凪 五

 やがて一時課いちじか(午前六時)の鐘が鳴り、その音で陸王りくおうは目を醒ました。そしてすぐに雷韋らいも起こす。始めはぐずっていたが、頭を引っ叩くまでもなく起き上がった。夜中、悪夢を見たせいか顔色は悪い。それでも幾許いくばくかでも眠ったせいか、悪夢を見た直後よりはずっとましだったが。


 起きてから、雷韋は調子はさほどよくないなりに身仕度をして、早めに食事にしようと言い出した。


「どうした、一体。そんなに腹が減ってるのか」

「ん~、食欲ははっきし言って、あんましないんだけど、行ってみたいところがあるんだ」

「どこへだ」

「あんたはきっと興味ないと思うけど」

「興味がない? ……あの男のところか」

「違う。会いに行きたいけど、紫雲しうんじゃない」

「なら、どこだ」


 雷韋はそこで少しだけ考える素振りを見せた。それから陸王を見遣って、覚悟を決めたように口を開く。


「東門」


 それを聞いて、陸王は怪訝な表情かおをした。


「なんだってそんなところに」

「魔剣のこと」


 ぼそっと雷韋が零すと、陸王は渋面じゅうめんを作る。


「まだ気にしてるのか。一昨日行ったとき、何もおかしな様子はなかっただろう」

「だって枝道が沢山あったし、あの町じゃなくて、ほかの街か村から来る人に話聞きたいなって」

「しつこいぞ、お前。妖刀とはかかわらないという対価に耳飾りを買ってやったろう」

「だって、やっぱ気になるんだもん。陸王が知らないで触っちゃったらって思うと、怖い。呪われた剣なんだ。危ないだろ?」


 陸王はそこで呆れたように長嘆息をついた。


「正体の知れねぇもんに、なんでもかんでも触りゃしねぇよ。言っただろう。お前とは違うと」

「そうかも知んないけど……。それでもあんたのことが心配なんだ」

「だったらこうしよう。吉宗以外の刀には触れねぇと約束する。どうだ?」


 それを聞いて、雷韋は再び考え込んだ。そして腕を組み、片手を顎に当てる。


「そんなら、まぁ」


 覇気のない声で言う。寝不足で、元々覇気のない声音なのだ。その口調は、まさに意気消沈したという風だった。


「だったら決まりだ。明日に備えて、今日は宿で休む。水も保存食もここで手に入るんだしな。外に出る必要はない」

「でもさ、ちょっとだけ。ほんのちょっとだけでいいんだ。出掛けてもいいだろ?」

「まだしつこく東門に行くつもりか」

「すぐ戻ってくるってば。ほんの少しだから。だから、ほんのちょっとくらい出掛けてもいいだろ?」

「何をしに」

「ん~……、東門だけどさ。そのな、紫雲がいるんじゃないかって思って」


 陸王はそれを聞いて、雷韋から視線を逸らして溜息をついた。


「あいつに会ってどうする」

「いや、さ。もう、手伝えないからって。せめてそれくらい言わせろよ」

「って事は、前に手伝ってたってわけか」


 強い口調で言われて、雷韋はしゅんと項垂れた。そして上目遣いで陸王を窺い見てくる。


 しかし陸王は、変わらず雷韋から目を逸らしたままだった。


「そんときは、偶然、たまたま会ったってだけだよ。ほんと、偶然」


 雷韋も陸王が紫雲を嫌っているのを分かっているから、そんな言い回しになる。何しろ、教会の宿舎まで会いに行って、雷韋には近づくなと言ったくらいなのだ。


 雷韋としてはこの際せめて、最後の挨拶にくらい行きたかっただろう。


「なぁ、駄目か? 紫雲に会ったら、事情話してすぐに戻ってくるよ」


 そこで陸王は部屋に響き渡るような舌打ちをした。表情も、全く面白くないというものだった。


「り、陸王……?」


 恐る恐る声をかけると、意外なことを陸王は口にした。


「なら、俺も行く」

「へ? なんでさ」

「どんな口車に乗せられて連れて行かれるか分かったもんじゃねぇからな」

「紫雲はそんな人じゃないよ。事情を話したらそのまま別れるさ」

