(21)

「……正直、帰れるなら帰ったほうがいいのかなって、思うよ」


 ユーリの答えに、ハルは心臓を揺さぶられたような気持ちになった。「帰るな」というセリフが口から出かけたが、それよりも先にユーリが話を続ける。


「この世界にいるとさ、わたしってなんにもないんだなー強く感じるときがある。肉体的にも精神的にも他のひとより強いわけじゃないし、六年近くいるのに、未だにこの世界の常識に馴染めてないし……。だから、帰れるなら帰ったほうがいいのかなって、思うときもあるよ」


 ハルは、知らず胸を痛めた。ユーリにとってこの世界は決して優しくはないのだと、改めて突きつけられて、胸が締めつけられるような気持ちになった。


「女のひとは夫をたくさん持つのが普通で、子供を産むのが仕事で……っていうのも、未だにうまく呑み込めない。わたしは一夫一妻の国で育ったから、なんか夫をたくさん持つのっていいのかなって思っちゃうし……今の状況も、これでいいのかなって、うしろめたく思うときもある。でもそう思っちゃうのも、わたしを選んで結婚してくれたハルたちには失礼だよなーって……堂々巡り?」


 ユーリは相変わらず、眉を八の字に下げて困ったような顔をして、微笑んでいた。


 ハルは、ユーリの葛藤を聞く。ハルからすると、彼女が思い悩んでいる事柄は、理解の範疇外だった。女は夫をたくさん持つのが普通で、幸せなことで、子供をたくさん産むのが仕事で……。でも、それはユーリのいた世界の常識とは、違う。


「――それでも……わからないことや、呑み込めないことでいっぱいでも、はっきりとわかっていることは……あるよ」


 ハルの心に不安がよぎった。けれども――


「ハルと、ミカと、アンジュと、エルンストと……このひとたちと、この世界で生きて行きたい。……って、思ってる」


 ――ユーリの言葉で、ハルの中に生じた不安は、またたく間に霧散した。


 ハルはしばらく放心したようにぽかんとしたあと、じわじわと涙腺がゆるんで行きそうになるのを感じた。


「……なら、『帰らない』って、言え」

「うん……。帰らない。わたしは――この世界で、みんなのそばで、生きて行きたい」

「お前が望むなら、その願いは叶えてやるよ」

「死ぬまで?」

「当たり前だろ」


 ユーリはくすくすと笑って、「約束だよ?」と言う。そんなユーリを見て、ハルは安堵で全身から力が抜けて行くようだった。


「ハア……噂に振り回されて、オレら全員バカだろ……」

「もしかして、みんなもう噂を聞いちゃってる感じ?」

「そうだよ。……それで全員やきもきしてた」

「そっか……なんか無駄に心配かけちゃったみたいだね」

「『帰らない』って言ってやれよ」

「うん。……もっと早くに言っておけたらよかったんだけどね。わたしの中でも、すぐに答えを出せなくて……みんなに心配かけちゃった。――でも今は『帰らないよ』って、ハッキリ言える」


 ユーリはそれから、もし拉致被害者たちが元の世界へ帰れることになったら、元同級生に手紙を託すことにすると言う。


「『わたしは幸せだから、気にしないでください』って感じの手紙をもう書いておこうと思って。もう気持ちも変わらないだろうし」

「……ん」

「わたしの両親もお祖父じいちゃんも、もうどこを捜してもいないけど、色々と気にかけてくれたひとたちはいるからね。そのひとたちにはちゃんと、お礼とお別れを伝えたいなって。……まあ、まだ元の世界云々の話は、噂のままなんだけど」

「……そういう、お前の律儀なところは嫌いじゃない」

「そこは『好き』って言ってよ」


 言葉のわりには、ユーリにハルを責めるような様子はない。


 ユーリは両親を事故で早くに亡くして、母方の祖父に育てられたと聞いている。その祖父も亡くなったのが、一二歳の冬だと言う。兄弟はないユーリの口ぶりからして、親しかった肉親はその三人以外にいないのかもしれないが、ハルはそれ以上のことを聞いたことはなかった。


 これまでは、薮蛇になるのが怖かったから。今は、わざわざこちらから聞く必要性は感じないから。両親のこと、祖父のこと、気にかけてくれたひとたち……。ユーリがそんなひとたちのことについて言いたくなったら、そのときに聞いてあげたいとハルは思った。


「好きだ、ユーリ。どんな人間よりも、お前が好きだ」

「わたしも……ハルのこと、好きだよ」


 少し照れた様子ではにかむユーリを前にして、ハルは己の理性の糸がじりじりと切れそうになるのを感じた。しかしここでユーリに迫っては、ミカとそう大して変わりはしないとこらえる。


「……他のやつらだって、お前のことが好きなんだ。だから、ちゃんと『帰らない』って言って、安心させてやってくんねーか」

「そうだね。一度はっきりさせておいたほうがいいよね。……うん。今日の夕食の席で言うよ」

「そうしてくれ」

「それと……」

「ん?」


 じっとこちらを見ていたユーリの視線が、下を向いた。


「『解禁日』についても、ちゃんと話したほうが……いいよね?」


 頬をほのかに赤く染めて、上目遣いにハルを見やる、気恥ずかしげな様子のユーリ。


 ハルは、この場でユーリを押し倒さなかった自分を褒め称えてやりたい気持ちになった。

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