夢の顕現 七

 雷韋らいが恐ろしさのままに魔族を見つめていると、魔族の口が開かれ、涎と一緒に舌までが這い出してきた。その舌で空気を舐め取る。血臭で一杯の空気を。空気を舐め取って、魔族が鼻息荒く言った。


「なんだぁ、こりゃあ。空気まで甘いじゃねぇかぁ」


 言ったそのあと、耳障りの悪い声を立てて笑った。更に身体が大きくなる。まるで、既に雷韋を喰らいでもしたかのように。


 いや、空気に混じる血の匂いを喰ったのだ。魔族はどこまでも貪欲だ。本体を喰らわずとも、感情だけを喰らうことだって出来るのだ。今だって、雷韋の恐怖と不安を喰らっている。


 魔族の目はにたにたと笑って、より近くへと近づく。お前の血を啜らせろ、肉を喰らわせろと。


 と、魔族の身体が爆発的に大きくなり、無数の触手が襲いかかってきた。


 雷韋の頭の隅で声がした。逃げないと。でも逃げられない、と。ほんの一瞬、脳裏で思考が弾けた。だが、現実は触手が襲いかかってきている。


 逃げろ、まだ間に合う。


 逃げても無駄だ、もう間に合わない。


 触手に襲われている刹那のときに、肯定と否定が弾け合う。自分でも、もうどうしていいのか分からない。思考は完全に混乱していた。


 が、次の瞬間、何故か触手が魔族の方へと戻っていった。いや、でも。弾けるようにヘドロの赤い触手の帯が雷韋の周辺を舞っている。舞っている触手は雷韋を掴みきれずに、後方へとそのまま突っ込んで視界から消えていくのだ。


 雷韋には何が起こったか分からなかった。理解が追いつかない。逃げ出すことに対してさえ、頭は正常に働かなかったのだ。今、この瞬間、何が起こったかなど分かるはずもなかった。


「雷韋!」


 次の瞬間、いやに懐かしいと思える声が飛んできた。


 この声は陸王りくおうだ。


 頭がそう認識した途端、両膝から力が抜けた。そのままその場にへたり込んでしまう。


 魔族の目が雷韋から陸王へと移る。


 それに合わせて、雷韋の視線も陸王の声がした方に向いた。


 そこには、身体中血塗ちまみれの陸王が吉宗を構えて立っていた。夢の中に見た陸王の姿そのものだった。


 助けに来てくれた。そう思う。


 だが、肩で大きく息をしている。ここまで走ってきたのだろうと頭の隅で思った。


 雷韋には町からここまでの距離は分からない。けれど、随分あることは陸王の苦しげな呼吸から、なんとなくだが分かった気がした。


 今さっき雷韋を捉えようとしていた触手は、陸王の斬撃が起こした鎌鼬によって断ち切られて、雷韋を捕らえることなく吹っ飛んでいったのだ。


 陸王が現れたことで、魔族の身体が収縮していく。下から睨め付けるような目線を陸王に遣って。まるでその様は、妬んでいるかのようだった。


 しかしそれに気付かず、雷韋は陸王の名を小さく口にした。救われたとの思いと共に。


 陸王の名を耳にした途端、魔族が雷韋を見、陸王にもう一度目を遣った。


「陸王、だとぅ?」

「それがなんだ、化け物」


 面白くなげに呟いた魔族に対して、陸王は正面切って『化け物』と言い切った。それが逆に面白かったのか、いきなり魔族は笑い出した。そうして、笑い尽くしてからしゃべり出す。


「『化け物』! そうだ、は『化け物』だ。人族を喰らう怪物だぁ。でもなぁ、は知ってるぞ。『陸王』って名前を」


 陸王は言われて、注意深く魔族を見た。気泡沸き立つ身体が再び大きくなり始めている。


「雷韋」


 陸王はこっちへ来いという風に手を差し伸べたが、雷韋はへたり込んだまま動けなかった。緊張の糸が切れて、全身から力という力が抜け落ちていたのだ。だから陸王に向かって、緩く首を振る。


