夢の顕現 六

 雷韋らいは魔族の瞳から目を逸らしたかったが、逸らした瞬間、飛び掛かってくる気がして逸らせなかった。


 あんな目は見たくないというのに。それでも恐ろしすぎて、視線を引き剥がせなかった。それどころか、身体も動かない。射竦められてしまって、動くに動けないのだ。


 その時、自然と雷韋の喉が獣めいて鳴った。


 それを耳にした魔族が小さな両腕で顔を覆って、ばっと後退あとじさる。


「な、なんだぁ、今の音ぉ。気持ち悪ぃなぁ」


 魔族は水を被った動物のように、ぶるっと身震いした。


 雷韋は真っ赤な目に釘付けになっていて、今何が起こったのか分からなかった。自分の変化にも気付かない。


 魔族は一瞬の嵐を掻い潜ったかのように、また一歩進む。少しの間、腕で顔を覆って、その隙間から覗く紅い瞳で雷韋の様子を窺っていたが、もう変化がないとみたのだろう。それまで千鳥足で歩んできた魔族が、いきなり奇声と共に飛び掛かってきたのだ。


 頭でっかちの幼児の身体が雷韋を襲う。


 その時、雷韋は息を吸っただろうか、吐いただろうか。分からなかったが、火影を握る左手が勝手に動いていた。


 途端、さくっと魔族の首が断ち切れる。だが、身体はそのまま突っ込んできた。それにのし掛かられるように雷韋は後ろへ倒れ込む。


 首のなくなった身体からは鮮血が吹き出し、雷韋の顔と胸元を散々に汚した。もうそれは血塗ちまみれと言ったていだ。


 雷韋はすぐに魔族の身体を放り出すと、上体を起こして首の飛んでいった方を見た。


 その首の付け根からも真っ赤な体液が流れ出している。目は見開いたままだ。


 けれども、それで決着がついたと思えばほっとした。


 雷韋の取った行動は咄嗟の動きだったが、首と身体のある魔族を殺すには、急所である首を狙うか、それとも胴体の寸断が必要なのだから。心臓の破壊も効果的だ。生物としての機能を奪えば、それだけで魔族は滅されるのだから。


 雷韋はまだ身体も呼気も震えていたが、安堵はした。なんとか自分一人でも魔族を殺せたのだ。


 安堵しきって、その場で溜息をつく。そして同時に戻らなければとも思う。ここにいる人間達を全員、植物の精霊魔法エレメントアで癒して、皆で戻るのだ。どこをどう戻ればいいのか分からないが、森は一方に向かって開けている。だったら、そっちを選ばない法はない。


 その時ふと、何かが煮え立っているような音が聞こえてきた。その音にはっとして音の方へ顔を向けると、そこには顔も身体もぐずぐずに溶け始めている魔族の姿があった。


 それを見て、瞬間的に息が止まる。


 このまま分解されるのだろうかという思いと、何かよからぬ事がありそうな気持ちが半々だったからだ。前者ならいい。だが、後者であれば、何が起こるか分からないのだ。


 雷韋はよろけながらも立ち上がり、様子を窺った。


 首を断った魔族の頭と身体は完全に崩れ落ちて、最早、原形をとどめていない。なのに、地面に吸収される様子もなかった。


 ただ赤いヘドロ状のものが出来上がっていく。首と身体、二つに分断したものがふつふつと煮えたぎる音を立てながら、既に一塊ひとかたまりのヘドロになっているのだ。


 あまりの光景に、雷韋は言葉を失った。これから一体、何が起こるのか想像もつかない。


 雷韋が言葉を失ったままでいると、どこからか声が聞こえてきた。


を斬ったなぁ……」


 斬った? 今の口調から、魔族だと理解する。


 だが、その本体はどこに?


