(12)

 ユーリの危機意識が、ハルたちからすると希薄に感じられるのは、彼女が異世界人というのもあるだろうが、ハルたちがせっせと守っているからでもあるだろう。それは誇らしくもあり、もどかしくもあり。しかしユーリには出来る限り、のびのびと生きていて欲しい。それは夫たち四人全員が思うところだ。


 だから、ユーリには恐怖や苦痛を感じて欲しくない。そういった悪いものから遠い場所にいて欲しい。それは一種のエゴなのかもしれないが、愛するひとにはそうあって欲しいと望むのは、おかしいことではないだろう。


 不審な男の追跡から逃れるように、ハルはわずかに歩幅を大きくする。ハルと手を繋いだ状態のユーリは、わずかに引っ張られるような形になる。けれども彼女はなにも言わなかった。


 ユーリには気づかれたくなかったが、ハルがそういう行動を取れば、おのずとその意図を察せるていどには、彼女は頭の血の巡りは悪くない。それでもユーリは不用意に振り返ったりせず、黙ってハルについて行く。


 建ち並ぶ建物の向こう側へ、じりじりと太陽が沈んで行くのが見える。ハルたちの足元から伸びる影は、濃く長くなる。


 メインストリートへ出てしまえば、路面電車の駅まですぐだ。ひとまずメインストリートに出れば安全だろう。そうハルが目まぐるしく考えを巡らせていたところへ、ユーリが繋いだハルの手を思い切りうしろに引っ張った。


 一歩後退し、そこでたたらを踏む。


 ユーリのほうへと向く間もなく、先ほどまでハルのいた場所で、なにか棒状のようなものが振りかぶられたのが見えた。


 ハルは、自分のものではない舌打ちを聞いた。とっさにユーリを背にかばって、二歩三歩と後退する。


 目の前に、男が立っていた。ハルよりも年上に見えたし、長身だったが、やせ型だ。しかし棒状の武器を手にしている。


 男が再び武器を振りかぶる。ハルはユーリと繋いでいた手をほどき、棒状の武器を右腕で受け止めた。背後でユーリが息を呑む音や、右腕の骨がきしむ音が聞こえた気がした。


 ハルは右腕で受け止めた棒状の武器を、左手でつかんで男から奪おうとする。当然、男は抵抗するが、ハルは武器をつかんだ手を離さない。


 男の手が一瞬緩んだところを見逃さず、ハルは左手でつかんだ武器を勢いのまま横に投げ飛ばした。金属製の武器が、レンガ敷きの道路に転がる軽快な音があたりに響き渡る。


 今度はハルから攻撃を仕掛けた。男につかみかかって、服の襟ぐりを引き、道路に押し倒そうとする。しかしひょろりとした体型のわりには男の力は強く、ハルは上手く男を押し倒せなかった。身長の差が、ハルには不利に働いた。


 だがここであきらめられるわけもなく、そのままハルと男は格闘になった。


 当初の形勢は互角だったものの、ハルの若さか、あるいは胸の内に抱く怒りの炎の差か、気がつけばハルは道路で仰向けになった男に、馬乗りになっていた。


 無言で殴る。男を殴る。男が、ユーリ目当てにハルを襲ったことは、ハルの中でゆるぎない事実になっていた。それが許せなかった。


 もしもユーリがこの目の前の男に害されたら。そう思うと、胸の奥底から無限に怒りが湧いてきた。


「――ハル、ハル! もうやめなさい! 死んでしまいますよ!」


 不意に大きな手で肩を揺さぶられて、ハルは意識がゆるゆると現実に戻ってきたのを感じた。


 馬乗りになった男の顔は赤黒く腫れ上がっている。ハルの右手の甲は、男の歯が当たったのか、ところどころ切り傷が出来ている。意識が現実へ戻って、じわじわと右手が痛くなってきた。そしてハルもいつの間にやら男から何発か貰っていたらしく、顔の左側に痛みが走る。


 ハルの肩を揺さぶったのは、ミカだった。そのうしろには、ローブを目深にかぶったユーリが立っている。そして周囲には男ばかりの野次馬が集まっていた。


「ミカ……」

「我に返ったようですね?」

「……ああ」


 ほっとした表情で微笑むミカを見て、ハルは決まりが悪い思いをする。ユーリを守るためとは言えど、怒りに身を任せて相手を殴りつけてしまった。ハルは内心で「ガキかよ」と自身に向かって舌打ちをした。


「ひとまずその男から離れましょう」

「……警察は?」

「もう呼んでいますよ」

「ユーリは――」

「ひとを使って私を呼んでくれたんです」


 ハルが男との格闘に意識を取られているあいだに、ユーリは近隣に助けを求め、そこからミカの店へ電話をし、彼を呼び寄せたらしい。それがそのときのユーリが出来る最善手だっただろうということは頭で理解していたが、助けを求めた先でなにかあったらと思うと、ハルは胸の奥がざわざわした。


「手当をしてあげたいところですが――警察へ行くのが先のようですね」


 制服に身を包んだ警官がふたり、野次馬の輪を押しのけて、こちらに駆けてくるのが見えた。


 まだ男を殴りつけていたときの興奮が治まらないハルは、やってきた警官にミカがてきぱきと説明をしているところを、ぼんやりと眺めることしか出来なかった。


「ハル……怪我……」

「……これくらい、どうってことない。オレは警察に行かなきゃなんねーから。お前はちゃんとミカといっしょにいろよ」


 ハルはバツが悪くてユーリの顔を見ることができなかった。それでも精一杯、優しい声でユーリに言い聞かせる。


 ハルの口調がぶっきらぼうなことは、ユーリはとっくに承知している。けれどもこうやって、正当防衛と言えども他人に暴力を振るう――振るえる姿を見られたのは、今のハルにとってはなんだかきまりが悪かった。


 逃げるように空へ目を向ければ、紺と橙のグラデーションの上に星々がまたたいている。


 夜はもう、すぐそこまできていた。

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