魂の真相 六

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 今から二十五年前。紫雲しうんにとっては生まれた頃になるし、龍魔たつまにとってはたった二十五年前の出来事だ。彼女にとっては瞬きをしたか、しないか程度の時間でしかない。


 その日、龍魔は青蛇殿せいじゃでんに戻った。どちらかというと光竜殿こうりゅうでんにいることの方が多かったが、暫く何事も起きなかったので戻ったのだ。


 細々とした世界の出来事の兆しは見て取れていたが、放って置いても順調に動くと思っていた。だからだ。


青蛇殿では最も古くからいる龍魔は、そのまま青蛇殿の責任者であった。暫く戻らなかった間に巫女達の間に何か起こっていないか、それを知るために帰ることが必要だったのだ。


 龍魔が光竜殿と青蛇殿を繋いでいる転送門を潜ると、二つの門を繋いでいるのは大きな水柱だった。その水柱の中に門が開き、転送の間と呼ばれる空間に繋がっている。


 転送の間は青蛇殿だけではなく、ほかの三柱みはしらの神殿にもあった。それぞれの転送の間は様々な形をとっていたが。


 青蛇殿の転送の間は、水柱を中心にして、水で溢れかえっていた。だからと言って、水浸しというわけではない。水柱は広い泉から丈高く吹き上がっている。その柱に開いた転送門に向かって、弧を描くように橋が架けられていた。吹き上がる水柱から、細かく水滴が頭上から降りかかってくるものの、それは門を潜り抜けた龍魔の身体を濡らすようなことはなかった。全てが弾かれて、橋にも、橋の向こうの広間にも水滴が転がっている。橋の欄干には擬宝珠ぎぼしに似たものがついていた。擬宝珠に似たそれを操って、転送門をほかの神殿に繋げるのだ。


 この部屋の水は水滴なのに、水滴ではない。水飛沫が上がれば水滴は上から下へと弧を描いて滴り落ちてくるが、別の物体に触れた瞬間、玉となって弾かれるのだ。だから、水柱に繋がっている橋にも無数の水の玉が転がっている。大小様々な水滴の玉だ。玉同士が触れ合うと、水滴は融合して、大きな玉になって再び転がる。それを繰り返しているうちに、橋や床から玉は零れ落ちて泉の水と融合するのだ。それらの水滴が、中央で高く吹き上がって水柱を再び作る。ここでは水柱を作るように、延々と水が循環しているのだ。


 龍魔は身体に降りかかってくる水滴を全て弾くようにして、橋を渡った。だが、何かおかしいと思った。肌感覚だが、神殿内の空気がざわついているのだ。龍魔は、何か問題が起こったかと、巫女達の詰める執務室に向った。


 執務室と言っても、様々雑用をする大部屋だ。本来、執務室と呼ばれるのは青蛇せいじゃが執務のために使っていた部屋のことだ。そこは神代かみよの終わりと共に、封じられたままだが。


 龍魔は便宜的に執務室と呼ばれる、雑務室の方へと足を向けた。そちらへ向かうと、徐々に巫女達の姿が見え始める。青蛇殿に主はいないが、それでも神の神殿として最低限の動きはある。青蛇の寝床は使われていなくても、毎日敷き布や上掛けが交換される。巫女達自身の寝台のものも毎日替えるし、神殿中に飾り付けられている飾り布や木の実を使ったりして作られる飾りそのものも、定期的に交換されて、神殿内はいつでも清浄に保たれていた。窓の硝子や床や柱の掃き掃除、拭き掃除も毎日行われる。飾り瓶や壺、大小の花瓶なども毎日磨かれ、花瓶には常に新しい花が生けられていた。青蛇が光竜こうりゅうの懐にかえったとしても、神殿内に仕事ならいくらでもある。それらの仕事をこなしている巫女が行ったり来たりと忙しない。


 と、神殿の責任者である龍魔の姿を目にした巫女達は、仕事をしている手を一度止めて恭しく頭を下げた。それから再び仕事に戻るのだ。その巫女達を眺め遣り、雑務室の前まで行った。


 雑務室の目の前まで迫った時、背後から龍魔の名を呼ぶ者がいた。それは当然青蛇殿の巫女で、よく知る顔だ。彼女は青黒く長い髪を背中で一つに纏めて、龍魔と同じ碧の瞳を持っていた。


