旅立ちの風

 車イスは小さな列車と化している。

 モーガンとシヴィを乗せた小さな列車は、脱線しない速度を保ちながらカーブを曲がり、急勾配の下り坂に差しかかった。線路はその先にある塀の前で途切れている。このままでは激突する。

 モーガンは自由な右足でブレーキをかけた。しかし速度は落ちない。

 車イスは坂を下りる。勢いは増して増して増して増して増して増して増していく。

「だめだシヴィ! と、止まれない!」

 モーガンの左足は氷の鎖で車イスと繋がっている。姿勢を崩せば引きずられてしまう。彼は転ばないようにするだけで精一杯だ。

 シヴィは自分のことも氷の鎖で固定し、塀に向かって左手を突き出した。

「しっかり捕まって!」

 彼女は塀の手前に上り坂の線路を作る。だが突貫工事なため構造はあやふやで長さは足りず、さながら反り返ったトカゲの尻尾だ。

「ま、まずくないか!」

「ごめーん! 雑だったかもーーー!」

 車イスはトカゲの尻尾を駆け上がり、滑って回って風を切って宙を舞った。

 車イスはモーガンらを連れて、奇跡的に塀を飛び越える。だが飛び越えすぎた。

 モーガンとシヴィ、そして彼らと繋がった車イスは森の上に放り出される。

「うぉわぁぁあああ!」

「きゃぁあああああ!」

 モーガンは空中で車イスを抱きかかえ、自分が下敷きになるよう態勢を変えた。彼らはそのまま木々の枝葉をへし折りながら落下し、降り積もった雪の上に着地する。

 シヴィは恐る恐る目を開けた。

 彼女の金色の瞳に映り込むのは、雪氷を帯びた森。見慣れない景色である。次いで自分自身の体を眺める。

 見慣れた様子のままである。

 彼女はほっと胸を撫で下ろした。

「た……助かった……って、あれ? モーガンは?」

 モーガンは車イスの下で雪に埋もれている。

 彼は雪の中から右手を突き上げ、弱々しくサムズアップした。

 シヴィは声にならない悲鳴を上げる。

「モーガン! ごめんね! いま何とかするから!」

 シヴィは急いで車イスを退かした。彼女はモーガンを引っ張り出すことはできないが、せめてもの思いで手を差し伸べる。

 モーガンはシヴィの手を取り、雪を押し上げて立ち上がった。

 シヴィは身を乗り出してモーガンに寄り添う。

「モーガン! 大丈夫?」

「あ……ああ。色んなところが痛いけど、これくらい、いつものことさ」

 モーガンは右手で左肩を叩き、脱臼を強引に治した。

 彼にとって気がかりなのは傷の具合よりも、兄の形見が無事かどうか。

「良かった……」

 彼が見るにスカーフは少し破けているものの大事ない。

 モーガンは手早くスカーフを巻き直すと、再び車イスの取っ手を掴む。

「シヴィ。今度は線路じゃなくていい。地面を平らにしてくれないか。俺の靴の裏にはトゲを付けてくれ。滑らないようにね」

 シヴィは首を横に振る。

「少し手当てしたほうがいいよ。顔の切り傷、酷いよ」

 シヴィはそう言うと、上着の袖をモーガンの頬にあてがった。

 しかし、モーガンは彼女の手を優しく下ろす。

「今は少しでも距離を稼ぎたいんだ。シヴィが作ってくれたチャンスを無駄にしたくない」

「でも……」

「急ごう。奴らは直ぐに追い付いてくる」

 モーガンはそう言って、シヴィに強かな視線を送った。

 そこに含まれるのは焦りや恐怖ではなく、希望と勇気。

 前向きな気持ちに気付いたシヴィは、ゆっくりとうなずく。

「うん……わかった」

 シヴィは言われた通り雪を凍らせ、モーガンの足の裏に滑り止めを作る。

 自由な足と平らな地面を得たモーガンは、白い息を発しながらひたすらに前進する。立ち塞がる木々を右へ左へ避けて、枝や氷をへし折り、前へ前へと突き進む。

