新たな道行き 五

 翌日、教会まで紫雲しうんを迎えに行くために宿を引き払った。


 本来なら、東の城門で待ち合わせすればよかったのだが、雷韋らいが「どうせ通り道になるんだし」と言って、陸王りくおうは気が進まないながらも雷韋の言うとおりにした。


 大広場を横切り、少し東側へ引っ込んでいる教会をぐるりと囲む塀に沿って二人は歩いていた。


「陸王、今日は調子よさそうだな。昨日、外に出てから、なんとなく気分がよくなってきたみたいだけど、そのせいか?」

「まぁ、そんなところだな。部屋に籠もってばかりは性に合わん」

「んでも、急に体調崩すから心配したんだぜ?」

「悪かったな。だが、もう万全だ」


 昨日は買い出しを済ませてから部屋に一人で戻ったが、すぐに窓を開けて換気した。雷韋がいないというのに、部屋に幾分か血の匂いが染みついているようだったからだ。それからは調子がいい。


 しかし、まさか血の匂いに酔って体調を崩すだなどとは思ってもみなかった。やはり魔族にとって、鬼族の血の匂いは特殊なのだろう。血臭立ちこめる戦場にいてもなんと言う事もないのに、雷韋の血の匂いだけは違ったのだから。


 いや、我慢していたのも悪かったのだ。陸王は血の匂いに酔ってから、何度か魔族の本能に従いそうになった。心配して顔を覗き込んでくる雷韋を、吉宗の刃で切り裂きたくなった。あるいは己の手そのもので。だが、その衝動を必死に堪えた。そうしているうちにただ酔っている状態から、気分が悪くなり始めたのだ。水以外、何も口にしていなかったが、幾度か戻した。出てくるのは当然、胃液のみだ。酒で悪酔いをすると言う話を昔、日ノ本の雇われ侍達から聞かされたことがあるが、それに近かったのかも知れない。酔って、本能にも従えずに我慢しているうちに、酔いすぎたのかと。酒なら身体が勝手に解毒してくれるが、血の匂いだけはどうにもならない。


 眠っていても、常にどこかが覚醒していて、常よりも眠りが浅くもなった。それこそ、雷韋が立てる寝返りの音でさえ耳の障りになるほどに。吐き出せない本能が胸の中で蟠って、何かを狂わせていたのかも知れない。


 それでも思うのは、雷韋を傷つけなくてよかったという事だ。意識が正常に戻ってから、それは本当に心の底から思った。雷韋を失うことより、これまで飼い慣らしてきた本能を押し殺すことの方がましだし、陸王には簡単だった。


 対を傷つけたり、失うことは恐ろしい。今回のことは、それを心底から教えてくれた。


「なぁ、陸王さぁ」


 雷韋は丈高い教会の塀を見上げるようにして語りかけてきた。


「なんだ」

「俺なぁ、考えたんだ。いろんな事」

「例えばなんだ」


 陸王が気のない返事をしていると、雷韋は塀から陸王に顔を向けてきた。

 ふとその顔を見遣ると、目尻に紅を差した深い琥珀の瞳がまるごと陸王の中に入ってきた。感覚とでもいうのだろうか。存在そのもののような何かだ。


 思わず目が離せなくなる。


「例えば、あんたがあんたである限り、俺はあんたから離れない」


 陸王はその言葉にぞっとした。同時に、視界の中が琥珀の瞳で支配される。


「でも、あんたがあんたじゃなくなったら、俺が絶対にあんたをあんたに戻す。そんで、俺はずっと陸王と一緒にいる」


 そんな感じかな? そう言って、今度は裏も表もない子供然とした笑顔を浮かべた。それから前方へ顔を向ける。


 塀の曲がり角はいつの間にか、すぐそこまで迫ってきていた。


 雷韋はそれを見遣って、


「紫雲、呼んでくるよ」


 と言って、ぱたぱたと駆け出して、そこまで迫ってきていた角を曲がっていった。


 そこで陸王は大きく息を吐き出した。無自覚のうちに呼吸を止めていたらしい。息を吐き出し、吸い込んだときに脳が痺れる感じがして、それに気付いた。


 それにしても、今、雷韋は何を言おうとしていたのか。


 否。何を言った?


 それは陸王がなんであるか知っているような口振りではなかっただろうか。体調を崩している間、無意識に正体が知られるようなことでもしただろうか? いや、そんなはずはない。陸王は本能を抑えられていた。間違いないと、強くそう思う。


 そして角までやってきて、陸王は足を止めて道の向こうを見遣った。すると見えたのは、片腕を振り上げて、門前もんぜんに立っている紫雲のもとへ駆けていく雷韋の後ろ姿だ。大きな声で紫雲の名を呼んでもいる。


 その後ろ姿はただの子供だった。隙だらけで、いつでも襲いかかれる。


 雷韋はいつだってそうだった。陸王の前では隙だらけなのだ。


 それを思い起こし、陸王はこちらへやってくる二人を待った。その間、陸王は己に言い聞かせる。


 絶対に雷韋の前では本能を解放してはならないと。それは雷韋を傷つける行為だからだ。それは身体的なことに限ったことではない。


 心までも傷つけることだ。


 それだけはあってはならないと強く思う。その思いが両手に拳を作らせた。

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