激突 六

 陸王りくおうの状態を目にして、紫雲しうんは背後に飛ぶ。


 細切れになった腹の肉片が足下に散った瞬間、陸王が笑みを結んだからだ。しかもその笑みは、心底楽しげなものだった。


 狂ったわけではない。単純に手加減抜きで戦えると思ったのだ。だからこその笑みだった。久しぶりの感覚に、胸が躍るようだ。腹の傷は決して浅くも軽くもない。腹から肉片が飛び散るくらいには深手だ。内臓も傷ついている。血も止めどなく流れていく。それでも楽しかった。


 やはりそこは魔族なのだろう。手加減しなくていい相手が現れると、心底楽しくなる。


 だからと言って、魔族の本性を現すようなことはない。純粋に戦うのが楽しくなるだけだ。それはおそらく、自分が死ぬようなことになったとしても。


 戦いで負う傷の痛みは甘美だ。ただ漠然と生きているより、よほど己の生を生々しく感じさせてくれる。


 直後、陸王は動いた。


 腹の痛みなど放って。


 紫雲は怪我をして尚、楽しげに笑んだ陸王がおぞましくてならなかった。それが突っ込んでくるのだ。自分目掛けて。


 その陸王は、紫雲が間近になったとき、刃を大きく払った。と、間をおかず、紫雲の胸元が切り裂かれる。それは空気までをも切り裂く斬撃だった。斬撃を受けて、一瞬体勢を崩した紫雲だったがすぐに立て直し、鉤爪を眼前に翳して突っ込んでいった。


 当然ながら互いに突っ込んで、すぐにぶつかり合う。吉宗の刃と鉤爪を挟んで、陸王と紫雲は睨み合った。どちらの目にもこれ以上もないほどの殺気が湛えられている。その状態のまま、紫雲は左手で印契いんげいを組んで神聖語リタの詠唱を始めた。


 途端、呪力を持った言葉が陸王に襲いかかる。眼前の紫雲から紡がれる言葉は、全て陸王にとっては呪いの言葉。それも強力な言葉ばかりを選んでいるように思える。


 魔術には決まった詠唱文句はない。同じ効力を持つ魔術であっても、人それぞれに違う文句で詠唱されるのだ。それから言えば、人の数だけ詠唱文句が存在することになる。魔術で発現したい物事の鍵となる言葉さえ押さえておけば、大体同じような効力を持った術が発現するのだ。その際、範囲や規模も決めておく必要がある。強く大きな魔術を発現させようとすれば、それだけ詠唱も長くなるし使う言葉も強くなる。


 魔術の基本がそれなのに、言葉そのものに呪力があり、魔族に多大な影響がある神聖魔法リタナリアならばその詠唱文句は推して知るべしである。言葉一つ一つが既に小さな魔術と言っていい。紫雲は今、それを口にしている。


 魔族が使う魔代語ロカは神聖語の逆発音だ。だから陸王には、紫雲がどんな言葉を使っているのか理解出来る。紫雲が発現しようとしているのは、魔族を貫く光の槍を降らせる魔術だ。しかもその範囲は広いのに、魔族以外には一切効果がない。ほかの種族には、陽の光が当たっているとしか感じられないものだ。樹木だって素通りしてくるだろう。


 そんな術を発現されれば、陸王は一瞬にして針鼠だ。どうあっても詠唱を完成させるわけにはいかない。紫雲が一言一言言葉を発しているそれだけでも陸王は息が切れ、身体の自由が利かなくなっていっているというのに、その上、更に針鼠にされたのでは堪ったものではなかった。


 陸王は紫雲の詠唱を止めるため、鍔迫り合いの体勢のまま左手に吉宗を預け、右拳で殴りにかかった。が、それを身を沈めて躱される。その拍子に、鍔迫り合いが崩れる形になった。


 それに合わせて、陸王は咄嗟に左足で紫雲の上体を横薙ぎに蹴りつけた。紫雲は詠唱を止めないまま右腕で防御したが、蹈鞴たたらを踏んで体勢を崩す。左手は印契を組んだままで、紫雲は左手や左腕を上手く使えない。そこに目をつけ、今度は吉宗の刃で鉤爪を頭上に巻き上げて、右足で胸を強く蹴り飛ばした。紫雲は反射的に左腕を胸の前に持ってきたが、腕ごと胸を蹴りつける。