 半ば混乱していると、ヘドロの中にぬるりと顔が浮かんだ。狭い額に団子鼻、そして紅い瞳に牙の見える口。


 まさかこれが? いや、うたぐっても仕方がない。斬ったのは確かに魔族の首根だ。


 しかし疑問が残る。どんなであれ、人と同じように首や胴体がある魔族なら、そこが急所の筈なのだ。雷韋の知識ではそうなっている。首を切ったというのにヘドロに魔族の顔が浮かぶとは、これは一体どうしたことなのだろうか。あり得ない、こんな事は。


を斬っても無駄だぞぉ。首も胴体もないぃ。あんなのは見せかけだぁ」


 言う顔はにたにた笑っている。だが、この顔も偽物なのか? いや、そうではないと雷韋は思った。


 顔そのものはある。紅い瞳がそれを証明している。だとしたら、あの泡立つヘドロが本体なのだ。けれど、あんなものを一体どうしろと?


 否。雷韋には何も出来はしない。さっきは咄嗟に首を斬り落としたが、次はどこを斬れと。しかも意識的に。


 さっきまでの不均衡な姿も不気味で、充分すぎるほど怖かったが、ヘドロ状になって泡立っている姿も恐ろしい。


「なぁ、おめぇよぉ、なんでおめぇの血は黒いんだぁ? そういう種族なのかぁ?」


 最後に咳き込むような笑い声を発した。


 その笑い声さえ、雷韋には恐怖だった。不気味で薄気味悪く、心の芯を強い恐怖で満たしてくる。


「黒い血なんてよぉ、見た目は悪いが、味は最高だなぁ」


 口の中でぶつぶつと呟くように言っている。


「おめぇはよぉ、旨いからあとに残してやろうと思ったけどよぉ、でも駄目だなぁ。大人しくしてねぇから、先に喰らってやるぅ。あちこち怪我だらけの人間の方が逃げねぇで、そのまま大人しくしてるもんなぁ。旨いもんはあとに取っておこうと思ったけど、駄目だなぁ。おめぇの恐怖心ももっと味わいたかったけどよぉ、残念だなぁ」


 残念という折りには、心底から言っているように聞こえた。実際、心底残念だったのだろう。声に滲み出ていたから分かる。


 しかし雷韋も、黙ったままではいなかった。震えそうになる舌を宥めて問うた。


「な、なんでこんなに沢山の人がここにいるんだ。それも、みんな怪我してる」


 魔族はそれを聞いて、ふふんと鼻で笑った。


「腹が減った。だから攫ってきただけだぁ。竜巻を起こしてなぁ」


「そんな……、あの風はお前が起こしたのか! 何回も風が巻いてた」


「んん? 何回もぉ? 知らない。根源魔法マナティアで竜巻を起こしたのは、一度きりだよぅ」


 魔族はヘドロ状で首はないというのに、首を傾げたように雷韋には見えた。それは瞬間、魔族が雷韋から視線を外したせいかもしれない。だが、逸らされた目は再び雷韋の上に落ちてきた。


 短い会話を重ねただけだというのに、雷韋の口の中はからからに乾いていた。唾を飲み込んではみたが、ちっとも喉が潤った気がしない。


「それにしても、こんないい獲物が中に紛れ込んでたのは、は本当についてるなぁ。そろそろ喰っちまうかぁ」


 その一言に戦慄する。背筋の産毛がぞっと逆立ったように思う。


 ずる、と赤いヘドロが動いた。瞳をきらきらさせて。これから味わう肉の味を想像しているのだろう。爪一枚、髪の毛一筋も残さず喰らうつもりだ。そういう気配がひしひしと感じられる。


 ヘドロ相手にどう戦えというのか。いや、そもそも雷韋は自分が戦えるかどうかさえも分からなかった。


 また、ずる、と近寄ってくる。それとは逆に、雷韋は後退あとじさった。辛うじて火影を構えてはいるが、攻撃されたところで役に立つかどうかすら分からない。火影を形作っている火の精霊に命を下すことすら出来なかった。


 魔族は更に踏み込んでくる。今度はヘドロの身体を膨らませて。赤い表面にいくつも気泡が現れては次々割れて消えていく。消えてもまた気泡は現れた。その中心に紅い瞳がある。団子っ鼻は鼻の穴を大きく膨らませて、口は涎を垂れ流している。


 まじまじと見たくないと思うのに、どうしても雷韋の黄色に変色した瞳は魔族の顔を見つめてしまう。

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