(19)

 ハルを見て、ミカは微笑んだ。ハルには、ミカがこちらをせせら笑っているように映る。それは被害妄想が見せる幻影か、それともミカの本心なのか、ハルには判断がつかなかった。


「批難しますか? ……貴方も、私と同じ人間だと思っていたのですが」


 ミカは微笑んでいた。冷たく、微笑んでいた。それを見てハルは確信する。ミカは穏やかで優しいだけの、大人ではないと。


 穏やかで優しいミカの姿は、ユーリを安心させるためのものだ。この一家の大黒柱として相応しい振る舞いをしているだけだ。年少のハルやアンジュ、ふらふらしているエルンストらの保護者めいた振る舞いも、ユーリがそう望むからしているに違いない。


 もしかしたら、本当は、ミカは他の夫たちとの仲良しこよしなんて望んでいないかもしれなかった。


「……それがテメーの本性かよ」

「幻滅しましたか?」

「幻滅するほどテメーに幻想は抱いちゃいねえよ」


 ハルの言葉は半分は真実だった。しかし残りの半分は嘘だ。


 ハルは、ミカのことを今でも「立派な大人」だと思っている。ユーリへの途方もない執着心を見せられた、今でも。自己の願望を押し殺して、愛する人間が望むまま振舞う――。それはハルが考える「立派な大人」の像とは少々違ってはいたが、ずいぶんと殊勝ではあると思った。


「それは安心しました」


 ミカが口元でゆるりと弧を描くが、その瞳は一分の隙もなく笑っていなかった。


 不意に、ミカが彼の元妻に投げつけられた言葉を思い出す。ぞろぞろ男を引き連れてかしずかせている、ごく一般的なこの世界の女性だ。離婚を突きつけたのは彼女が先のくせに、ミカがそれを受け入れて去ったあと、ユーリと再婚するという話を聞きつけてやってきた女だ。


 だが当たり前だが、ミカにはもう元妻への未練はさっぱりなかった。


『最低っ! こんな男だとは思わなかった!』


 けんもほろろに、ミカに相手にされなかった、負け犬の遠吠え。ハルはそういう印象を持ったものの、ミカはそうは受け止めなかったのかもしれない。あるいは、ハルがその捨て台詞を聞くよりも前に、ミカは元妻からそういうことを言われたのかもしれない。


 ……すべて憶測だが、案外と正鵠を得ているかもしれない。


「……まあ、少しはがっかりしたかもな。アンタのことは、エルンストのオッサンよりは出来た人間だと思ってた」

「それはただの勘違いですね」

「ああ。……らしいな。――で、さっきの答え、変える気はねえの?」

「ないですよ」


 ミカが酷薄な笑みを浮かべる。治安の悪いスラム育ちのハルですら、思わずぞっと肝から冷えるような微笑みだった。


 だが、そんなミカを前にして臆するのは「ナシ」だった。……彼のことを今でも、ほんのちょびっと、少しくらい、まあまあ尊敬してはいたから、なおさら。


「あいつの答えを聞いたのか?」

「答えがどうであれ、安心は出来ませんから」

「……あいつのこと、信頼してねーのかよ」

「それとこれとは別です。この世に『絶対』などというものがあるとは、口が裂けても私には言えません――。貴方も、そうでしょう?」

「けどよ」

「――貴方は、綺麗事を言っていられる立場なのですか?」


 ミカの言葉にハルは虚を衝かれたが、すぐに持ち直しミカをにらみつけた。


「……キレイゴトなんて言ってるつもりはねえよ」

「綺麗事ですよ。今はまだ噂の域から出ていませんが、いざそれが真実になったとき、本心でどう思うかだなんて、彼女にすら予想もつかないことです。……口先だけでは、なんとでも言えますからね」


 ハルは舌打ちをした。ミカの言葉にイラ立ちを隠せなくなってきた。


 ミカもアンジュもエルンストも……自分も――なぜユーリを信じてやれないのか。ユーリは自分たちを置いて――捨てて、元の世界へ帰ったりはしないと、断言してやれないのか。


 ハルは怒りを覚えた。他の夫たち三人に。不甲斐ない、自分に。


 「答えは、そのときにならなければわからない」。かつてハルが後見人たるゾーイーに言った言葉だ。これまで、ハルはその「答え」がわからなかった。


 けれどミカとの対話にもなっていないような、半ば言い合いを経て、その「答え」が見えた。


「……『既成事実を作る』とか、『黙って見送る』とか決める前に、言うことがあんだろ! あいつに――ユーリに『どこにも行くな』って言えばいい。つか、オレは言う! 最後まで……それであがく」


 ミカの言う「情に訴えて既成事実を作る」という戦法も、アンジュやエルンストのように「黙って見送る」という選択肢も、ハルにはしっくりこなかった。むしろ反発心すら覚えた。


 それで、じゃあ、自分は立派な切り札でもあるのかと言うと――……それが、ない。


 ハルは、多少魔法が上手く使える以外は、ただの一八歳の、まだ少年と青年の狭間にいる凡人だからだ。


 自分でも、ミカの手段を糾弾した割りに、出てきた手が凡庸なことは理解していた。……決して、格好良くはないことも。正直言って、こんなセリフで啖呵を切って恥ずかしいとすら思う。


 けれども、ミカのやり方はハルには到底許容出来ないものだった。


「そうですか」


 ミカに対して威勢良く言い切ったものの、凡庸なその言葉で彼の心を動かせるとまでは、流石にハルも考えてはいなかった。


 しかし――


「それでは、貴方が繋ぎとめてくださいね?」


 どこか生ぬるい微笑を浮かべるミカの言葉を聞いて、ハルはようやく彼の手のひらの上でで転がされていたことを悟った。

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