 骨の折れた感触が足に伝わってきた。当然、左腕。それから肋骨も。


 それだけの衝撃を受けて、紫雲は派手に背後に吹っ飛んだ。そして太い樹木に背中を強かに打ち付けて、そのまま倒れ込む。


 紫雲からはもう詠唱は聞こえなくなった。腕も肋骨も折れた上に、背中を木に強打したのだ。意識さえないだろう。弱々しく噎せる音が聞こえてくるだけだ。血の匂いがしてきたことから、肋骨はいくつか肺に刺さったのだろう。それで咳に血が混じって吐き出しているのだ。


 陸王はそれでも手を緩めようとはしなかった。陸王自身も殺されかけたのだ。放っておけば、妖刀のこともある。きっとあとを追ってくるだろうと思った。肋骨が肺に刺さっているなら、放っておいてもこんな場所では死ぬかも知れないが、陸王は決定的な死を与えようとした。うつ伏せに倒れている紫雲の頭を踏み潰せば、簡単に事は終わるのだから。


 そうして一歩を踏み出したとき、紫雲を庇うように雷韋が立ち塞がった。


「駄目だ。これ以上は駄目だ、陸王。紫雲はあんたに負けた。それでいいじゃんか」


 陸王は表情を変えることなく、静かに言う。


「そいつを放っておけば、必ずあとから俺を追ってくる。魔族を見逃す修行モンク僧はいねぇ」

「あんた、分かってるのか? 瞳が紅い」


 陸王よりも雷韋の方がずっと静かに現実を言った。その言葉にはっとなる。


「俺に買ってくれた耳飾りの紅玉ピジョンブラッドとそっくりになってるぞ」


 言われて、陸王は自分自身で今の自分は常の自分なのか、それとも魔族の性に突き動かされているのか分からなくなった。けれど、いつの間にか瞳が紅く染まっていたという事は、今は魔族の本性の方が強く表れているのだ。精神的にも、肉体的にも。


 雷韋からさっと目を逸らし、陸王は大きく息を吸い込み、吐き出した。それから一度だけ意識して瞬きをする。そうすることで落ち着いたのか、陸王は自分でもそれと分かるほど冷めた気分になっていた。紅く染まっていた瞳も、すっと黒く染まる。それが感覚で分かった。


「陸王、俺はこれから紫雲の怪我を治す。あんたの腹の傷だって深いんだ。それも治す。そんで、魔剣を持ってたあの人も回復させるよ。これでいいだろ?」


 言葉は尋ねてくるようなものだったが、そこにははっきりとした意思があった。今、目の前で起こっていることの全てを収めるように。


 それを聞きながら、陸王は雷韋の血の匂いを嗅いだ。妖刀が現れたことで魔族も出てくるかも知れないと、腕を切らせたままだったのだ。


 急に気持ちが冷めてしまったせいか、雷韋には無理ばかりをさせている気になった。


「雷韋、魔族は暫く出てこんだろう。お前の腕の傷も一度塞いでおけ」

「ん? あ、あぁ、これな。うん、あとでな」


 急に雷韋が鈍い反応を示したのに気づき、雷韋の腕を見ると、腕から真っ黒に変色した血液が溢れ出していた。


 それを目にして、まさかここまでとは、と思う。


 さっき、魔族は魔気を出していなかった。出さないまま逃げ去っていったのだ。魔気が溢れていれば、同じ魔族の陸王にはそれと分かる。なのに、こうして雷韋が濁った血を流していると言うことは、自分が魔気を発していたのだ。完全に魔族として紫雲と対峙していたのだと知って、陸王はそんな自分が浅ましくて堪らなくなる。思わず顔を逸らした。


「あ、あの。大丈夫だぜ? もう、魔気は出てないみたいだから」

「……知っている」


 雷韋の宥めようとする声音が、陸王には深く突き刺さった。雷韋にそんな気はないのだろうが。それは分かっているが、陸王自身がもう挫けそうだった。


 腹の中で、どおりで紫雲の胸骨まで折ってしまったわけだ、と思う。人として対峙していれば、異様な力は出ない。だが、神聖魔法を使われたことで、魔族として対峙してしまったのだ。そのせいで、人以上の力が出ていた。その事にもっと早く気付くべきだったと、己を憎々しく思った。だが、全ては終わってしまったことだ。今更、事実を捻じ曲げることは出来ない。


「雷韋。自分の怪我は自分で治す。悪いが、二人のことは頼む」

「え? ちょ……っ」


 背中を向けたその後ろから、雷韋の困惑した声が聞こえる。


「あんただって酷い怪我なんだぜ。血が沢山出てる。まだ止まってもないだろ? それに紫雲はどうすんだよ。怪我治してやったあと、もしかしたら……」


「好きにさせておけ。それより手当が先だ。肋骨が肺に刺さっている。放っておくと呼吸が出来なくなっちまうぞ」


 言うだけ言って、陸王はその場から去った。

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