く力を込める。そうすると、力を込めるあまりに自然と呼吸が止まった。腹に力を入れて、鉄の擦れる音が更に大きくなっていく中で、雷韋はうっすらと目を開ける。琥珀の瞳に映るのは、やや曲がりながら、地面を移動している鉄柵の根元だった。雷韋はそれを目にして、やっていることは間違っていないと確信する。そこで雷韋は動きを止め、止まっていた呼吸を取り戻した。うっすらと汗を掻くくらいに力を入れていたせいか、少し息苦しくもあった。ある程度、呼吸を整えたところで、少しの隙間ができた場所に蹴りを放ち始める。
一本の鉄柵を力を込めて握り、その隣の少しへこんでいる鉄柵を強く蹴りつける。そのままどのくらい蹴りつけたか分からなかったが、徐々に鉄柵が移動して、隙間が出来始めた。そのうち、雷韋とアシュラーゼなら通り抜けられるほどの空間が出来上がる。
「よし、こっから逃げるぞ」
汗だくになってアシュラーゼを振り返ったその時、どさりと大きな音がした。同時に雷韋の足下が
洞窟の奥にあるこの牢獄にも、荒く忙しない息遣いが響いてくる。魔族が戻ってきたのだ。
雷韋達は知らないが、魔族は紫雲のかけた
「雷韋お兄ちゃん、逃げなきゃ!」
アシュラーゼが雷韋の片腕を取って引っ張るが、雷韋にはそれ以上動くことが出来なかった。魔族の紅い瞳を思い返すだけで震えが走る。雷韋の瞳が自然と警戒色に黄色く輝いた。緊張のため、瞳孔も大きく開く。
「お兄ちゃん、しっかりして! なんだか分かんないけど、魔族は弱ってるよ。早く逃げないと!」
「だ、駄目だ。魔族が」
そのあとは言葉にならなかった。
「お兄ちゃん、お願いだよ。ここから出て」
アシュラーゼの言葉に、雷韋は首を振るだけだった。恐ろしい魔族がすぐ傍にいる。それを肌で感じるだけで足が竦んだ。
それでもアシュラーゼは掻き口説いた。逃げるには今が絶好の機会だと、今を逃したら手遅れになると。天使族の子供もその事実に気付いているのだ。七、八歳ほどの子供にも分かることが、どうしてか雷韋には分からない。恐ろしさのあまり、頭の中が凍ってしまっているのだ。
そうしている間にも、体勢を立て直したのだろう魔族がやってくる気配がある。ずる、ずるっと何かを引き摺るような音がした。
洞窟の入口側から曲がっている岩壁に低い影が差して、見る間に女が姿を現した。女は這いずっていた。それを雷韋が目にしている間に女は無理矢理身体を起こして、岩壁に身体を預ける。
「旨そうな匂いだ。お前を喰らって力を取り戻したら、さしもの陸王も殺せるだろうね。
息切れを起こしながら言うその目が、ふと鉄格子に向けられる。子供なら余裕を持って出られる隙間に。
女はそれを見て嗤った。
「馬鹿な奴だ。逃げようとしたのか? 残念だがそうはいかない。ここでお前は喰らわれるんだからね」
まだ息遣いの荒い女は、断言するように言い切った。女は牢から少し離れた場所から、手を翳す。手を翳して、
魔代語が女の口から発された直後、雷韋はまた軽く目眩を覚えた。
女は雷韋が動けないでいるのをいいことに、ゆっくりと身体を動かして牢の出入り口から中へ入ってきた。
その様子を、雷韋は震えながら凝視しているしか出来ない。
女は雷韋に、ずいっと近づく。雷韋は喉の奥で悲鳴を上げるが、それは音にはならなかった。
女は雷韋の右腕を取ると、火影で切り裂いて、今も滔々と溢れ出る真っ黒な血を傷の上から舐め取った。
じりっと女の舌が傷に染みる。それなのに雷韋はまだ女を見つめていた。女も雷韋の腕を取ったときから、じっと少年を見ている。今もだ。女の紅い瞳は歓喜に輝いていた。よほど雷韋の血が旨かったのだろう。少しの間、女は口にした血の味を確かめるようにして、舌の上で転がしていた。かと思えば、今度は一気に傷口ごと右腕に噛み付いてきた。
雷韋の身体全体に激痛が走り、思わず目を閉じる。苦鳴は出なかった。あまりもの激しい痛みのために、逆に声が出なかったのだ。
女の口は頬の半ばまで裂けて、腕をまるごと口中に入れていた。そのくせ歯は尖ったりしていない。だから簡単には食いちぎれないのだが、その事が余計、痛みを増していた。
雷韋は頭のどこかで、生きながら喰われていく様を十二分に味わった。生きながら喰われるのがどれほどの苦痛か。恐怖と激痛によって、頭の中が真っ白になる。痛みが凄まじすぎて、何も考えられなっていく。生きながら喰われることがどんなものかを感じる時間など、すぐに頭から消えてなくなった。思考を放棄したのだ。あとは早くこの痛みがなくなればいいと、それだけだ。下手に腕に噛み付かれているから苦しいのだ。一気に肉を噛み千切られた方がまだしもましだろう。激痛は続くだろうが、今のような生殺し状態よりは遙かにいいはずだと思った。
女は更に顎に力を入れて、骨ごとむしゃぶろうとした。が、女のこめかみに、突然激しい殴打が襲いかかる。奇妙な悲鳴を上げて、女がもんどり打って倒れ込んだ。はっとして女は雷韋の方を見る。
雷韋は火影を握ったまま左拳を振り抜いた格好になって、開ききった瞳孔もぎらついていた。黄色い瞳がぎらぎらと輝いて、息遣いも荒い。
それはあまりもの激痛が、恐怖を上回った瞬間の出来事だった。それどころか、女のこめかみを殴ってもまだ雷韋の思考は回らなかった。反射的に、雷韋は近くにいたアシュラーゼの手を火影を持ったままの左手で取って、開きっぱなしの扉を急いで潜り抜ける。
その様を女は見ていることしか出来なかった。こめかみを殴打されて、脳震盪に似た目眩を起こしていたのだ。神聖魔法の術の影響で、足腰もすぐには立たない。
その隙に雷韋はアシュラーゼを連れて洞窟を飛び出した。目の前には森が鬱蒼と茂っている。なのに、懐かしい感覚がどこか近くにある。それは間違いなく
それに気付いて、
「アッシュ、近くに陸王が来てる。俺の対だ。助けてくれるぞ。行こう」
慌てるあまり一方的な言い方になったが、雷韋は気にしなかった。陸王がきてくれれば助けて貰えるという安堵のままに、アシュラーゼの手を更に強く握って気配に向かって走り出した。
岩場にある、洞窟とも横穴とも言えない場をあとにして。
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