罪業盛りし亡命の集落、地図に在らず
知られざる川のほとりにて
モーガンが氷雪の街で反旗を翻し、反逆者となってから三度目の夜。
森に面した川のほとりで、モーガンとシヴィは焚き火の用意を始めた。
火を起こした矢先、夜の寒さを乗せた風が森の中を吹き抜けて焚き火を三日月のようにしならせる。
不安定で落ち着きのない炎の動きに、モーガンは諜報部隊にいた頃の自分を重ね合わせた。
彼は皮肉な気持ちで薪をくべる。
一方シヴィは、焚き火をデタラメな方位磁針に見立て、これから目にする世界に胸を躍らせた。彼女は純粋に旅を楽しもうとしている。
その様子がモーガンには微笑ましくてたまらない。少し羨ましくもある。
旅を提案したのはモーガンで、最初は彼の方が乗り気だった。
すっかり気持ちの浮き沈みが逆転してしまったと、モーガンはしみじみ思いながら立ち上がる。
「少し、辺りの様子を見てくるよ」
「うん。気を付けてね」
モーガンは川のほとりへ向かい、一帯の地形を観察した。
行く手を阻む川は幅広く、流れが早い。対岸には針葉樹の森が広がっていて、行き先を示す道はない。
「この川も対岸も、地図にはなかった……」
ヴァハ帝国の地図に載っていないということは、ここはヴァハ帝国も監視できていないということ。
「知られざる川か……」
モーガンはこの場所こそが、決別の場に相応しいと感じる。
彼は鞄をひっくり返し、中身を改めた。
地面に散らばった荷物の内、兄の形見のスカーフ、方位磁針、そして数枚の金貨に、ないよりもマシな地図を鞄に戻す。
他はすべて、知られざる川のほとりに埋めることにした。
モーガンは腰からダガーを引き抜き、手の中で回転させて逆手に持つ。
「……俺はもう、帝国の道具じゃない」
彼はダガーを振り上げて空を切った。
その刃は月の光を浴びてまばゆく閃き、振り下ろされた刃の軌跡は第二の三日月を描く。
第二の三日月は帝国の名残を砕いた。
モーガンはもう一度振り上げ、帝国の名残を次々穿つ。
何度も何度も、何度も何度も何度も、跡形がなくなるまで何度も。
散らばった残骸はモーガンの過去と等しく、川辺の地面を掘って隠すことは出来ても消すことはできない。
モーガンはありとあらゆる道具を埋めた。残るは頬に刻まれた紋章のみ。
彼はダガーを傾けて、刃の側面に頬の紋章を映し込む。
映り込んだ紋章に焦点を合わせた途端、忌まわしき記憶の断片が映像となって刃の中に現れた。
当時命じられたのは、反乱分子の抹殺。
だが、モーガンは命令に強い疑問を抱いた。
彼は情に従って任務に背き、母と子を逃がす。
子を守らんとする母親の背中を、彼は今でも鮮明に思い出せる。
だが、その親子は別の諜報員に切り裂かれてうつ伏せに死に絶えた。
息絶えながらも子供を庇おうとする母親の背中を、モーガンは網膜に焼き付けている。
命令違反の罪により、モーガンは法廷に立たされた。
反逆罪と死刑判決を言い渡された直後、諜報部隊の隊長が笑顔を浮かべて法廷に現れる。
そこで、隊長の口から任務の真相が語られた。
モーガンが行った殺戮は正義の執行ではなく、言うなれば調理だった。権力者は流れた血を啜り、懐を肥やし喉を潤していた。
法廷に集っていた権力者はモーガンの功績を聞いて、殺すには惜しいと判断する。
判決は覆った。
帝国は絶対的な忠誠を誓う証として、また罪を赦した寛大の証としてモーガンの頬に紋章を刻み込んだ。
この紋章は、罪深き免罪符なのである。
「これまでの俺とは違う……何もかも」
どんな方法でこの免罪符を消し去るべきか、モーガンはダガーを握り締めて考えた。
その様子を、シヴィがじっと見つめている。
「全部埋めちゃうんだね。なんだかもったいないな……」
「使える物は持っていきたいところだけど、俺が生きているって思われたくないから……」
彼は焚き火のそばに腰を下ろすと、おもむろにダガーを炙り始める。
「それ、どうするの?」
「このあと、俺がどんな目に遭ったとしても、合図をするまで力は使わないでくれ」
「…………?」
