願い
マファルダは揺らめき立つ灯火のように姿勢を正し、一歩、一歩、祭壇から降りていく。
「お顔を上げて」
セバスは応じて視線を上げた。
すると、目の前が黒い渦に吸い込まれる。マファルダの顔が、目と鼻の先にあったのだ。
足音は何一つ聞こえてこなかった。
「…………!」
動揺するセバス。
彼の両手は車イスから離され、すでにマファルダの手の中。
セバスが振り払おうとしたその時、手首の上で涙が弾ける。
「よくぞ、よくぞご無事でいらっしゃいました……! さぞかし大変だったでしょう。椅子を押しながらこのような森の奥まで……」
マファルダは眉間にシワを寄せ、口元を震わせながらそう言った。
頬に渦巻く螺旋の上に、煌めく涙の軌跡がある。
「やはり、彼女は歩けない体なのですか……?」
セバスはしばし呆気にとられた。
「え、ええ……幼き頃、脚に酷い裂傷を負いまして。切除してしまったのです」
あながち嘘ではないが、これもまた口から出任せだ。
「なんと痛ましい……そのような身の上で、故郷を離れざるを得なかったというのですか?」
「はい。我が主シヴィは、慎ましく領地を収め、国に仕える一介の貴族であられました。しかしながら、私も、我が主シヴィも、〝ネファル族〟への迫害に反対し、密かに救済の手を差し伸べていたのです。いつの日か、魔の被害が拡大し、我々はネファル族を守ることができなかった。秘密は露呈し、領民から激しい反感を買い、帝国からは逆賊として追われ……」
セバスは言葉に詰まるふりをする。
彼の口から滑らかに嘘が紡ぎ出される様子に、シヴィはただただ感心した。
一方、マファルダは感極まった様子で目を見開いた。
「ネファル……! 旅人から、我らの真名をお聞きする日がこようとは……!」
マファルダは、セバスが被るフードの奥へ、差し迫るような眼差しを送る。
それから彼女は両手を放し、片手を地面に着きながら、身を屈めてシヴィの膝を擦った。
シヴィは驚きつつも、寂しげな面持ちを装って視線を返す。
「あ……どうも……」
彼女の瞳に映ったマファルダの顔は、心根優しき慈母の面持ち。
「お二人は、仁義と人情に厚いお方なのですね……あなた方の旅路と道筋に、どうか、女神エレーネの祝福を……」
マファルダは膝を伸ばして立ち上がり、両手を重ねて指を絡め合うと、目をつむって祈りを捧げる所作を取った。
セバスはマファルダを注意深く観察し、一挙手一投足から綻びを見出そうとするも、絵に書いたような善人以上の情報が得られない。
感じた違和感、不信感、狂気、全て杞憂だったとすら思う。
セバスは彼女の祈りが終わるころを見計らい、今後の予定を告げる。
「我々は長居するつもりはありません。森を抜ける準備が整い次第、商人の都、ランタスタへ向かおうかと」
マファルダは眉間に憂いのシワを寄せたあと、引き留めんとする思いを微笑みで隠す。
「そうですか……ここは帝国の目から逃れた安息の地。しばらくは、身と心を休ませて行くと良いでしょう。皆、喜んで歓迎いたします」
セバスはうなずいてから、マファルダに問う。
「敷地の入り口から、畑作に携わるネファル族をお見掛けしました。ここでは、水から食物、身にまとう衣に至るまで、自らで賄っておられるのですか?」
マファルダはうなずく。
「女神エレーネの加護の下、飢えたことも渇いたことも、夜風の寒さに凍えたこともありません。ですが、病や怪我を治すために、加護の下から離れなければならない時があるのです」
マファルダは沈痛な面持ちで続ける。
「森を疾走する『ヌタ』の脂は軟膏になります。木に群生する『ツチノハナ』は、調合次第で解毒剤になり、薬草と合わせれば滋養強壮剤になります。そうして自然の恵みを得ようとすることは、自然の脅威はもちろんのこと、魔の脅威に晒されることでもあるのです」
セバスは目を細めて、彼女が何を言わんとしているのか理解する。
魔除けの柵の中で全てを揃えることはできない。必要に応じて敷地の外に出るたび、犠牲が伴うということだ。
彼は頭と腰が水平になるよう礼をした。
「我々のような流浪人を招き入れて下さったこと、改めて感謝いたします。一週間ほどの滞在になるかと思いますが、我々もお手伝い致しましょう。皆様にご迷惑はお掛けしません」
マファルダは微笑みながら首を横に振った。
「そう固くならないで。今日はお疲れでしょうから、立ち話はここまでにしましょう。明日は歓迎の宴を催します。ベアリ、彼らを寝室へ案内したら、皆に準備をするよう伝えて」
