悪夢の始まり 三

 陸王りくおうは、雷韋らいから手拭いを受け取りながら問うた。


「雷韋、うなされるなんてな、お前、一体どんな夢を見たんだ」

「夢……? よく覚えてない」

「覚えてない?」

「うん。えっと……」


 そこで雷韋は夢を思い出そうとしたらしく、少しの間考え込んだ。


「う~ん、どんな夢だったんだろ。なんか凄く嫌な夢だったような。なんてぇのか、胸の中がざらついてる感じがする。ざらざらした舌で舐められたみたいな、凄く嫌な感じが残ってるよ」


 そういう雷韋の顔は、青白い月明かりに照らされているせいもあるだろうが、顔色が酷く悪かった。悪夢の影響だろう。


 陸王は雷韋の寝台に腰をかけて、問いかけた。


「顔色が悪いな。すぐには眠れねぇか」

「すぐは無理だよ」


 雷韋は手元に視線を落として首を振った。


「喉は?」

「え?」

「喉は渇いてねぇのかと聞いている」

「あ。……大丈夫。今、胃に何か入れたら、吐きそう」

「そうか」


 言って、陸王は小さく息を吐き出した。


「なんか、夢の名残が気持ち悪い。ざらざらした感覚が」


 心細げに言って、雷韋もまた息を吐き出す。


「なぁ、陸王」

「ん?」

「もう、寝るか?」

「そうだな。お前に付き合って寝不足になるのは御免だからな」


 そこで雷韋は瞬間黙ると、思い切ったように言った。


「少しでいいから、傍にいてくんね?」

「あ?」


 途端、陸王から不機嫌な声が出る。それでも雷韋は構わず言う。


「一人になるの、怖い」

「一人じゃねぇだろう。隣の寝台には俺がいる」

「そうだけど、そうじゃなくてさ。なんてぇんだろう? あんたが遠くに行っちまいそうな気がしてさ、なんだか不安なんだ」


 俯き加減で、上目に言う。


「なんだ、そりゃ」

「よく分かんない。でも、そう思っちまう。怖いんだ。少しでいいから、手、握っててくんね?」

「何を好き好んで男の手なんざ握らにゃならんのだ」

「頼むよ。不安で、怖いんだ」


 それは酷く心細い声だった。


 陸王はそれを聞いて舌打ちをし、大仰に溜息をついた。


「ったく、どうしようもねぇクソガキだな」


 呆れたように言いつつ髪を掻き上げて、陸王は雷韋の手を乱暴に取った。


「これでいいか?」

「うん、あんがと」


 弱々しい笑顔が雷韋の顔に浮かんだ。だが、その笑みは、雷韋には似つかわしくないと陸王は思った。陸王がよく知る雷韋の笑顔は、裏も表もない子供の笑みだからだ。


「なんだってそんな顔しやがる」


 陸王が呟くように言うと、


「え? 何?」


 雷韋は少し不安げに不思議そうな顔をした。陸王の呟きが聞こえなかったのかも知れない。


「聞こえなかったのなら、別にいい」

「いいって事ないよ。なんだよ」

「なんでもねぇ」


 そう強く言うと、雷韋は小さく鼻を鳴らして嘆息をついた。


「そんじゃいいよ。気になるけど」


 不貞腐れたように言って、雷韋はそのまま横になる。


「おい、まさかこのまま眠るつもりじゃねぇだろうな」

「眠れるかって聞いたの、あんたじゃんか」


 上掛けを片手で手繰たぐり寄せながら言う。


「だからって、手を握ったままか」

「いいじゃんか。手、握って貰ってると安心する」


 その言葉と同時に、雷韋が強く手に力を入れてきた。そして笑むのだ。


 裏も表もない、子供の笑顔で。


「ったく、本当にどうしようもねぇクソガキだな」


 言われても雷韋は、えへへと笑うだけで、手からも力を抜かない。そのせいか、逆に陸王の毒気が抜かれてしまう始末だった。


「仕方ねぇな。寝るまでだぞ」

「へ? 寝るまでって……?」

「お前が眠るまで、ここにいてやると言ってるんだ」

「ほんとか? 眠るまでついててくれるのか?」


 応えるように、陸王も雷韋の手を握る手に少しだけ力を入れた。


 途端、雷韋の顔がこれ以上もないほど嬉しげに輝く。


「そんな顔してねぇで、大人しく目を瞑れ」


 言う陸王の声は、言葉そのものに反して酷く優しかった。


 雷韋は「ん」と小さく頷くと、大人しく目を瞑った。そうして、もう一方の手を陸王の手に添えて、両手で包み込む。


