第八章

夢の顕現 一

 宿に着いて部屋に戻る際、陸王りくおうはワインを、雷韋らいはミルクを頼んで部屋に持ち込んだ。


 だと言うのに、雷韋は窓辺に椅子を持っていき、そこから外の様子をぼんやり眺めているばかりでミルクを飲もうとはしなかった。陸王はエールよりは酒を飲んでいる感覚がするためワインを飲んでいたが、それでも一向に酔いは回ってこない。身体が解毒処理を行っているのもあるが、舐めるようにちびちびとやっているのが最大の原因だった。それでも手持ち無沙汰はある程度は解消される。いっそのこと、ワインをさっさと飲み干してしまって、湯でも頼もうかとも思ったが、今はなんとなくそんな気分ではなかった。


「雷韋、飲まんのか?」


 そう声をかければ、ぼーっとした声が返ってくる。


「飲むけど、まだいい」


 陸王はそれを聞いて、眠いのもあるのだろうと思った。だが、折角、金を出して買ってきたのだ。放置するのも馬鹿らしいだろうと思って、雷韋のところまでミルクを運んでやった。


「ほら」

「あ。あんがと」


 杯を受け取って、礼を返してくる。


「こんなところから、何か見て面白いものでもあるのか?」


 そう問えば、雷韋は首を振る。陸王も外の大路を眺め遣って、


「人通りは相変わらずだな。ごちゃごちゃしてやがる」


 そんな事を無意識のうちに呟いていた。


「でも、天気が崩れるのかな? 風の精霊が騒がしいよ」


 雷韋の言葉に、陸王は空を見上げた。上空では風の流れが速いのか、雲が次々と流れ去っていく。


「あぁ、確かに雲の流れが速いな。天気が崩れるのかも知れん」


 陸王が言ったからか、そこでやっと雷韋は空を見た。


「うん。時々、風も巻いてるよ」

「風が巻く?」

「よくあるよ。風雨の前触れなんかでさ、風が巻くこと」

「って事は、今夜は嵐になるのかも知れんのか。明日からまた街道を歩かなけりゃならんってのに、そんな中に放り出されたくはねぇな。ま、そうなったら大概は延期になるだろうが」


 些かうんざりした声音だった。それを聞いて、雷韋が小さく笑う。


「しょうがないよ。天候を知ることは出来るけど、それをどうにかするなんて出来ないんだから」

「どうともならんのか」

「無茶言うなよ。どうしようもないってば。でもさ」


 雷韋は陸王を見上げて、一旦言葉を切った。


「災厄だよな」

「嵐のことか」


 雷韋は緩く首を振った。


「魔族が災厄だなって」


 陸王は何も言わなかったが、黙って雷韋の瞳を見つめた。


「魔族って、どうして存在するんだろう。全ての人族の天敵なのに。いてもいいことなんてなんにもない。光竜こうりゅうはどうして魔族を地上に生かしてるんだろう。災厄でしかないのに」

「さてな。だが、元々魔族ってのは堕天使のなれの果てだ。堕天した天使達が天慧てんけい羅睺らごうの呪いで魔族に転化する。もしかしたら、そこに光竜は『人』だった頃の何かを見いだしてるのかも知れん」

「殺すことしかしないのに? 何も生み出さなくても?」

「そいつは光竜にでも聞くんだな。光竜は原初神であり、世界だ。魔族にも、生物として何かを求めているんだろうさ。それがなんなのか、俺には知れねぇがな。そんな事ぁ、精霊使いエレメンタラーのお前の方が分かるんじゃねぇのか?」


 そこで雷韋は陸王から、町並みへと目を移した。


「神の意識は大きすぎて、人には分からない。分かろうとしても、膨大な情報量について行けない。だから、精霊使いの俺にだって分かんねぇよ」


 と、そこまで言って、


「また風が……え!?」


 雷韋の目が驚きに見開かれる。


 それが陸王の見た雷韋の最後の姿だった。


 あとは部屋が、何かに吹き飛ばされるように崩壊したとしか言えなかった。少なくとも、陸王が覚えている限りでは。


 耳元で風が激しく唸り声を上げ、視界が滅茶苦茶になって自分がどうなったのかも分からない。視線も一つところに定まらず、常に動いている。いや、定まったとしても何もかもが滅茶苦茶で、それを脳が処理しきることは出来なかっただろう。