しばらくの間、二人の間に沈黙が続く。
モーガンは炎に揺られるダガーを見つめて、他に安全な方法はないか、シヴィに余計な心配をかけないか自問した。
葛藤の末、ダガーはついに灼熱をまとう。
モーガンはすぐさまダガーを持ち上げて、自身の頬に押し付けた。
「ぐぉおぉ……!」
モーガンの口からうめき声が滲む。
ジュワリジュワリ、皮膚が焼ける音がする。
シヴィは驚愕して声を荒げた。
「モーガン! 何してるの! やめて!」
モーガンは止めない。
「やめてったら!」
シヴィは車イスを近づけてモーガンの腕を引っ張った。しかし、モーガンの腕は微動だにせず、彼は頑なに頬を焼き続ける。
次第に芳しい香りがシヴィの鼻にまとわり付いた。
「お願い! もうやめて! 私が冷やしてあげるから!」
シヴィは涙ぐみながら懇願した。
モーガンは得も言われぬ罪悪感に駆られて、ダガーから手を離す。
ダガーは既に癒着していて、モーガンの頬に張り付いて離れない。やがて皮膚をめくりながら自重で剥がれ落ちていく。
シヴィは合図を待たずに力を放ち、焼け爛れた頬を冷却する。
モーガンは少しずつ呼吸を整えて、やっとの思いで掠れた声を絞り出した。
「その……ごめん……驚かせて」
「……モーガン。人のことを言える立場じゃないけど、もっと自分のことを大切にして。こんな無茶しなくたっていいのに」
モーガンはうなだれたままかぶりを振る。
「必要な……ことなんだ。俺には、いや、俺たちには……」
意識が痛みに焼かれる中で、モーガンは抱え込んだ問題を脳裏に浮かべる。
まず、資金が不足していること。
道すがら資金を調達するには障害が山程あり、選択肢はないに等しい。
次に、シヴィの体調。
彼女の力は帝国お抱えの大魔導士に匹敵するほどだが、彼らと違って制御封印を施されていない。
モーガンが学んだ限り、制御封印は力の抑制だけでなく負荷を大きく軽減する効果がある。
シヴィは腐食した足を常に冷やし続けなくてはならない体だ。旅先は氷雪の街よりも気温が高いため、常に今まで以上の負荷が伴う。
そもそも、当初の目的だった兄の弔いも果たせていない。愛しき家族の墓すら立てられず、兄の死には多くの謎が残されたままだ。
モーガンは感情の間欠泉を抑え込み、兄のことを諦めるよう努めた。だが、彼は形見のスカーフを見返すたび、真相を追い求める気持ちが噴出しそうになるのを感じる。
何を成すにしても、諜報員の過去が際立って邪魔をしてくる。
モーガンはため息を吐いて眉間に谷を作った。すると、シヴィが細長い指を伸ばして彼の眉間に指先を添える。
彼女はそっと谷を引き延ばして平らにした。
「そんなに怖い顔してたら、あとが付いちゃうよ」
モーガンはゆっくりと顔を上げる。
「シヴィ……」
「頬の痛みはどう? 血は出ていないけど」
「あぁ……まだジンジンするけど、大丈夫そう」
「そっか……よかった」
シヴィが指先を話した途端、再び谷ができてしまう。
見かねたシヴィは、車イスを更に近付けて前屈みになった。
「ねぇ、モーガン。一人で抱え込まないで」
シヴィはモーガンと目線を合わせ、彼の両手を優しく包み込む。
彼女の手はひんやりとしていて、モーガンはその心地良さに心惹かれる。
「この旅は、私たち二人のものでしょ。困ったことがあるなら、なんでも打ち明けて。私も一緒に考えるから」
彼女の言葉は大地に降り積もる新雪のように、涼しげで優しい。
諜報部隊にいた頃のモーガンは、己で思考し、判断し、全身全霊で責任を負う。必要ならば自害すらも厭わない。それが常だった。
「ありがとう、シヴィ……その、だいぶ気持ちが軽くなったよ」
「どういたしまして」
「旅をしようって言い出したのは俺だから、焦ってたんだ。とにかく自分のことを隠したくて……ほんとにごめん」
「今度そういう無茶するときは、絶対相談してね。約束だよ」
「ああ、約束する」
シヴィは木の枝を焚き火にくべて、蒼白色のもみ上げを耳にかける。
