(20)

「……アンジュもエルンストも、役に立ちそうにありませんから」


 ミカが困ったようにため息をついて、微笑わらった。


 たしかにアンジュはユーリの手を放せると言ったし、エルンストにいたっては最初からあきらめきっているところがあった。ミカはミカで「既成事実を作る」などと物騒なことを言い出す。そんなミカでも、良心の欠片くらいは残っていたらしい。


 しかしハルは、消去法で自分が選ばれたことをも同時に悟った。それにモヤモヤとしたものを感じないでもなかったが、それではミカや他の夫たちに任せきりにできるのかと問われれば、答えは「否」だ。


 ミカに焚きつけられたのは正直に言って、かなり癪だが――


「発破かけたからには、大人しくすっこんでろよ」


 ユーリのことをあきらめられないと……彼女の出した答えがどうであれ、最後まであがくと決められたのは、ハルにとって良いことだった。


 欲しいのならば、自ら手を伸ばすしかない。待っていても、勝手に転がり込んでくることは稀だ。自分で手をのばし、つかみ取る――。ごく単純な答えだったが、ハルはミカとの対話を経てようやくそれを見た。


 ユーリが好きだ。


 ユーリを、愛している。


 だから、ユーリのそばにいたい。――いつか、その命が尽きるまで。


 たとえユーリが帰りたいと言っても、最後までみっともなくあがいてやると決めた。


「……テメーらがあいつの答えを聞く勇気がないってんなら、オレが聞いてくる」


 ハルが恩着せがましくそう言い切れば、目の前にいるミカは困ったように笑った。


 アンジュは国家試験が控えているから今日も遅くまで図書館にいるようだ。しかしユーリのことで頭がいっぱいになっているだろうことは、想像に難くない。


 エルンストは自室にいるのか、あるいはまた出て行ってしまったのか、定かではない。


 ミカは論外だ。ここでハルが意気地なく家を出て行ってしまえば、彼はユーリの部屋へ行き、彼女を手玉に取ろうとするだろう。それはハルにとってはどうあっても「ナシ」だ。


「よろしくお願いしますね?」


 ミカは印象的な碧眼をハルに向けて言う。ミカに念を押されるまでもなく、ハルはやりきるつもりだった。ミカにお膳立てをされたような形になったのは、心底気に入らないが――。なりふり構っていられないのも、また事実。


 ハルはミカに背を向けて、二階にあるユーリの部屋を目指した。


 階段をのぼるその脚は軽くもなく重くもなく。けれども足裏から伝わる階段の、いくつかの場所の軋みが今日はやけに大きく感じられた。


「……ユーリ、話がある」


 二階に並ぶ部屋の扉たちの、その真ん中あたりに位置するのがユーリに割りあてられた自室だった。


 控えめにノックを三回してそう言えば、すぐに扉の向こうから、くぐもったユーリの声が聞こえる。「入ってもいいか」と尋ねれば、すぐに返事があった。


「……どうかした?」


 ハルは扉を開き、ユーリの部屋へ視線を走らせた。壁にかけられたハンガーに、外出用のローブがかかっているのが目についた。


「夕食までにはまだ時間があるよね?」

「それとは……別の話だ」

「そうなの?」


 ユーリに勧められて、部屋の中央部に置かれたふたり掛けのソファに腰を下ろす。ユーリも、備えつけられた立派な机と対をなす大仰な椅子から立ち上がって、ハルの隣に座った。


 ユーリの気配を間近で感じて、ハルは柄にもなく緊張してしまう。そして改めて生身のユーリ自身を隣で感じると、彼女のことが好きなのだという気持ちがあふれ出てくるようだった。


 こちらの言葉を待つユーリを見て、ハルは一度息を吐く。そして――


「単刀直入に言う。絶対、元の世界には帰るな」


 いつもの、ぶっきらぼうな口調でハルは言った。けれど、いつもはそらしがちな視線は、まっすぐにユーリへと向けられる。


「いきなりだね?」


 ユーリは、何度かゆっくりとまばたきしたあと、そう言った。うしろめたさの感じられない返答だった。なので、ハルは少しだけ肩の筋肉に入っていた力を抜く。ユーリはそれを見届けてか、眉を少し下げて困ったように笑った。


「……もしかして、昨日のイノウエさんとの話、聞いちゃってたりする?」

「……ああ。盗み聞きするつもりはなかったけどな」

「それは気にしてないけど……。そっか。それで『帰るな』って言いにきたの?」

「……そうだよ」


 ハルは、ついつい投げやりな口調になってしまう己にイラ立ちながらも、しかしユーリから視線を外さなかった。


「ただの噂だよ」

「……今までオレら、そーいう話ってしてこなかったよな」

「わたしが、元の世界へ帰れる可能性の話?」

「……結婚してから、お前が元の世界へ帰りたいかどうか、聞いたことなかった」

「そう言えばそうかも」


 ユーリは、つい今しがた気づいたというような表情になる。ハルはそれに拍子抜けしそうになる気持ちを抑え込んで、ユーリにもっとも重要な問いをする。


「一度、ちゃんと聞いておきたい。ユーリ、お前は――元の世界に帰れるってことになったら、帰るのか?」

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