 陸王は仕方なげに、魔族の様子を窺いながら近づいてきた。


 その間にも、魔族は身体を徐々に膨らませながら言う。


「『陸王』を殺せば天使族が喰えるらしいんだぁ。旨いそうだぞぉ。そこの小僧ほどじゃないと思うけどなぁ」


 陸王は眉間にしわを寄せた。不可解だという風に。


「何故、俺を殺すと天使族が喰えるってんだ。そもそも、天使族と魔族は同族だろうが」

「違う! 違う! 違う!」


 魔族は突然、ひきつけでも起こしかねない様子で激昂した。


「天使族は呪われてない。天から堕とされた堕天使が天慧の呪いを受けたから、その末裔すえが魔族だから、だから達は呪われてるんだ。天使族は呪われてない。達とは違う生き物だ」


 激昂して金切り声を上げる魔族に注意を払いつつ、陸王は雷韋を庇って立つことが出来た。


「で? 何故、俺なんだ」


 陸王の問いに、魔族の態度が急に変わった。


「そんなの知るかぁ。でも有名だぁ、『陸王』って名前は。魔族で『陸王』を知らない奴なんていないんじゃねぇかなぁ」


 事実を事実として、魔族は淡々と言う。ぼそぼそと聞き取りにくい声音ではあったが。


「わけが分からん」


 言ったのは陸王。本当にわけが分からないからそう言ったのだ。魔族に狙われる理由も意味も、見当がつかない。


 それに、陸王を殺すと天使族が喰らえるという。さっき魔族は陸王に天使は同族だと言われて激昂したが、天使族と魔族は元は同族だ。どんな下級の魔族でも、交配のもとを遡っていけば、いずれ天使に辿り着く。天使が天慧や羅睺の呪いを受けて誕生するのが魔族だからだ。


 何もおかしな事ではない。


 それでも魔族は違うと憤った。天使族と自分達とは違う生き物なのだと。


 だが、陸王からしてみれば、今はそんな事はどうだっていいことだろう。どうして自分が狙われるのか、陸王には分からない。陸王の名を知らない魔族はいないとも言った。


 随分前、戦場で魔族が湧いて、それを一匹残らず殺し回ったことはある。しかし、それを根拠とするのも浅はかな気がした。あのときは単に血の匂いに誘われて、たまたま魔族が四方八方から湧いただけだ。そしてあの戦場で、陸王一人が生き残ったのも偶然の産物だろう。神剣である吉宗の力もあり、陸王自信の悪運も働いたのだ。


「陸王、知ってるか? この世界にはなぁ、『妖刀』がある。はよく知らないがぁ、あれはおめぇを殺すために造られたらしいぞぉ」


 言って、咳き込むような笑い声をあげる。心底、楽しいとでも言うかのように。


「妖刀……」と雷韋が呟く。戦慄わななくように。


 しかし、陸王は小さく舌打ちをして、問う。


「妖刀がなんだ。んなもん知るか。俺を殺したかったら、今やれ。……それも全力で。じゃねぇと、後悔することになるぞ」


 全力でも後悔するだろうがな。陸王は最後にそう付け加えるのを忘れなかった。


 その言葉に触発されたように、魔族は赤い身体を沸騰させた。ぼこぼこと気泡が沸きあがってくる。身体も更に大きくなった。今では見上げるほどだ。


 陸王はそれを楽しそうに見遣る。けれど雷韋の状態を目にして、よくもここまでやってくれたと腹に据えかねてもいた。


「陸王」


 雷韋が声をかけるも、陸王は「少しでもここから離れていろ」と返してきた。雷韋は少しの間を置いたが、ここにいても邪魔にしかならないと判断して、陸王の言うようにそこから離れた。一時は陸王が駆け付けてくれた安堵で身体から必要な力まで抜けてしまったが、今は大丈夫だ。力も身体に戻り、安心して陸王の戦いを見ていられる。それでも、立ち上がった瞬間は少しくらっとした。いくら身体が迅速に血液を生成しているとは言っても、限界がある。排出量の方が多くなれば、血液の生成が迅速に行われていても貧血気味にはなる。しかも魔気が濃くなればなるほど、雷韋の身体は冒され、血液の排出量も多くなるのだ。

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