「お前はあいつのことをよく知らんだろうが」

「陸王だって紫雲のこと、よく知らないじゃんかよ。なんで俺が紫雲の口車に乗ってどっか行くって思うのさ。ないよ。そんなのあり得ないってば」


 雷韋が懸命に釈明の言葉を口にしていると、陸王はぽつりと「坊主なんてのは、どいつもこいつも信用出来ん連中だ」そう言った。雷韋が聞き漏らしようもないほどはっきりと。


「陸王、坊さんが嫌いだもんな」

「虫唾が走るほどな。どこに好きになれる要素がある」

「元々、天主神神義教てんしゅしんしんぎきょうが嫌いなんだもんな」

「反吐が出る」

「ん~、じゃあ、東門に付き合ってくれるか? 紫雲に会ったら、事情話して、それで終わりにするから。ほんとに、これっきり」


 陸王は鋭く溜息をついてから頷いてみせた。


 陸王にとっての敵対者に、これ以上雷韋には関わりを持たせたくない。それが正直なところだった。


 もし紫雲が何かの折りに陸王の正体に気付けば、狩りにやってくるだろう。陸王を滅するまで、しつこく追ってくるはずだ。その際、妖刀がどうなるかは分からないが。それでも、妖刀より陸王を狙ってくる確率の方が高い。


 魔族が人族にとっての絶対の敵である限り、そこに『和解』は存在しない。


 魔族は人族を喰らうだけの生き物だからだ。


 例え陸王がそんな事はしないとしても、信用は得られない。なにせ、互いに知らない者同士なのだから。相手のことを知らず、立場だけを見れば、どうあってもぶつかる。今のまま雷韋と紫雲を近づけておけば、どんな弾みで陸王が魔族だと知られるか分からない。紫雲には当然だが、雷韋には知られたくないのだ。どうあっても。


 今のまま、この状態がいい。


 今の心の距離感が心地いいのだ。離れたくはない。だから、余計な事は知られたくもないのだ。


 対だからこそ。


 それにしても、雷韋が対なのは奇妙なことだった。魔族の対は魔族か、もしくは天使族と決まっている。鬼族の雷韋が、それも魔族から見れば被食者に当たる雷韋が対だというのは、奇妙奇天烈極まりなかった。何故、こんな対が出来てしまったのか。


 正直、わけが分からない。


 と、陸王が思案に沈んでいると、雷韋から声がかかった。


「陸王もさっさと支度しちまえよ。腹はあんまし減ってねぇけど、食っておいた方がいいし」

三時課さんじか(午前九時)までまだ充分時間がある。そんなに焦る事ぁねぇだろうに」


 半ば呆れたようにい言う陸王だったが、身仕度を始める。


 その間、雷韋は自分の寝台に腰掛けて、荷物袋の中から取りだした手鏡に自分の姿を映していた。首を傾げたりして、鏡に見入る。耳飾りが揺れるところが見たいのだろう。表情はそれほど晴れていないものの、口元を笑ませ、色々な角度から見遣る。


 雷韋は深紅の石がとても綺麗だと思った。


 と、雷韋の中で何かが弾けた。それがなんだったか思い巡らせているうちに、陸王の身仕度が終わりに差し掛かる。


「何を間抜け面してやがる」

「え? あ。見とれてた。この耳飾り、いいなぁと思って」


 雷韋が手鏡から顔を上げると陸王は思わず溜息をついたが、


「そう言やお前、その耳飾りずっと付けっぱなしだな。寝る時も」


 不思議に思ったからそう聞いてみた。だが、雷韋はあっけらかんとしている。


「なくさないかどうかって? 大丈夫。なくしたりしないよ。折角、買って貰ったもんだし、大切にしてる。だから寝るときだって外さないんだし」


 陸王は吐息をついて顔を拭いつつ、そうかとだけ答えた。そして、手拭いを椅子の背凭せもたれに引っ掛けると、


「そろそろ飯を食いに下りるか?」


 と問うた。


「うん」


 答えて、雷韋は手鏡を荷物袋の中に放り込むと立ち上がる。そうして陸王と一緒に部屋を出た。

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