(18)
「ハル、少しいいですか?」
「……なんだよ」
日暮れ前。早々に店を閉めてユーリと共に帰宅したミカに、ハルは呼び寄せられる。ユーリはふたりを少しだけ見やったが、ミカが微笑むと二階にある自室へと向かって行った。
ミカはハルに用があるらしいが、それはユーリには聞かせたくないもののようだと、ハルは察する。
ハルはミカに対しては、苦手意識というほどではないにしても、食えない男だとは思っている。いつだって冷静で、穏やかな微笑みを絶やさず、だれに対しても紳士的な態度を崩さない。……ハルにないものを、多く持っている。
だからミカを前にすると、ハルはいささかの劣等感を抱いたり、羨望の情を覚えることは珍しいことではなかった。
対するミカが、こちらのことをどう思っているかハルは知らない。当たり前だ。ハルはひとの心を覗ける力など持っていないのだから。
口の悪い
そんなミカが、ハルに用があると言うのは珍しいことだった。しかし、ハルにはなんとなく、次にミカが口にする言葉が読めた。
階段をのぼるユーリの背中が二階に消えるまで見届けたあと、ミカは改めてハルを見やる。
「ハル、もしユーリが元の世界へ帰れるかもしれないことになったら、貴方はどうしますか?」
そらきた、とハルは思った。この話を聞くのは四度目――いや、ユーリがその噂話をされたのを耳にしてから五度目だ。三日と経たずにこのありさまだから、ため息くらいはつきたくなる。
「……またその話かよ」
「おや。もう聞きつけていたんですね」
「ああ」
ハルは、用心深くミカを観察した。ミカは、いつも通り微笑んでいた。エルンストのようにどこか冷めた顔で微笑むわけでもなく、アンジュのように泣きそうな顔をするでもなく、ただ冷静に例の噂話を受け止めているのだろうという印象を受ける。ハルはそのことを読み取って、少しだけホッとした。
ハルは、ミカに対して劣等感のようなものを抱く一方で、なれるものならこんな大人になりたいとも、心の片隅で思っていた。いわば、「大人」という存在の手本。そんな彼が、冷静にあの噂を受け止めている様子だったので、ハルは安堵したのだ。
ミカは、感情のうかがえない微笑を浮かべたまま話を続ける。
「貴方の耳にまで入っているということは、相当出回っているようですね。どこで聞いたんですか?」
「聞いたっていうか、聞いちまったっていうか。……あいつが元同級生? に『元の世界に帰れるかも』って話をされてるところを聞いたんだよ。たまたま、な」
「そうですか……。ユーリももう知っているのですね」
ユーリは、その噂話を早い段階で知っているということを改めて提示されると、ハルの胸中に不安が生じた。
ユーリが例の噂話を夫たちに言っていないのは、しょせん噂だと思って本気にしておらず、単に口にしていないだけなのか。それとも――。
「――まあ、その噂話にどれほど真実味があるかどうかは、わかりませんからね」
「……そうだな。これまでの噂だって、どれも荒唐無稽で、実際単なる噂の域から出られなかったしな」
「十中八九、元の世界へ帰れないとは思いますが……」
急に、ミカの視線が鋭くなったのを、ハルは見た。
「いずれにせよ、ユーリを帰すつもりはありませんから。噂の真相など、どちらでもいいのです」
ハルは、ミカの気迫に一瞬だけ息を詰めた。
ハルは、今この瞬間まで、ミカのことを出来た大人だと思っていた。いつだって冷静で、穏やかな微笑みを絶やさず、だれに対しても紳士的な態度を崩さない……。特にユーリには砂糖を溶かしたかのように甘く優しく、彼女が嫌がることは決してしない。そう思っていた。――が。
「ユーリは情の深い方ですからね。そう簡単に私たちを置いて帰るという選択肢は取れないでしょう。……たとえば、体を繋げて、目いっぱい愛を注いでくれる相手を置いて帰るだなんてことは……絶対に葛藤します。私たちが付け込む余地は大いにあるわけです。私は――必要ならば『解禁日』を前にユーリと既成事実を作ることを厭うつもりはありませんよ」
前言撤回。
ミカは決して、ハルが思っているほど甘く優しい人間ではなかった。しかし、彼が「大人」であることには間違いない。ハルがためらうような狡猾な手段を用いることを、どこまでも「大人」であるミカは、絶対に厭わないのだろうということが伝わってきた。
ハルは、ミカのユーリ対する愛情は、もっとずっと穏やかなものだと思っていた。ミカが前の妻とのトラブルに巻き込まれ、再婚に対して消極的だったことをハルは知っていたから、なおさら。
ミカはユーリを大切に大切に大切にして、決して彼女の意に反するようなことを……傷つけるようなことを、決してしないだろうと、ハルは思っていたのだが――。
ミカは、ハルが――いや、ハルたちが思っていたよりもずっと、ずっとユーリに深く執着している。彼女を、深く深く、海よりも深く、強烈に愛している。
それを確信したハルは、身震いを覚えるようだった。「立派な大人」だと思っていたミカの、ユーリへの執着の深さに、面食らった。
けれどもハルは、自然とミカをねめつけるように見ていた。
外では、日が落ちつつあった。
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