ベアリは小さくうなずいて、二人を手招く。
去り際に、セバスはもう一つ疑問を投げ掛ける。
「ところで……この館も祭壇も、実に見事ですね。それこそ、我が故郷ナザレアに建つ大聖堂にも引けを取らない。否、まったく同じと言っていい」
その瞬間、場の空気が凍り付く。
「狩りや採取でさえ犠牲が伴うのですから、トロールがうろつく森の中での建設は……さぞかし、多大な犠牲が伴ったことでしょう。ネファル族を匿うためには、資材集めや建築の段階で帝国の目を避けねばなりませんし、魔除けの柵には魔道師の協力が必要不可欠。いかに奇跡的な建築が行われたのか……あとでじっくりとお聞きしたい」
マファルダは聖女の微笑みを崩すことなく返答する。
「……ええ。だからこそ、私はここで祈りを捧げているのです。もう一度奇跡が起きるように」
彼女の右手がゆっくりと持ち上がり、左腕を握りしめた。
◇◇◇
セバスとシヴィはベアリの後に続き、長い廊下を歩きながら思案にふける。
見渡せば見渡すほど、セバスの瞳には既視感の残像。まるでこの建物そのものが、別の場所から運び込まれたかのようだった。
「賢いのね、セバスさん。聖女様にあんな質問をしたのは、貴方が初めてよ」
ベアリはそう言って、フードに隠されたセバスの目元を見つめた。
セバスは顔の前で片手を左右に揺らす。
「いえいえ。お褒めに預り光栄ですが、単なる興味本位ですよ。なにせ、ナザレアで大聖堂の建築現場を目にしてきたものですから、苦労が目に浮かぶのです」
「ナザレアの大聖堂は、私も見たことがあるわ。とても見事だった」
「であれば、例の事件もご存知で?」
セバスは首を傾げて反応をうかがう。
ベアリは片眉を持ち上げ、切れ長い目元で瞳を細めた。
「……建築途中の聖堂が、一夜で消失したときのことかしら」
「その通り。厳密に言えば、ほぼ完成していたのですが……贅の限りを尽くした内装が、女神の逆鱗に触れたとされ、設計はそのままに、質素な建材に置き換えられたのが今の大聖堂なのです」
「物知りね」
「故郷のことですから」
会話が終わる頃、ベアリは一室の前で二人を止める。
「二人とも同じ部屋でいいかしら。分けることもできるけれど」
彼女はそう言う傍ら、思い出したかのようにヘアバンドの位置を調整する。
セバスは視線を下ろしてシヴィの意思を確認し、うなずいた。
「同じ部屋で構いません」
「全て好きに使っていいわ。私は玄関前のホールにいるから、用があるときは声をかけてちょうだい」
ベアリはそう言い残して二人に背を向けた。
立ち去る彼女を呼び止めるように、シヴィは丁寧なお辞儀をする。
「ありがとうございます、ベアリさん」
シヴィは顔を上げたあと、ベアリに向かって無邪気に手を振る。
「明日、一緒に編み物しましょう!」
「……ええ」
ベアリは口角を覗かせて微笑んだ。
その刹那、彼女の胸中に自問の剣が突きつけられる。
また目を背けるつもりか、と。
「……待って」
ベアリはくるりと踵を返し、二人のそばへ戻ってくる。
彼女はセバスとシヴィに見えるように、懐から二枚の薬草を取り出した。
「明日、宴を終えたあと、必ずこれを煎じて」
ベアリの眼差しは真剣そのもので、そこに秘めた思いは、ささやかな好意や親切心とも違う。
「え……」
シヴィは戸惑い、セバスの顔を見上げた。
セバスは薬草を受け取りながら、当然の疑問を投げかける。
「なにか、そうしなくてはならない理由でも……?」
ベアリは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をしてから瞼を持ち上げる。
彼女のブロンドヘアーの隙間から、エメラルドグリーンの瞳が覗く。
その目は数多の知恵と過去を携え、永きに渡り研ぎ澄まされてきた真の
「……食べ過ぎによく効くわ。経験上、宴を終えたあと、体調を崩す人が多いの」
ベアリは耽美な微笑みを浮かべた。試している。
セバスは薬草を裏返して観察し、フードの中で納得の表情を浮かべた。
「Данкон」
シヴィはセバスの口から発せられた謎めいた発音に、首を傾げて目を丸める。
「Не данкинде」
ベアリもよく似た発音で一言返し、二人のもとをあとにした。
「ねえねえ、今の言葉、なに? なんて言ったの? どうして不思議な言葉で喋ったの?」
セバスは右手の人差し指を口元に添えて、答えをささやく。
「……エルフの言葉だよ」
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