 陸王はそんな雷韋を、苦笑を込めて眺め遣った。安堵しきっている少年の顔を見ると、庇護欲のようなものが胸に湧き上がってくる。


 陸王と出会う前の雷韋は一人っきりで世間を立派に渡ってきたはずなのに、こうして見ると、そんな風には見えなかった。いつでも誰かに護られていたような気がしてくる。


 だが、実際の雷韋は違う。


 陸王と出会う前は、誰も信じられずに一人でいたのだ。その姿は今の姿からは考えもつかないが、どこかで突っ張って生きてきたのだろうと思う。


 実際、陸王自身がそうだった。雷韋と出会うまで、こんな風に接する相手はいなかった。


 こんな風に思うと、やはり対なのだと実感する。雷韋の両掌から感じる温度は、本当に身に沁むほどに温かかった。心にまでその温度は届いてくる。


 と、ふと雷韋の目が開かれた。光の角度の加減で、雷韋の猫目が月明かりを反射する。


「どうした」


 静かに問うと、雷韋は少し言いづらそうに口を開く。


「ん、あのさ。明日、なんにもないだろ?」

「あぁ。仕事までは日があるから、特にはな」

「教会、行ってきてもいいか?」

「教会?」


 陸王の眉が怪訝に歪む。


「あのさ、気になるんだ」

「何が」

「紫雲がどうしてるか」


 陸王の表情が更に怪訝さを増した。


「あの男がどうした」

「だって、あんた言ってたじゃんか。厩を宛がわれてるんじゃないかって」


 それを聞いて、陸王は得心する部分があった。そう言ったのは陸王自身だから。


「そんなことも言ったな」

「本当にそうなってたらどうしよう。紫雲、少しの間、この町にいようと思うって言ってたんだ。その間、本当に厩なんかに入れられてたら酷いよ」

「そんなもん、お前が心配することじゃねぇだろう」

「でも、一緒に飯食った仲だ」

「単に相席になっただけだろうが」

「それでも気になる。本当にそんなことあるのか?」

「さてな。あるかも知れんし、ないかも知れん」

「もしあったら……」

「どうしたいってんだ」


 雷韋の言葉を遮って問うた。


 思わず雷韋はそれにひるみそうになったが、思い切ったように口を開く。


「文句言いたい! ちゃんとした部屋を貸してやれって」


 それを聞いて、陸王は嘆息をついた。


「お前は自分に関係ないことにすぐに首を突っ込みたがるな。たかが相席の相手だろうが」

「だって! 厩はあんまし酷ぇよ」

「まぁ、確かに坊主共連中ならやりかねんからな」

「だったらやっぱり……」


 そこで陸王は雷韋の額を指で弾いた。


「奴らはお前のことも『異種族』と言って蔑むような連中だぞ。侮蔑する相手の言うことを聞くと思うか?」

「そんなの、言ってみなきゃ分かんないよ。もしかしたら聞いてくれっかも知んねぇだろ?」

「お前、人は信用できねぇんじゃなかったか?」


 それに対して、雷韋はにっこりと笑った。


「俺には陸王がいるもん。陸王のこと信じてるから、周りの人のことも心配になるんだ」


 その笑顔と言葉に、陸王は返す言葉を失った。なんと言っていいものやら。


 虚を突かれた顔をしている陸王の顔を見て、雷韋は不思議そうに声をかけてきた。


「なんだよ。俺、なんか言ったか?」


 途端に陸王は渋面じゅうめんを作ると、雷韋の頭を引っ叩いた。


「誰が手なんぞ握っててやるか。勝手に寝ろ」


 言うだけ言って、陸王は自分の手を包み込む雷韋の手を乱暴に振り払うと、自分の寝台に潜り込んだ。


「あ~、陸王、手ぇ~」


 背を向けた背後から必死な声が聞こえてくるが、もう無視することに決めた。手を握りたいなら、自分の手でも握っていろと腹の中で悪態をつく。


 そのあとも暫く雷韋は陸王の名を呼んでいたが、陸王は一切声を発さなかった。


 そうして無言を決め込んでいると、やがて雷韋の方から寝息が聞こえてきた。寝言でも陸王を呼んでいたが、その内容からもう悪夢を見ているのではないと知り、陸王もやっと眠りにつくことが出来た。

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