(13)

 警察署での事情聴取から解放されるころには、とっぷりと日が暮れていた。黒い夜空はあいにくと今は雲がかかっており、月の姿は見えない。


 ハルが襲撃された理由は、ごくありふれたものだった。


 始めからミカのファーマシーに出入りしていた、ローブを身に着けた成人女性――ユーリに目をつけており、「あわよくば」を狙っていた。ハルを痛めつけようとしたのは、その目的を達成するための手段であったと同時に、鬱憤晴らしの意味合いもあったようだ。


 女連れが羨ましかったから、ねたましかったから、むしゃくしゃしてやった――といったところだろう。ハルたちとしてはたまったものではないが、残念ながら世の中にはこういった輩が起こす事件は珍しくはない。


 ハルとしてはユーリにはなにもなかったし、相手にやられっぱなしどころかやり返せたので、彼女を狙っての犯行に対してはむかつきは収まらないものの、いつまでも怒りを最大限燃やしていても仕方ないと思った。


 けれども、ユーリからすると大いにショックなのだろう。事情聴取から解放されたハルが警察署の待合室に向かえば、ソファにミカと並んで座っていたユーリの顔は、暗く沈んでいたのだから。


「ほら、ハルが来ましたよ」


 物思いに耽っていたのだろうか、扉が開いた音にも気づかなかったらしいユーリは、ミカに促されてハッとした様子で顔を上げた。すぐにハルの姿を認めると、ソファから立ち上がってハルに近寄る。


「ハル……その。手、大丈夫?」

「あ? これくらい、どうってことねーよ。さっきも言っただろ」

「そう、だったね。ごめん……」


 ハルは右手に真っ白な包帯を巻いていた。拳に負った切り傷は、魔法ですぐに治すには少々深く出来ていたので、こうなっているわけだ。


 実際、ハルにとってはこれくらいの傷はへっちゃらだ。たとえ痕がのこったとしても、ハルは男なのだから気にすることはないと思っている。


 問題は、ユーリだ。ユーリは明らかに動揺が収まっていない顔をしていた。


「……あの男、お前に前々から目ぇつけてたらしい。今日お前が声をかけたことは関係ねえから、気にすんな」


 実のところどうなのか、ユーリの今日の行動が引き金になったのかならなかったのかは、ハルにはわからない。わからないが、そういうことにしてぶっきらぼうな言葉遣いでユーリを慰めた。


 ユーリが勝手に罪悪感を抱いて、自分を責めていることは丸わかりだった。外で仕事をしたいと希望したのもユーリで、あの男を見かねて今日声をかけてしまったのもユーリだからだ。


 けれども今日のような出来事は、残念ながらこの世界では珍しいことではない。たとえばユーリが大多数の女性と同じように自宅にいたとしても、押し入られて乱暴を働かれる――という可能性は、いくらでもあるのだから。


「そうですよ、ユーリ。貴女が私の店で働いていなくても、たとえば少し庭へ出たときだとか、夫同伴で買い物に出かけたときだとかに、ああいう輩に目をつけられてしまうということは……この世界ではありふれているんです。貴女のせいではありませんよ」


 ハルの言葉に重ねて、ミカがそうフォローを入れる。


 ここでユーリのせいだということにして、外で働く気持ちを挫くというのも方法のひとつではあるが――ユーリの夫たちの中で、それを望むものはいないだろう。


 しかしユーリが「もう働きたくない」とか「外に出たくない」と言えば、それはそれで安堵する。難しい話だった。


 ユーリは、ふたりの慰めを聞いてしばらく考え込んだ様子だったが、ややあって深く思いため息をついた。


「……はい。ごめんなさい。心配かけちゃって。慰めてくれて、ありがとうございます」


 目深に被ったローブの下にあるユーリの顔は、困ったような微笑を浮かべていた。


「……本当は、家にいたほうがいいんですよね。そのほうが安全で、きっとみんな安心できる」


 ユーリの言葉になんと返すべきか、ハルは迷った。ミカも同じだったのか、すぐにはなにも言えない様子だった。


「――でも、ずっと家にいるのもなんだか怖くて。そうしてみんなに甘えていたら、そのうちなんにもできなくなっちゃうんじゃないかって、思って。私は……」


 ユーリは目を伏せてかぶりを振った。そこから先の言葉は口にはしなかったが、ハルには大体想像がついた。


 「私は……異世界人だから」……。この世界で上手く生きていく方法を、ユーリはまだわかっていないのだ。わかる日が来るかどうかも不明瞭で、それゆえに彼女は手に職をつけたいと渇望するのだろう。働く手立てがあれば、ひとまず飢え死にする心配はない。生きていくことが、出来る。異世界人であっても。


