被食者 四

「駄目か」


 召喚魔法サモンの言霊封じが発現しなかったことで雷韋らいは残念そうに呟くと、今度は火影を構えて鉄柵を断ち切ってみようと思った。勢いをつけて、渾身の力で鉄柵に斬り掛かる。が、派手な金属音が反響して耳に響くわ、衝撃に腕も痺れるわで全く効果がなかった。魔代語ロカで、鉄柵そのものが硬化させられているのかも知れない。それならと、次は火を顕現けんげんさせようとした。火の精霊の熱で鉄柵を溶かせるかどうかやってみようと思ったのだ。しかし、火影から火はほんの僅かでも現れることはなかった。精霊が全く反応しなかったのだ。同じ精霊でも、精霊の凝った火影は顕現出来たのに。


「火影は召喚出来たのになぁ」


 嘆息交じりに呟いて、最後の手段とばかり、次に雷韋は火影のその長い刃を鉄柵に絡めるように引っ掛ける。そうして、火影に力をかけた。ぎりりと鉄が擦れる音がして、雷韋は鉄柵が外れるような像を頭の中に巡らせながら、より強く力を込める。そうすると、力を込めるあまりに自然と呼吸が止まった。腹に力を入れて、鉄の擦れる音が更に大きくなっていく中で、雷韋はうっすらと目を開ける。琥珀の瞳に映るのは、やや曲がりながら、地面を移動している鉄柵の根元だった。雷韋はそれを目にして、やっていることは間違っていないと確信する。そこで雷韋は動きを止め、止まっていた呼吸を取り戻した。うっすらと汗を掻くくらいに力を入れていたせいか、少し息苦しくもあった。ある程度、呼吸を整えたところで、少しの隙間ができた場所に蹴りを放ち始める。


 一本の鉄柵を力を込めて握り、その隣の少しへこんでいる鉄柵を強く蹴りつける。そのままどのくらい蹴りつけたか分からなかったが、徐々に鉄柵が移動して、隙間が出来始めた。そのうち、雷韋とアシュラーゼなら通り抜けられるほどの空間が出来上がる。


「よし、こっから逃げるぞ」


 汗だくになってアシュラーゼを振り返ったその時、どさりと大きな音がした。同時に雷韋の足下が覚束おぼつかなくなる。目眩に襲われたのだ。火影で斬り付けた腕の傷からは、再び真っ黒に変色した血が溢れ出す。まだ片手に持っていた火影を杖のように地面に突き立てて、目眩を堪えた。


 洞窟の奥にあるこの牢獄にも、荒く忙しない息遣いが響いてくる。魔族が戻ってきたのだ。


 雷韋達は知らないが、魔族は紫雲のかけた神聖魔法リタナリアで酷く弱っている。今が逃げ出す好機だった。だが、そうはいかない。何故なら雷韋が目眩を堪えたあと、そのまま、さして広くもない牢の奥の壁まで後退したからだ。雷韋は背中をべったりと壁に押しつけている。恐怖に呼吸も荒くなった。


「雷韋お兄ちゃん、逃げなきゃ!」


 アシュラーゼが雷韋の片腕を取って引っ張るが、雷韋にはそれ以上動くことが出来なかった。魔族の紅い瞳を思い返すだけで震えが走る。雷韋の瞳が自然と警戒色に黄色く輝いた。緊張のため、瞳孔も大きく開く。


「お兄ちゃん、しっかりして! なんだか分かんないけど、魔族は弱ってるよ。早く逃げないと!」

「だ、駄目だ。魔族が」


 そのあとは言葉にならなかった。


「お兄ちゃん、お願いだよ。ここから出て」


 アシュラーゼの言葉に、雷韋は首を振るだけだった。恐ろしい魔族がすぐ傍にいる。それを肌で感じるだけで足が竦んだ。


 それでもアシュラーゼは掻き口説いた。逃げるには今が絶好の機会だと、今を逃したら手遅れになると。天使族の子供もその事実に気付いているのだ。七、八歳ほどの子供にも分かることが、どうしてか雷韋には分からない。恐ろしさのあまり、頭の中が凍ってしまっているのだ。


 そうしている間にも、体勢を立て直したのだろう魔族がやってくる気配がある。ずる、ずるっと何かを引き摺るような音がした。


 洞窟の入口側から曲がっている岩壁に低い影が差して、見る間に女が姿を現した。女は這いずっていた。それを雷韋が目にしている間に女は無理矢理身体を起こして、岩壁に身体を預ける。


