第十三章

魂の真相 一

 雷韋らい紫雲しうんを置いてきた場所から随分と離れた森の中で、陸王りくおうは木にもたれ掛かって座り込んでいた。そこで紫雲に抉られた腹の傷を回復の術で時間をかけつつも、なんとか塞いだのだ。


 今、陸王の中は空虚だった。何かを思い浮かべるたびに、それは全て堂々巡りするか、自分への棘となった。結果、それに疲れて思考を放棄する。放棄すると、また廻り巡って勝手に思考が回り始める。思いを巡らせても何もよいことはないだろうに、分かっていながら止められない。


 雷韋は陸王を拒絶しないとはっきり言ったが、今になるとそれも疑わしく思えてくる。それでも雷韋の覚悟には、正直驚かされた。そもそも、雷韋には正体が知られれば拒絶されると思っていたから、今、陸王はこんな風に空虚になっているのだ。拒絶されることには覚悟があった。不安も同時に存在していたが、心のどこかでいつかは知られてしまうだろうという頭があったのだ。そちらの方がまだ覚悟が出来ていた。だと言うのに、雷韋は拒絶はしないと言った。そんな雷韋と、これからどう向き合っていけばいいのか分からない。


 陸王の中には、雷韋に対する不信があった。綺麗事なら誰でも言えると。


 要は、陸王があの少年を信じ切れていないのだ。どこまでも真っ直ぐ見つめてくるあの琥珀の瞳に、自分が違う形で映っているのではないかと訝ってしまう。


 傍にいたいのに、いたくないと思ってしまう天邪鬼な自分がいた。


 いや、やはりそれも違う。魔族であることは陸王の最大の引け目だ。だから正真正銘、真っ向から信じて、その挙げ句、裏切られるのが嫌なのだ。


 幼心にも裏切られたことは、未だに癒えない心の傷だった。


 二度とあんな思いはしたくない。


 だから雷韋を信じ切れないのだ。


 裏切られないという保証はどこにもないのだから。


 鬱屈した心はどこまでも暗い淵に落ち込んでいく。終わりのない、底なし沼に沈むように。


 果たして、ここにいても雷韋は捜し出してくれるだろうかと思う。存外、今頃になって魔族を恐れて、逃げ出してしまったのではないかと。


 時間が経てば経つほど、その思いは強くなった。


 雷韋はここまで来ないのではないか? 時間が経つうちに、それが徐々に確信的になっていく。陸王は、そうだ、と思う。裏切られる前に、こちらから裏切った方が気分は楽なはずだと。


 そんな思いが、未だに癒えない心の傷を更に大きくしていくだけだと気付きもせずに。


 陸王は息を静かに吐き出すと、ゆっくりと立ち上がった。


 待っていても無駄だと判断したのだ。雷韋は来ないと。陸王の中の情けない小心がそう判断させていた。


 はたから見たら、実に馬鹿らしい判断を下したのだと気付きもしないで。


 この時の陸王には、雷韋が対であるという意識さえもなかったかも知れない。対は信じるものであって、裏切るものではないという事も思考の埒外にあったに違いない。


 空を見上げると、もう太陽も傾き始めていた。ここへ来たとき、木々の合間から覗く太陽がどの辺にあったか見ていなかった。けれど、随分と経ったような気がする。


 一歩歩を踏み出そうとしたところで、背後から微かに甘い匂いが漂ってきた。どうやら風に乗って匂いが流れてきたようだ。


 この匂いは、と思う。


 甘い独特な匂い。おそらく、鬼族だけの特別な匂いだ。はっとして森の中で振り返る。姿はまだないが、ほんの僅かずつ匂いが濃く流れてきた。それに伴って、声のようなものも聞こえてくる。その声音には、少し不安そうな響きが混じっていた。


 来たのか?


 胸中で呟く。


 何故?


 立て続けに胸の内で呟いた。


 本当に陸王には分からなくなっていたのだ。自分の中にある、暗く凝り固まった感情故に。雷韋が陸王になんと言ったかも忘れてしまっていた。いや、その記憶に蓋をしていたのだ。その上から己の暗い感情を上書きしていた。こんな状態では気付けるわけもない。


 そんな陸王の暗い感情を払拭してくれるのは、雷韋の裏も表もない子供の笑顔と、深い琥珀色をした瞳だった。


 雷韋が遠くで陸王の名を呼んでいるのがはっきり聞こえた頃になって、始めて陸王の中で甦ったものがある。


 紫雲を迎えに行った教会脇での雷韋の言葉。


 ──例えば、あんたがあんたである限り、俺はあんたから離れない──


 ──でも、あんたがあんたじゃなくなったら、俺が絶対にあんたをあんたに戻す。そんで、俺はずっと陸王と一緒にいる──


 そんな大切な言葉だった。あのとき、陸王は雷韋の琥珀の瞳に支配されたのだ。さっきも全く同じ事を言われた。陸王が魔族だという事を、雷韋ははなから知っていた。それでもそう言ってくれたのだ。


 真っ直ぐに陸王を見つめて。


 あの日も、今日も。


 なんという愚か者だと思った。雷韋が、ではなく、己が。聞いていたはずなのに、聞いていなかった。見ていたはずなのに、見ていなかった。陸王は自分で自分に目隠しをし、耳を塞いでいたのだ。その事にやっと気付いた。二度も見聞きしていたはずなのに、今更。


 声が随分と大きくなって、藪をがさがさ言わせているのも聞こえてきた。


「雷韋、ここだ」


 声をかけてやると、


「ん? お? あー! 陸王やっとみっけた! ここに来るまで俺が呼んでたの聞こえなかったのかよ?」


 声変わりもすんでいない声を張り上げて、藪をがさがさやって飛び出してくる。飛び出したのはよかったが、飴色の髪には葉っぱが何枚もついていた。


 陸王は雷韋の文句など構いもせずに言う。


「頭が大変なことになってるぞ」

「んん?」


 妙な呻き声を出して、髪の毛を確かめる。


「あちゃー、葉っぱだらけだ。ここに来るまで大変だったもんさ」


 言いながら、雷韋は確認出来た分だけ葉を取り払ったが、それでもあまりがあった。その残りを陸王が取ってやる。


「あんがと。全部取れたか?」

「あぁ」


 妙にほっとした気分で雷韋と顔を突き合わせることが出来て、陸王自身、心の隅で驚いていた。


 何かもっと違うことを想像していたはずだ。だが、雷韋の顔を見た途端、氷塊が溶けるようになくなってしまって、それがなんだったか、今では確認も出来ない。


「あの二人はどうした」

「ん? 紫雲とあの男の人か? 大丈夫だよ。なんにも心配することない。男の人も俺が解呪して、そのあと大地の精霊で精気を入れてやったから、かなり元気になったよ。村のある方向を教えてやって、金を少し渡して、鍵開け道具以外の俺の荷物は全部あの人にやった。村の方角しか教えてやれなかったけど、多分大丈夫だと思う」


 そう言われてみれば、雷韋の格好はすっきりしている。腰に財布と鍵開けの道具が入った入れ物を括り付けているが、それ以外は水袋さえなかった。

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