第三章
悪夢の始まり 一
あの男は敵だ。
近づくのはよくない。
懐紙で下拭いをしたとき、誤って指を切ってしまったのだ。
こんなしくじりは、刀の扱い方に不慣れだった子供の頃以来だ。それどころか、
しくじるたびに溜息が零れた。
それもこれも頭の中で警鐘が鳴り続けたせいだ。
陸王は高位の、人と変わらず生きることの出来る魔族だ。雷韋にとっては天敵であり、陸王にとって鬼族の雷韋は最高の獲物だ。雷韋が指先を切るような怪我をするだけで、鬼族特有と思われる甘い血の匂いに酔わされる気がする。それでも、それが原因で雷韋に危害を加えたことはない。衝動は全て抑え込んできた。
対である雷韋を傷つけることなど出来ない。それに雷韋に何かあれば、陸王自身の生命に関わる。だから、絶対に傷つけることは出来ない相談だった。正体を知られてもいけない。そんなことがあれば、雷韋は逃げ出してしまうだろう。そうなったとしても、また生命に関わってくる。長く離れていれば、いつか狂い死ぬのだ。
対は出会っていても、そのあと何かしらの原因で生き別れになってしまったりして再び会うことが出来ない場合は、最後に狂い死にが待っている。出会えない場合より、出会ってしまったあとの方が最期は悲惨だ。
だからと言うわけでもないが、陸王は恐れている。正体が知られて雷韋に恐れられ、嫌われるのが酷く恐ろしい。苦痛以外の何物でもない。
それはおそらく陸王にとって、死ぬことよりも辛いだろう。
魂が既に引き摺られているのだ。
いくら極は対極を否定することも拒絶することも出来ないと言われているとは言え、流石に相手が魔族であればそんな事は言っていられないはずだ。
魔族は人外なのだから。見目、機能が人と同じであっても、人では決してない。その精神の根底には凶悪な本能が眠っている。一皮剥けば、何がどうなってもおかしくないのだ。
そんな雑念も、吉宗の手入れの邪魔をしていた。
陸王は寝台に腰をかけたまま、深い溜息を吐き出す。
この溜息も何度目になるか。その回数などもう分からなかった。
もう一度、知らずに溜息が漏れたとき、その声がかかった。
「おーい、陸王。扉開けてくれ。両手塞がってんだ」
雷韋の声だった。自分の食事が終わって、言われたとおり、陸王の食事を運んできたのだろう。
陸王は扉の方を見遣り、一度目を瞑ってから吐息を吐き出し、それから鍵を開けて扉を開いてやった。扉の向こうには、取っ手のついた長方形の盆を手にした雷韋が仏頂面で立っていた。
「まぁた鍵かけてたのかよ。吉宗の手入れしてた?」
「あぁ。丸腰の時に賊に入られちゃ堪らんからな」
「んったくもぅ。ま、いいから
言いながら雷韋は陸王を押し
陸王はそれを見遣り、扉を閉めた。
「スープは温め直して貰ったかんな。って言うか、紫雲がそうした方がいいって言うからそうしたんだけどさ」
そう言って、食器の並んだ中から皿を一枚取り出す。それにはヌガーが盛られていた。
「そいつ、最初に食ったんじゃないのか」
陸王が問うと、雷韋は皿を手にしたまま器用に足だけで靴を脱いで寝台に上る。
「最後にもう一皿注文してきたんだ」
「よく食うな」
「へへ。それ、紫雲にも言われたよ。俺が注文した飯の量見て驚いてた」
裏も表もない子供の笑顔で言ってのける。
「あの男はどうした」
陸王が卓につきながら問うと、雷韋はヌガーを一枚手に取って答えた。
「飯食い終わったら、教会に行っちゃったよ。ほんとはここに部屋取りたかったらしいけど満室だって言われたら、じゃあ教会で部屋借りるって。ほらさ、教会には巡礼者用の宿舎があるじゃんか。そこ借りるって。町に入ってきてから何軒も宿を訪ねたらしいけど、どこも満室だって言われたってのは俺達と同じだな。でも、なんだかんだで宿の宛てがあってよかったよ」
雷韋はほっとしたように言ったが、陸王はそれを聞いて鼻先で笑った。まるで小馬鹿にするように。
「なんだよ?」
陸王の意地の悪い笑いに、雷韋は不審げに問うた。
「教会の坊主共が『
「『げそう』?」
更に雷韋の顔が不審げに歪む。その顔をちらと見遣って、陸王は手にしたパンを千切った。
「なんだ、知らんのか。
「な、なんだよ、それ!」
ヌガーを口に入れるのも忘れて、雷韋は大声を出した。
「なんだっつっても、事実、嫌われているからな。教会の坊主共は、暴力的で、血を流す修行僧が嫌いなんだとよ」
皮肉に笑みながら、なのにどこか楽しげに言い遣る。
「そんな。だって、修行僧は人を助けるために闘ってるんだろ? 魔族だって相手にするって聞いたことがある。人間族なんて大して魔術も使えないし、寿命だって短いのに、魔族を相手にするんだ。それなのに、仲間内で差別すんのかよ?」
「差別なんざ、人間族の専売特許だろうが。特に坊主は得意だ。お前だってこれまで坊主に侮蔑されたことくらいあるだろう」
「それは俺が獣の眷属だからしょうがないよ。
雷韋が寂しそうに言うのを陸王は聞きながら、それ以上は何も言わずに本格的に食事を始めた。
何を言っても雷韋には分からないだろうと考えて。
そもそも、僧侶達は修行僧を同じ人間とは見ていない。まるで別種のように考えている。ただただ『血』を流す存在故に。修行僧を『僧侶』の一形態とすら考えていないのだ。完全に別たれた者。別のものと考えている。僧侶も修行僧も、等しく天慧を祀っているというのに。
確かに違う部分は多い。血を流すか流さないかという部分も違うが、修行僧は人々を教え諭さない。飽くまでも『力』で人々を護るのみだ。僧侶はそこを嫌う。
だからと言って、陸王は別段、紫雲を哀れむようなことはしない。思いもしない。単に相席になった関係だけだ。しかも陸王は食事が供される前に席を立っている。全くの赤の他人だ。僧侶も嫌いだし、修行僧は更に嫌いだ。
敵なのだから。
紫雲のことを考えながらの食事も不味くなると思って、それ以上のことは考えなかった。雷韋も大人しくヌガーを囓っている。いつもと違って、どこか旨くなさそうに。
雷韋はヌガーを囓るときだけは大人しくなる。余計なお喋りはなしだ。水飴が歯について喋りにくくなるかららしい。それを知っている陸王は、雷韋が大人しくヌガーを囓っている間に、黙々と食事をするのみだった。
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