「旨そうな匂いだ。お前を喰らって力を取り戻したら、さしもの陸王も殺せるだろうね。羅睺らごう様に喜んで頂ける」


 息切れを起こしながら言うその目が、ふと鉄格子に向けられる。子供なら余裕を持って出られる隙間に。


 女はそれを見て嗤った。


「馬鹿な奴だ。逃げようとしたのか? 残念だがそうはいかない。ここでお前は喰らわれるんだからね」


 まだ息遣いの荒い女は、断言するように言い切った。女は牢から少し離れた場所から、手を翳す。手を翳して、魔代語ロカを唱えた。どういう仕組みになっているのかは分からないが、錠が開く歪な音がする。


 魔代語が女の口から発された直後、雷韋はまた軽く目眩を覚えた。魔代魔法ロカダリアを発動した瞬間、魔気も発されたからだ。目眩を覚えた直後、錠の開く音に雷韋の身体は跳ねた。それ以上に、雷韋はまともに魔族の紅い瞳を見ていたのだ。その色を見るだけで全身恐怖に塗り潰されると分かっていながら、目が離せない、逸らせない。紅い瞳も食い入るように雷韋に向けられている。


 女は雷韋が動けないでいるのをいいことに、ゆっくりと身体を動かして牢の出入り口から中へ入ってきた。


 その様子を、雷韋は震えながら凝視しているしか出来ない。


 女は雷韋に、ずいっと近づく。雷韋は喉の奥で悲鳴を上げるが、それは音にはならなかった。


 女は雷韋の右腕を取ると、火影で切り裂いて、今も滔々と溢れ出る真っ黒な血を傷の上から舐め取った。


 じりっと女の舌が傷に染みる。それなのに雷韋はまだ女を見つめていた。女も雷韋の腕を取ったときから、じっと少年を見ている。今もだ。女の紅い瞳は歓喜に輝いていた。よほど雷韋の血が旨かったのだろう。少しの間、女は口にした血の味を確かめるようにして、舌の上で転がしていた。かと思えば、今度は一気に傷口ごと右腕に噛み付いてきた。


 雷韋の身体全体に激痛が走り、思わず目を閉じる。苦鳴は出なかった。あまりもの激しい痛みのために、逆に声が出なかったのだ。


 女の口は頬の半ばまで裂けて、腕をまるごと口中に入れていた。そのくせ歯は尖ったりしていない。だから簡単には食いちぎれないのだが、その事が余計、痛みを増していた。


 雷韋は頭のどこかで、生きながら喰われていく様を十二分に味わった。生きながら喰われるのがどれほどの苦痛か。恐怖と激痛によって、頭の中が真っ白になる。痛みが凄まじすぎて、何も考えられなっていく。生きながら喰われることがどんなものかを感じる時間など、すぐに頭から消えてなくなった。思考を放棄したのだ。あとは早くこの痛みがなくなればいいと、それだけだ。下手に腕に噛み付かれているから苦しいのだ。一気に肉を噛み千切られた方がまだしもましだろう。激痛は続くだろうが、今のような生殺し状態よりは遙かにいいはずだと思った。


 女は更に顎に力を入れて、骨ごとむしゃぶろうとした。が、女のこめかみに、突然激しい殴打が襲いかかる。奇妙な悲鳴を上げて、女がもんどり打って倒れ込んだ。はっとして女は雷韋の方を見る。


 雷韋は火影を握ったまま左拳を振り抜いた格好になって、開ききった瞳孔もぎらついていた。黄色い瞳がぎらぎらと輝いて、息遣いも荒い。


 それはあまりもの激痛が、恐怖を上回った瞬間の出来事だった。それどころか、女のこめかみを殴ってもまだ雷韋の思考は回らなかった。反射的に、雷韋は近くにいたアシュラーゼの手を火影を持ったままの左手で取って、開きっぱなしの扉を急いで潜り抜ける。


 その様を女は見ていることしか出来なかった。こめかみを殴打されて、脳震盪に似た目眩を起こしていたのだ。神聖魔法の術の影響で、足腰もすぐには立たない。


 その隙に雷韋はアシュラーゼを連れて洞窟を飛び出した。目の前には森が鬱蒼と茂っている。なのに、懐かしい感覚がどこか近くにある。それは間違いなく陸王りくおうの気配だった。


 それに気付いて、


「アッシュ、近くに陸王が来てる。俺の対だ。助けてくれるぞ。行こう」


 慌てるあまり一方的な言い方になったが、雷韋は気にしなかった。陸王がきてくれれば助けて貰えるという安堵のままに、アシュラーゼの手を更に強く握って気配に向かって走り出した。


 岩場にある、洞窟とも横穴とも言えない場をあとにして。

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