第十章

疲労の蓄積 一

 梟の声が闇の中に寂しげに響く。


 丈の高い下草が風に吹かれるたびに草擦れを起こして、ざわざわと鳴り響いていた。


 暖色の明かりに惹かれて飛んでいる蛾が、時折誤って火の中に飛び込んで燃え尽きる。


 空は満天の星空だ。けれど、三日月がそのささやかな光を遮断するように、中天にかかっていた。


 辺りには自然の音しかない。


 それを遮るのは、時折爆ぜるたきぎの音だけだ。


 そんな中、雷韋らいはぐったりしたように眠っていた。長い飴色の髪の毛も乱れて、とぐろを巻く蛇のようだった。


 陸王りくおうも薪を前にして、片膝を立てて目を瞑っている。肩には、刀を抱き込むようにしてもたせていた。その陸王の精悍な顔にも雷韋ほどではないが、疲れが滲んでいる。


 栗茶色の長髪を斑に明るく染めている薪の炎を眺めながら、紫雲しうんはぽつりと陸王に声をかけた。


「陸王さん、今のままだと雷韋君が保ちませんよ」


 その言葉に陸王は目を開けて、傍で眠っている雷韋に視線を移す。そして、面白くもなさげに返した。


「んなもん、お前に言われなくても分かっている」


 黒髪を掻き上げて嘆息をつく。


「でしたら、どこかに人里を探すべきです。人のいた場所から離れて、もう二週間ですよ。水は雷韋君が水脈を調べてくれるのでなんとか保っていますが、食べるものはもう尽きます。それに何より、疲労が酷い。私と貴方は体力が保っていますが、雷韋君は見かけ的にもそんなに体力がないでしょう」

「だから分かっていると言っている」


 不機嫌丸出しで陸王は言い遣った。


「ならばどうするつもりです。この二週間、魔族どころか魔物にさえ遭遇していないんですよ」


 どこかなじるに近い口調で言う。


「だが、核を目指してこっちに近づいているはずだ。確実にな」

「けれど、遭遇するのはいつになるか分かりません。この先に人里があるとは限らないし、なのに食糧は尽きかけです。眠っている雷韋君を見るだけでも痛々しいですよ。こんなにやつれて」


 三人は、街道の要衝であったあの町を発ってから七日ほどは街道を東に向かっていた。だが、二週間ほど前にとある村に向かう細い道に入り込み、そこから道なき道をやってきた。それまでは街や村などで普通の食事を取れていたが、ここ二週間はずっと保存食だ。その二週間の間に、雷韋はみるみるやつれていった。夜は陸王と紫雲が交代で起きて魔族の襲撃に備えていたが、雷韋が歩哨に立つことはなかった。食べ物の変化と野宿続きで、体力がどんどん削られていったのだ。保存食では食べる量も少なく、一晩中寝ていても野宿ではゆっくりとした休息が取れるわけでもない。


