悪夢の始まり 二

 雷韋らいはヌガーを食べ終わるとすぐに「もう、寝る」と言って、寝台に潜り込んでしまったので、陸王りくおうはそのあと食器を下げるのと同時に酒を飲もうと階下へ下りた。夕食時より時間が経った食堂はまだ相変わらず賑わっていたが、席はいくつか空いていたのでその中の一つについて時間を潰すように酒を飲んで過ごした。仕事は明明後日しあさってからなので、時間にゆとりはある。さて、その間どうして過ごすかを色々考えたが、妙案は出てこなかった。そのまま何を考えるでもなく、ただ酒を飲んで時間を潰していたが晩堂課ばんどうか(午後九時の鐘)が鳴り、食堂が閉まる頃合いになってから部屋へ戻ると、雷韋は寝台の中で頭から上掛けを被って猫のように丸まって眠っていた。それを傍目に、陸王はもう一度吉宗の手入れを始めた。どうにも最初の手入れが気に食わなかったのだ。


 それまでずっとランプがつけっぱなしになっていたが、陸王は根源魔法マナティアで光の球をあらわした。


 根源魔法は言霊の力で根源マナを操る魔術だ。根源はこの世の元素の一つ、形ある元素だ。そして元素はもう一つある。精霊エレメントがそれだ。形なき元素、精霊。世界はこの二つから成っている。


 根源魔法と精霊魔法エレメントアは対になっているのだ。


 陸王はそのうちの一つである、根源魔法を詠唱も印契いんげいもなく操った。既に光の球を顕す魔術は言霊封ことだまふうじに昇華している。


『言霊封じ』


 何度も同じ魔術を使うと、術が昇華されて、魂に魔術が刻み込まれる。それを『言霊封じ』という。そうなれば、魔術を行使するのに、魔術語の詠唱も印契も必要なくなる。


 その言霊封じも、魔術的センスがなければいくら同じ術を行使しても、昇華され、魂に術が刻み込まれることはない。


 それから言えば、陸王は魔術的勘があるという事だ。雷韋の精霊魔法のほとんども言霊封じだ。そのほかに、簡単な根源魔法などもいくらか。


 そうして陸王は光の球を顕すと寝台に腰をかけ、手に持ったままだった吉宗の刀身を鞘から引き抜いた。改めて眺めてみて、その仕上がりにがっかりした。


 仕上げの丁子油ちょうじゆがむらになっているのだ。均一に仕上がっていない。こんな仕上がりは、本当に子供の頃以来だ。


 あまりもの酷さに落胆の溜息が零れる。


 顔も思わず渋面じゅうめんを作っていた。


「酷ぇな」


 そんな言葉が自然と口をつく。そして、当然の如く身体は勝手に荷の中から道具を取り出し、そのまま手入れをし始める。


 やれやれと思いつつ下拭いをしていると、雷韋の小さな寝息が耳に届いた。その呼吸音が何故か心地いい。


 今度はいつものように集中して刀の手入れをすることが出来た。


 と言うより、無意識のうちに身体が動いて、完全に腕の動きが止まったときには手入れが終わっていたのだ。その仕上がり具合も完璧で、なんというか、陸王は呆気にとられた。知らず知らずのうちに、いつもの手順でこなしてしまっていたのだ。思い返せば、なかごまで手入れをしたが、その際、一切の気の乱れもなかったように思う。心地よくさえ思える緊張感の中での作業だった。


 刀身を光に当てて見遣っても、一分の隙もない仕上がりだ。


 そこでまた、妙な嘆息が出る。確かに一度目の手入れの時は余計なことを考えていた。紫雲しうんと名乗る修行モンク僧のことを。下手に近寄れば敵になるから近寄らない方がいいと思いつつ作業を行っていて、全く集中出来なかった。普段、気が乱れて集中出来ないときでも、吉宗の手入れをするときはいつだって集中出来た。心が落ち着くのだ。だが、どう考えてもさっきのはおかしい。全く集中出来なかったのは初めてだった。


 今とさっきの違いは、紫雲がいなくなったことと雷韋が目の前にいることだ。さっきは二人が共に食事をしていた時間だった。


 だが、それがなんだというのか?