 モーガンには狙いがある。

 彼は街の中で車イスを走らせながら、退魔部隊の襲来がなぜこんなにも早かったのか考えていた。

 サンドラについては、帝国首都から駐屯地へ、さらに別の駐屯地へと転移魔法を使い、回復を挟みながら少しずつ移動したと仮定するならば打倒な日数である。しかし、四十名の小隊を同時に転移することはできない。もとから近隣に駐在していた人員をかき集めたのだろうとモーガンは推察する。ゆえに大部隊による包囲はできなかった。実際、サンドラさえいれば勝算は十分にある。

 もう一つの問題は、森をどう移動したのか。急な召集であるがゆえに十分な備えはできない。サンドラの力で防寒には困らないが、それにしても早過ぎる。

 森を突き進んだ先で、モーガンは答え合わせをした。

 シヴィは口元を抑え、絶句する。

「…………!」

「やっぱりな……」

 森の一部が真っ直ぐに焼き払われていた。

 雪と氷は解け、半円状に抉り取られた地面は黒く焦げ、木々は横倒しの炭と化して朽ち果てている。まるで隕石が通り抜けたかのような有様である。

 この道を利用すれば、車イスを押してでも一気に進むことができる。

 道中、シヴィは振り向いてモーガンに感嘆の眼差しを向けた。

「すごい……ここには雪がないって、始めから分かってたんだ」

「いいや、咄嗟の思い付きだよ。とにかく、この道を進めば真っ直ぐ森を抜けられる。シヴィも力を使わなくていい。名案だろ」

「ねえ、モーガン。モーガンってもしかして、すごい軍人さんだったとか?」

「いいや、そんなことない。ただ、なんていうか……どんな任務の時よりも、今が一番必死で、色んなところが軽いよ」

 モーガンは袖で血を拭いながら微笑んだ。その様子を見ていたシヴィも、どことなく釣られて微笑み返す。

 二人の問題は山積みで、いつ命を落としてもおかしくない状況だが、二人の気持ちは春風に舞う綿毛のようだ。

 モーガンとシヴィは追い風を受けながら先へと進み、やがて氷雪の森を抜け、暖かい場所へ。もう毛皮のコートは必需品ではない。

 気が付くと二人は、丘の頂きにいた。

 開拓の手が及ばぬ森を見渡し、モーガンはどこか懐かしい気持ちになる。

 シヴィは久しく目にした自然を前に、一筋の涙を流した。

 ここでは雫が凍り付かない。

「私、本当に、街を出たんだ……」

「ああ……」

 モーガンは振り向いて、来た道を――己の道筋を想い返す。

 何も知らぬ志願兵から諜報部隊へと異動を願い、駆け出しの頃は陰から人々を救う誇りに酔いしれた。

 やがて実力を認められてから、汚れ仕事を専任とするようになった。それからは、心臓に釘を打たれるような毎日だった。

 モーガンは今、多くの命を奪ってきた手で、一つの命を救おうとしている。

 彼は兄の言葉を想い、少しばかり胸を張った。

 シヴィも共に振り向いて、街の上に留まる暗雲を見た。それは少しばかり薄れ始めていた。

 彼女は街で過ごした日々と、自分を育ててくれた人々の笑顔、そしてソイリおばさんの最期を想い返す。

 シヴィは涙ぐみながら、街に別れと旅立ちの挨拶を告げる。

「さよなら、みんな……私、私……みんなが私を、助けてくれたみたいに……私も頑張るから」

「……行こうか、シヴィ」

「うん……」

 二人に行くあてはない。だが、行きたい場所がある。見たい景色がある。二人にはそれだけで充分だった。

 今はもう、旅立ちを阻むものはない。

 モーガンは兄の形見を握りしめ、それから車イスの取っ手を掴み直した。

 二人は新たな景色に思いを馳せながら丘を下る。

 暖かいそよ風が、二人の頬を撫でた。

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