 なのに、雷韋の元気がなくなることはなかった。いつでも元気で、何かを悲嘆することもない。


 今現在、食料も逼迫して野宿も続いているが、子供故の脳天気さからか、雷韋は一向にめげた様子も見せない。


 しかし、その様子が紫雲には却って悲壮さを感じさせる。


 だからと言って、陸王が雷韋をぞんざいに扱っているわけでもないのだが。


「雷韋のことは考えている。こいつに何かあって困るのは俺なんだからな。こいつは俺の生命の綱なんだ。失うような真似をするわけがねぇだろう」

「その言い方、気に食わないですね」

「何がだ」

「生命の綱という言い方です。まるでもののような言い方じゃありませんか」

「だが、間違っちゃいねぇ。俺自身も雷韋の生命の綱なんだ。お互い、そう認識し合ってる」

「そこに人としての感情は?」


 紫雲は厳しい眼差しを陸王に向けたが、陸王はどこ吹く風だった。


「あるわけねぇだろう、そんなもの。これは単なる事実だ」

「対は何よりも大切なものではないんですか?」

「事実を曲げるわけにはいかんな」

「酷い人だ、貴方は」


 心持ち垂れた目に非難の色を乗せて陸王を見遣ったが、陸王はそれを跳ね返した。


「対に出会ってもいない奴に、俺達の何が分かる。勝手言ってんじゃねぇぞ」


 流石にこれには紫雲も言い返せない。対が傍にいるという感覚さえも分からないのだから。


 陸王は、くだらんと言い捨てた。そうしてさっきのように目を閉じてしまう。今は紫雲が歩哨に立つ時間なのだ。だから陸王はうっすらとした眠りに入った。その裏側で、陸王は余計なお世話だと思っていた。陸王だって何も考えていないわけではない。雷韋のやつれように誰よりも心を痛めているのは、対である陸王だ。それでも今は、道なき道を進むしかないのだ。最後に立ち寄った村に戻るという選択肢はなかった。もし今、あの村へ取って返しても二週間かかる。その間、他に人の住む場所はなかった。手持ちの食料はそこまで保たない。だったら、この先に人里を探した方が断然有意義だった。それに、先へ進めば魔族か妖刀と邂逅する確率も高い。


 後退と前進どちらかを選ぶとしたら、やはり前進だ。


 雷韋にはなんとか堪えて貰うしかない。


 陸王がそうはらを決めたとき、ふと傍で寝息を立てている雷韋の頭を撫でたくなったが、拳を作って衝動を抑え込んだ。何故か、紫雲の前ではそんな事をしたくなかったのだ。


 それから時間が経ち、陸王が歩哨に立つ番となった。だが、今夜も何も起きそうになかった。思い出したように梟が鳴き声を上げ、時折、木の陰から鹿や狐が顔を覗かせたりするだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。


 そうして夜をやり過ごしていると、やがて空が明けてきた。深い森の中だったが、朝陽が差し込むようになる。


 その日差しに紫雲は目を醒ましたが、雷韋はいつもの如くだ。妖刀や魔族と対峙しようと旅を続けているのに、今朝もまた寝汚いぎたなさを発揮している。そこには緊張感の欠片もなかった。


「雷韋、起きろ」


 陸王は問答無用で雷韋の頭を引っ叩いた。


「いった!」

「起きたか」


 ぶっきら棒に声をかける陸王に、雷韋は眼差しだけで噛み付いた。


 それを見て、


「嫌なら自力で起きるんだな」


 そう簡単に言い遣る。


「そんなん出来てたら頭なんか引っ叩かれてねぇや」

「ならしょうがないな」

「ちぇっ」


 舌を鳴らしつつも起き上がった雷韋だったが、紫雲がごく普通に声をかけてくる。


「お早うございます、雷韋君」

「うん、はよー」


 にっこり笑ってから、雷韋は水袋から水を飲み始めた。その水袋は元々持っていたものより、随分と大きなものに変わっていた。多少大きくなった分、肩からかけられるようになっている。


「飯、食っちまえよ。食ったら出発だ」


 陸王は言いながら、荷物の中から干し肉を一枚出している。


「へーい、へい」


 適当な返事を返して、雷韋は荷物の中からコルクで蓋がされている硝子の瓶を取りだした。その瓶には四分の一ほどの透明な液体が入っている。


「雷韋君、それは果物の砂糖漬けが入っていた瓶ですよね?」

「そだよ~。砂糖水さ」


 雷韋は上機嫌で答える。


「それをどうするんですか?」

「飲むに決まってんじゃん」


 上機嫌から、何をつまらないことを聞くのかという顔つきになる。


「飲むって、まさか今朝はそれだけですか?」

「うん。蜂蜜も入ってっから栄養もあるぜ? 昨日寝る時から決めてたんだ」

「保存食が少ないなら、私の分を分けてあげますよ」

「あぁ、それはいいから。人のもんまで貰って食う気にならないよ。俺はこれでいいの。瓶は売れば金にもなるしな」


 言いながら、雷韋はコルクの蓋を外して瓶に直接口を付けて飲み始めた。


 その様を紫雲が痛々しそうに見ている。


 とろりとした液体を全て飲み干すと、雷韋は旨そうに唇を舐めた。


「甘~い。久々に甘いもの食ったって感じがする。やっぱ疲れてる時って、甘いものだよな」


 雷韋の感激の声を耳にして、陸王は問うた。


「疲れたか?」


 その陸王に顔を向けて、雷韋はきょとんとした顔をする。


「ま~、疲れてないって言ったら嘘になるかなぁ。でも、ちょっとだけな」


 言葉の最後には笑顔になっていた。

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