 身体中の関節がばらばらに千切れるような痛みを訴え、その痛みさえも、宙に飛んで行ってしまいそうだった。


 何が何やら全くわけが分からず、気付いたときには身体がまるで言うことを利かない状態になっていた。それに、視界も悪い。何も見えないというわけではなかったが、何かに覆われて、視界が利かなかったのだ。


 この状態になるまで、一瞬のことだったようにも思うし、とてつもなく長い時間が経ったようにも思える。


 兎に角今は、視界を遮るものが邪魔だった。


 陸王は焦る気持ちを抑え込み、落ち着いて両手の小指から順に動かしていった。指は十指全てが動く。指が動いたことで、掌の感覚が戻ってきた。それと同時に、腕の感覚も少しずつ。力を入れれば、僅かに動く。どこかにぶつけたのか、それとも何かがぶつかってきたのかは知らないが、右腕に少し鈍い痛みが走った。だが、骨まで折れているわけではなさそうだった。おそらくは打撲だろうと判断して、両腕をゆっくりと目の前に持ってくる。途中、胸が圧迫感に襲われたが、無理に動かした。そして、目の前を覆っているものを力を込めて一気に退かせる。


 途端、瓦礫の崩れる音がした。ほとんどが木片の音だったが。板が折れるような耳障り悪い音が聞こえた気もしたが、そんなものはこの際どうでもよかった。


 視界を覆っていたものを退けると、周りには何もなかった。ただ青い空が広がっている。


 陸王は、ふと息苦しさに襲われた。大きく息を吸い込んでも、酸素が上手く取り込まれていないように感じたのだ。それどころか、いきなり呼吸が詰まって咳き込んだ瞬間、血の塊を吐き出した。それを何度も何度も繰り返す。


 自分の身に何が起こったかなど、理解することも出来ぬまま血を吐き出した。


 咳き込み、血を吐き出しながら胸を見ると、右胸に杭に似た長い木の棒が突き立っているのを見つけた。それを見た瞬間、悟る。


 突き立っていた木の棒の上に落ちたのだと。


 長さや太さからして、卓の脚だ。それが先端から血にまみれている。間違いなく、この上に落下してきたのだ。


 何故かは分からないが。


 首を巡らせてみると、辺りは瓦礫の山だった。そして耳を澄ますと、人々の悲鳴や泣き喚く声、不安げに大勢のざわめく声が聞こえてくる。


「瓦礫を退けろ」だとか「生きている者はいないか!?」などの声も様々聞こえてくる。中には「あぁ、神様!」と叫ぶ声もあった。が、陸王は助けを求める声も出なかった。生きているが、大声を出すことが出来ない。


 瓦礫を退ける音が遠くから人々の声と同時に聞こえ始める。


 陸王はそれを聞きながら、頭の中で雷韋のことを思い出した。あの小さな少年はどこへ行ったかと。自分のような怪我をしていなければいいが、などと思いながら。その思いとは逆に、瓦礫の下敷きになってはいないだろうかとも思った。


 すぐに動き出して、瓦礫を退かせたいと思った。雷韋を捜さなければ、と。その傍らで、陸王は未だに血を吐き出していた。息を吸って吐き出すとき、呼気と一緒に血までが吐き出されるのだ。量は最初より減ってはいるものの、胸の傷は深い。位置からして肺を貫いているのだろうから、呼気と共に血が吐き出されるのも当然だ。下半身は完全に埋もれている。


 動けねぇ。


 そんな言葉が脳裏を過った。


「雷韋」


 決して大きな声ではないが、雷韋の名を口にして、腕を動かせる範囲で瓦礫を少しずつけていった。


 辺りには血の匂いが充満していたが、幸いなことに、その中には雷韋特有の甘い血の匂いはなかった。少なくとも、怪我はしていない。多分、瓦礫の下に押し込められているのだろうと思う。なら、捜さなければならない。何が起きたのかも分からないこの中で。


 陸王は瓦礫を少しずつ除けていった。ほんの僅か、ほんの一歩ずつ。それが雷韋を捜し当てるための手だからだ。

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