 名をエイザと言う。


「龍魔様、お戻りでしたか」

「エイザか。丁度いい、聞きたいことがある」


 エイザは、言われて龍魔の方へ近寄った。


「何か?」


 エイザは澄ました顔で返答した。


 龍魔は澄まし顔の彼女を見遣って言葉を紡ぐ。


「神殿中が何やら騒々しいね。精霊がざわついてる感じがあるよ。何があったんだい?」

「特には。龍魔様がお留守の間、何一つ変わらぬ平穏な日々が続いています」

「嘘お言い。お前からも雑音が聞こえるよ」


 同じ蛇人族じゃじんぞく同士、精神が同調しやすいのだ。受け答えの中に嘘が混じれば、ほかの者より遙かに長い年月を生きている龍魔には丸分かりだった。


 龍魔に言われて、エイザはつと視線を逸らす。その様は、何かから目を背けるようにも見えた。


 様子があからさまだ。エイザは特に器用ではないから、嘘や隠し事をするのが下手だった。


 龍魔は立ち位置を変え、エイザの視線の先へと移動した。それも、彼女の目を見据えて。強引に視線を合わせられ、エイザは気分を害したように眉根を寄せる。


あたしのいない間に、何かあったんだろう? 何があったか言ってごらん」

「何も」


 その返答に、龍魔は腕を組んで片方の手を顎に当てる。


「そうか。別に巫女はお前だけじゃない。ほかの者に聞くよ」


 エイザを残して、龍魔は本来の目的地である雑務室に向かった。背後から、エイザの視線を感じたが、無視して雑務室の扉に手を掛け、開く。


 広い雑務室の中では大きな机がいくつも並んでいるその奥に、一〇人ほどの巫女達が集まって真剣な顔で小さく言葉を交わしあっていた。そこに龍魔が現れ、数人が扉の方へ顔を向けたが、顔を向けた巫女達はそのまま固まった。声も出ないほど驚いているらしい。龍魔がそのまま黙って様子を窺っていると、急に動きをなくした数名に気が付いた者達が、彼女らの視線の先へと顔を移した。


 そこには当然の如く、龍魔が立っている。龍魔の顔に表情はなかったが。


 それとは正反対に、巫女達は驚きすぎて呼吸まで止めてしまったようだった。皆、両目を開ききって、龍魔の顔を見つめるだけだ。ほかに動きはない。


「妾がいない間に何が起こったんだい。素直に言いな」

「龍魔、様。それは……」


 中の一人が喘ぐような呼吸をしたあと、ようやくといった感じで言葉を零した。


 龍魔はその巫女に目を遣って、


「言いな」


 言い含めるように、一言だけ繰り返した。


 巫女はごくりと唾を飲み込むと、ようようといった風情で龍魔の方へ歩み出した。その手には手紙のようなものが握られている。


 龍魔の目の前までやって来た巫女は、手にしていた手紙と覚しき紙を両手で捧げるように持った。


「これを」

「誰からだい? いつ届いた」

「……エリューズ様から、一月ほど前に。遣いの堕天使が文を託されてやって来ました」


 その名と日時を聞いて、龍魔の意識は一気に手紙に向かった。奪い取るように手にし、共通語で書かれた文面に目を通す。


 エリューズとは一人の堕天使の名だ。しかも羅睺らごうの妻である。だからと言って、対でもなんでもない。世界の外からやって来た天慧てんけいと羅睺の魂は陰陽で出来ているわけではなかった。己が創った種族は全て、アルカレディアという世界の理に従って魂を陰陽に分けているが、混沌の向こうから現れた兄弟神はその理に縛られない。だからほかに対を持つ者の中から妻を娶ることになった。


 エリューズは堕天使の中から羅睺に選ばれた妻の一人だった。それも、妻達の中で最も愛されている。


 そのエリューズが使者に託した手紙には、羅睺の様子が書かれていた。


 羅睺の様子が日を増すごとにおかしくなっていると。自分に当たってくることはないが、共にいてもものに当たり散らしたり、胡乱な目でエリューズの膨らんだままの腹を見ていたりすると。以前はそんな事はなかったのに、近頃少しずつおかしくなっている。それにエリューズ自身も、腹に子供を封じているのが限界に近づいてきた。この手紙を遣いに大急ぎで届けさせる、遣いが発ったあと、折を見て青蛇殿に向かうから匿ってくれるよう書かれていた。


 青蛇殿の意思など全て無視されて。


 匿ってくれて当然とも見える文面だが、そうではない。青蛇殿からの許可も何も待っている余裕がないのだ。だから匿って欲しい旨は書かれているが、青蛇殿からの返信については何も書かれていない。一口に言えば、羅睺の傍にいるのが危険になってきた、だから行くから匿ってくれ、とだけ書かれているのだ。それに文面からは、子供も青蛇殿で産みたいのだろうと取れる。


 父殺しの子供と予言された子供をだ。


 龍魔は暫し考えた。エリューズを迎え入れることを拒絶するつもりはない。匿って欲しいなら、いくらでも匿ってやろうと思う。子供を産みたいのなら、ここで産んでもいいだろうとも。


 手紙を読み終えて、はらを括った。龍魔はここにいる巫女の一人ひとりの顔を順に眺める。

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