「たしかに、この旅はモーガンのアイデアだけど、私たち二人で決めたことでしょ? 二人一緒だったから逃げてこられたんだし。モーガンがああ言ってくれなかったら、私たち、今ごろきっと……」
シヴィは焚き火の底にできた灰を見つめて、街の惨状を思い出す。炎星の魔女の力を思い出す。
生まれて初めて、自分以外の魔女を目にした瞬間だった。
モーガンは続く言葉を察して、うなずいた。
「シヴィの言う通りだ……俺とシヴィの二人で切り抜けた。旅の問題は、二人で一緒に考えるべきだ」
モーガンは頬の火傷に布を当てて、草のベッドに片手をつく。
「明日の朝、川の向こうへ行こう。細かいことは……それから考えようか」
「うん。わかった」
「それとさ、シヴィ。一つお願いがあって……」
「お願い?」
「これから、俺のことは……セバスって呼んで欲しい」
シヴィはしばしの間固まった。
そのまま三回ほど大きな瞬きをしたところで、モーガンの意図を理解し、手を叩く。
「そっか! モーガンだってこと、隠さないといけないもんね。わかったよ」
シヴィはうなずいてモーガンの顔を覗き込む。
モーガンは微笑み返した。
「今日はもう寝ようか」
「うん。おやすみ、モーガン」
挨拶を交わしたあと、シヴィは車イスに座り直した。
モーガンはゆっくりとまぶたを下ろし、深呼吸をする。
しばらくして、シヴィが静かに体を起こし、再びモーガンの顔を覗き込んだ。
「ねえねえ……二人だけの時は、モーガンって呼んでもいい……?」
「構わないけど……でも、気を付けてね」
「うん……」
三日月が見守る中、二人は穏やかな眠りに就いた。
◇◇◇
夜が明けて間もなく、シヴィは知られざる川に氷の架け橋を作る。
二人は対岸へと渡り、針葉樹の森の中に足を踏み入れた。
そのとき、モーガンとシヴィは川上の方に、二本の白い枯れ木を見つける。
白い枯れ木は川を挟んで熱烈にからみ合い、歪なアーチを作り出している。
シヴィは枯れ木のアーチを指さして、当然の疑問を口にした。
「なんだろ、あれ」
「分からない……なんていうか、不気味だね」
「うん……」
「調べたい気持ちもあるけど、今は先を急ごうか」
歩みを進めていく内に、モーガンは針葉樹の樹皮に不可解な傷を見つけた。
進む先を促すかのように、森の奥に向かって三叉状の細い線が彫られている。
一つではない。隣の木に同じ傷がある。更に奥の木にも同じく。
モーガンは明らかに人為的な傷であると見抜いた。何らかの目印だ。
彼は毛皮のコートをローブのように羽織り、フードを目深に被る。
シヴィは振り向いて、モーガンの様子を不思議そうに見上げた。
「どうしたの?」
モーガンはシヴィの左頬に顔を添えて、奇妙な傷の方へ顎を振った。
「……近くに人がいるかもしれない」
「わかった。これからはモーガンじゃなくて、セバスね」
モーガン――セバスはうなずき、慎重に森の奥へ車イスを押し進める。
二人は退魔部隊から少しでも距離を取らなくてはならない。後戻りはできない。
だが、行き先には未曾有の危険が潜んでいる。帝国の監視が行き届かないということは、無法地帯であることを意味する。掃討を免れた『魔』が棲息している可能性もある。
二人は警戒を強めつつ、針葉樹の合間を縫って先へ進んだ。
謎の目印は途絶えない。
ただ行き先に偶然目印があるだけで、それに従っているわけではないというのに、セバスはまるで、未知の何かに誘われているかのような、奇妙で不気味な感覚を覚えた。
シヴィも同じことに気付いたようで、自然と表情が渋面になる。
「誰がこんなことしたんだろう……」
シヴィがそう呟いた直後、森が震えた。
逞しい針葉樹がしなり、木の葉と枝が落ちてくる。大地が左右に揺れ動く。
二人のそばに、巨大な何かが近付いてくる。地面を踏みしめる音が迫り、大きくなる。
セバスは咄嗟に車イスを引っ張って、針葉樹の陰に身を隠した。彼は木の幹に背中を貼り付けて体を細める。シヴィも自ずと縮こまる。
彼が背中を預けた木の向こう側に、震源がいる。
セバスは勇気を振り絞って向こう側を覗き込んだ。