 そんな声が己の中からした。確かに雷韋が目に見える場所にいると、陸王は安心感を覚える。それは動かしようもない事実だった。陸王自身にもその自覚はある。けれど、いつもは大抵別の部屋だ。その状態で吉宗の手入れをしている。それでも、これまであんなに酷い状態で仕上げたことはない。いつだって、心地のよい緊張感に包まれながら吉宗の手入れをしてきた。指を切るなんて初歩的な失敗もなかった。


 わけが分からない。


 それが正直なところだった。


 陸王は刃を鞘に収めてそれを寝台脇にもたせると、座ったままの状態で寝台に倒れ込んだ。それと同時に光の球を消滅させる。ランプはつけたままだったので、室内を照らす光量はがくんと落ちたが、暗いと言うほどでもない。暖色の優しい明かりに切り替わっただけだ。その灯りが目に優しくて、何故か心が落ち着いていくのを感じた。


 それに加えて、雷韋の寝息も耳に心地いい。雷韋の寝息に耳を傾けているだけで、このまま眠りに落ちてしまいそうなほどに。


 本当に、心底安心出来た。少しの間ぼんやりと天井を眺めていたが、


「ちと早いが、寝るか」


 ひとちて、起き上がる。確か昨日も同じ台詞を口にしたように思った。昨夜も雷韋は早々に寝入ってしまって、大部屋だった室内に一人起きていたが、同じ言葉を口にして寝入ったのだ。


 陸王は刀の手入れ道具を荷物入れの中にしまうと、上着を脱いで寝台の足下に適当に畳んでから放った。そして、卓上のランプを消して寝台に入る。


 室内には雷韋の寝息が小さく響き、闇に目が慣れてくると、月明かりが窓から青白く忍び込んでいるのが知れた。


 ふと眠っている雷韋の方に目を向けると、丸い塊が呼吸音と共に小さく上下していた。それを見て、よく眠っているようだと思う。


 その様子を暫く眺めていたが、やがて陸王も眠りに落ちていった。


          **********


 気配が何やら煩かった。うっすらと浮上した意識の端で、また雷韋の寝返りかと思う。これで何度目か分からなかった。いつ頃からか、何度も雷韋の寝返りの音に意識を引っ張られて意識が浮上する。半ば無意識の中で、放ってまた意識を手放そうとした瞬間、はっと覚醒した。


 声が聞こえたからだ。


 しかも、苦しげな呻き声が。


 反射的に肘で起き上がると、傾いだ月が雷韋を照らし出していた。その明かりの中に、苦しげに歪む雷韋の顔がある。そして苦鳴を上げているのだ。


 陸王は急いで起き上がり、雷韋のもとへと行って声をかけた。


「雷韋、どうした。雷韋」


 肩を揺するが、雷韋は呻き声を上げ続けて目覚める気配がない。その額にはびっしりと汗を浮かせていた。月明かりの中でも雷韋の目玉が瞼の下で忙しなく動いているのが分かる。夢を見ている証拠だ。


 しかも、おそらくは悪夢をだ。


 今の状態で寝汚いぎたなさを発揮するとは思いにくかった。だから陸王は必死に雷韋を夢から呼び戻そうと、名を呼び、肩を揺すり、頬を叩き続けた。


 少しの間夢にうなされていた雷韋だったが、ある瞬間、はっと両目を開いた。同時に大きく息を吸い込む。


「目が醒めたか?」


 静かに尋ねれば、雷韋は辺りにきょろきょろと目玉を動かす。その拍子に、雷韋の猫目が光を反射して瞳孔を光らせた。


 雷韋の目は猫と同じような仕組みになっていて、闇の中に僅かな光があれば闇の中を見通すことが出来る。その猫目の瞳孔が丸く開ききっているのだ。昼間なら細く尖っている瞳孔が。夜になれば自然と瞳孔は丸く開くが、今は悪夢で興奮したために余計大きく開いたのだろう。


「雷韋」

「り……く、おう」


 数度瞬きをしてから、ようやく答える。


「大丈夫か? うなされていたぞ」

「うなされてた?」


 力なく言いながら、雷韋は起き上がった。そして、額に手をやって、その時初めて汗だくになっているのを知ったようだった。腕で拭ったが、腕にも汗を掻いていて、ぬるりと滑る。


 それを見て「ちょっと待ってろ」と陸王は言い置いて、自分の荷物の中から手拭いを引っ張り出した。それを備え付けの洗面器で濡らし、雷韋のところまで戻る。


「こいつで拭け」


 差し出すと、雷韋は困惑した顔になった。


「俺のがあるからよかったのに」

「いいから使え」

「……分かった。あんがと」


 言って受け取ると、湿った手拭いで雷韋は顔を拭き、首や腕も拭った。拭い終わると、疲れたように溜息をつく。


「すっきりしただろう」

「うん。……これ、あんがとな」


 雷韋は手拭いを陸王へ差し出した。まだ目覚めたばかりのせいか、雷韋にはいつもの元気はなかった。うなされていたのだから、それも当然かも知れないが。

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