「ユーリ……」


 ミカがソファから立ち上がり、ユーリのそばまで行くと、その華奢な肩を抱き寄せた。自然とユーリの顔はミカの胸元へと寄せられる。ユーリが、おどろきに息を詰めたのが、ハルのところまで伝わる。


「いいんですよ、貴女の好きにして。私は、一生懸命な貴女が好きです」

「……気持ちは、うれしいです。でも、みんなだって――」

「勝手にオレらの気持ちを察してんじゃねえよ」


 ハルもユーリのそばまで歩み寄ると、彼女の細い手首をやや乱暴に取った。ユーリの目がハルへと向けられたので、ハルはそれで満足した。


「たしかにあの家で大人しくしててくれたほうがいい。けどそれじゃ、ペット飼ってるのとおんなじだ。オレらはユーリっていう人間と暮らしてるんだ。お前にだってやりたいこと、やりたくないこと――突き通したいこと、あるだろ」

「うん……」

「お前のやりたいこととか、突き通したいことなんて、甘えや迷惑のうちに入んねーよ。四人全員、そう思ってる」

「そうですよユーリ。貴女のわがままは可愛らしいものばかりですし、むしろそういうことを言ってもらえることを私たちはうれしく思っているんです」

「……まあ、仕事辞めたいっつーんなら辞めていいと思うけどな」


 今日の出来事は確実にユーリの心に傷をつけた。それを考えると、あのストーカー男をもっと殴りつけていてもよかったなとハルは思う。


 ユーリを守りたいと思う。危険や恐怖や苦痛、あらゆる悪いものから遠ざけたいと思う。けれどもそうやって、だれかの手で遠ざけてもらうことをユーリは望まないだろうということもまた、わかっていた。もどかしく感じるが、ユーリは愛玩動物でも、家畜でもないのだ。


 ユーリは再び、ゆっくりと左右にかぶりを振った。


「辞めたくない。なんか、ここで辞めちゃうのも怖いし……まあ、またああいうことが起こったらって思うと、それも怖いけど。けど……辞めたくないな、って」


 ユーリがまた、困ったような微笑みを浮かべて言う。


「なんか、どんどん弱くなってる気がする」

「はあ? 昔の話してるんだったら仕方ないだろ。一〇代のガキと、大の大人じゃ体の重さが違う。それにあのストーカー男は武器持ってただろ」

「そうだね。昔は……ほかの女の子よりもちょっとは強いと思ってたんだけどな」


 決まりが悪そうに微笑わらうユーリを見ていて、ハルはもどかしさに舌打ちしそうになる。


 けれどもハルが顔を険しくさせそうになる一方で、ミカはゆるりとユーリに微笑みかけた。


「そうですね。防犯スプレーだけではなく、スタンガンなども携帯してはいかがでしょう?」

「うーん……上手く使えるか不安……。今日も上手く使えなかったし……」

「別にオレと取っ組み合ってたからって、躊躇する必要はねえからな? 防犯スプレーで死ぬことはねえ」

「それは……頭ではわかってるんだけどね」


 ミカが建設的な話をしだしたので、湿っぽい空気は少しやわらいだ。それでも、ユーリの浮かない表情を払拭するまではいたらない。


 ハルもミカも、アンジュだってエルンストだって、ユーリに強さや完璧さを求めているわけではない。けれどもユーリは、どこか強くなければならないと、少しの間違いも許されないと思っているフシがある。


 もどかしいと、ハルは思った。


 同時に、強くあらねばと、完璧であらねばとユーリに考えさせる要因は、この世界にもあるのではないかとも思った。


 女性が少なく、その安全性が保障されず、常に脅かされる世界。女性の仕事と言えば子供を産むことで、それ以外の選択肢がほぼない世界。


 常識の違うそんな世界に――ユーリはいたいと願うのだろうか?


 ハルはユーリではないので、答えは出せなかった。

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