トロールだ。トロールと呼ばれる『魔』が立っている。
針葉樹の頂点に届くほどの
野性的な姿とは裏腹に、トロールの顔は紫色の豪華な布で覆われていた。
布地の縁にはきめ細やかな金色の装飾があしらわれており、まるで何者かがトロールの顔を飾り立てたかのようである。
「な……なんだ、これは……」
シヴィもセバスに釣られて、側に立つトロールを見上げた。
「うわっ……」
シヴィは両手で口元を抑え込み、叫び声を喉奥に押し留める。彼女の目尻に涙が貯まる。
瞬間、トロールは彼女の小さな悲鳴を察知した。
トロールはゆっくりと、首を傾けて足下を――セバスとシヴィの方を向く。
「…………!」
セバスは、トロールと目が合った気がした。
彼は視線を逸らさず、右手を腰の裏に回し、ダガーを握った。
「ひっ……!」
シヴィは足下から冷気を発する。無意識のうちに強い力の準備を整えている。
トロールは二人のことを見下ろしたまま微動だにしない。まるで機を窺うかのように。
睨み合いの最中、唐突に風が吹いて森がざわめいた。
トロールの布が僅かにはためく。
すると、トロールは左手を持ち上げ、二人が身を隠していた針葉樹を握る。爪を食い込ませ、指先を沈めていく。
バキバキ、バキバキバキと、木の幹が悲鳴を上げ、枝と木の葉が崩れ落ちた。
倒れてくる。
セバスは咄嗟に地面を蹴って、シヴィを車イスごと持ち上げながら飛び退いた。
針葉樹は直前まで二人が立っていたところに落下する。
セバスは即座にダガーを引き抜き、トロールのことをにらみ付ける。
「やるしかないか……!」
「おい」
セバスが狙いを定めた途端、彼の背後から低い声がした。
セバスの右肩に手が乗る。セバスは反射的に振り向いてダガーを薙ぐ。
だが、その一撃は止められた。
刃がこめかみに突き刺さる寸前で、骨ばった手の甲がセバスの手を押し留めている。
「落ち着け。今は殺し合ってる場合じゃねぇだろ」
彼の背後に接近し、殺意を込めた一撃を片手で受け止めたのは、軽装鎧で武装した髭面の男。
「だ、だれだ!」
「悪いが説明している場合でもねぇ。死にたくなけりゃついて来い」
二人が話している間に、トロールは倒木を持ち上げて振りかぶっている。放り投げるつもりだ。
シヴィは大声で危険を知らせる。
「モーガ……じゃない! セバス!」
「……!」
同時に、髭面の男は鬼気迫る表情で訴える。
「ダガーを下ろせ、フード野郎! 俺は味方だ!」
「くそ……!」
セバスはトロールの方へ視線を戻すと、ダガーを手の中で回転させて刃先を摘み、トロールに向かって投擲した。
ダガーはトロールの手首に深々と突き刺さる。
トロールは痛みに悶えて手を離し、自分の足の上に倒木を落とした。
その隙に髭面の男は二人を先導し、セバスは車イスの向きを変えて走り出す。
髭面の男はセバスに視線を配りながら、感嘆の声を上げた。
「いい腕だな!」
「…………」
セバスは黙ったまま首を横に振る。
「ここまで離せば安心だろ」
髭面の男は呼吸を整えながら先を歩く。
シヴィは膝の上で両手を揃え、甲斐甲斐しく男にお辞儀した。
「あの……ありがとうございます」
「礼はいい。これが俺の仕事だ」
一方、セバスはフードの奥から、欺瞞の視線を男に向ける。
「お前は何者だ。どこに向かっている」
「そう焦るな。自己紹介はおいおいしてやる。行き先は……ほうら、見えてきた」
髭面の男は針葉樹を撫でながら、その幹に彫られた印を指先でなぞる。
セバスとシヴィは、印が示す先を見た。
二人が見た先に木は生えておらず、広大な空間が広がっている。そこには、純銀の柵で囲まれた館が建っている。
館は針葉樹に劣らぬほど巨大で、
セバスはその館の雰囲気に、過去に立ち寄った大聖堂を重ね合わせた。
シヴィは爛々と目を輝かせ、感激している。
髭面の男は二人の視線に割って入ると、大仰な所作で歓迎の会釈をしてみせた。
「ようこそ、旅の人。失楽園の館へ」
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