金蓮花の章

EP3 June, 2025 ~ただ彼女のために~

 これは海馬傍回の奥底に眠る記憶が見せる世界――なのだろうか。

 瞳に映る世界は限りなく現実で、でも何故か『現実感』を持てない矛盾……天を仰げば澄み渡る群青の空、風が頬を撫でる感覚もある。なのにどうして。

 四方を見渡す。間違いなく高校時代を送ったカルミア女学園の時計台広場、そして視線を落とすと高等部の制服を身に纏っている。

 なら時間跳躍タイムリープは成功? ……到底そうは思えない。人間の気配を一切感じ取れず、耳鳴りする程の静寂に世界は包まれていて恐怖すら覚えるもの。


(死後の世界……だと言うのなら期待外れもいいところね)


 ただ断定するには判断材料に乏しくて、明確な答えを導き出せない。

 この場所で突っ立ていても物事は始まらないと考えて、私は一歩を踏み出す――視界が暗闇に包まれ暗転、次の瞬間には生徒会室に場面が切り替わった。

 不意の状況変化に私は愕然として心臓の脈動が急激に速まる。


「……久し振りだね。涼ちゃん」


 会長席に腰掛ける私は、忽然こつぜんと姿を現した女生徒に跳ね上がる。

 彼女は私を愛称で呼ぶ。そのやや甲高くも透き通る声音、小柄な体躯、淡い桃色コーラルピンクの癖毛髪を外ハネボブの髪型に仕上げている。でも顔は霞んで認識できない――記憶に生き続ける彼女、絶対に忘れてはならないのにもやが邪魔をして思い出せない。

 私は彼女へと一歩また一歩と足を踏み締めながら距離を縮める。


「忘れては駄目……駄目だと言うのに、私は――ねぇ? 『貴女』は誰なの?」


 触れられる距離――彼女に問い掛けながら霞む顔に手を伸ばす。

 しかし手に伝わる体温は死人の如く冷たくて、それ以上に挽肉に触れる様なグチャッとした感触と血生臭い液体が手を濡らす。その『液体』が何であるか脳は瞬時に理解するも、同時にその答えを脳が否定する。


「あっ、ぁあぁぁ、わた、私は――」

「私を、見捨てた……涼ちゃん。私を、殺した――涼ちゃん」


 その言葉と共に崩れ始める彼女の顔、その肉片が地面で音を立てる。

 急激に込み上げる嘔吐感、手に伝わる感触――瞳に映る光景に精神錯乱を引き起こす。ただ眼前の悪夢から逃れたい一心で瞼を閉じた瞬間、私の意識はここで途切れた。


                 ******


「おい、す――すず――涼花。いい加減――おい起きろ!」


 耳元で喚かないでよ……馴染みのある声音が何度も何度も私を呼ぶ。

 その声に嫌気が差して、強烈な睡魔を振り払いながら鉛の様に重い瞼を開く。朦朧とした意識の中では頭が働かない、でも瞳に映った人物は瞬時に認識できた。


「はる……ひ……?」

「んっ? ああ、そうだぞ? お前、最近まったく起きないな」


 そして瞳に映る光景――視覚情報が大脳皮質を刺激し私は飛び起きる。

 華美な西洋アンティーク家具の数々、優美な趣を漂わせる装飾品等……瞬時に記憶が蘇り訴え掛ける。この場所がカルミア女学園の生徒会室に隣接する応接間であると。

 つまり……これが意味するところは――。


時間跳躍タイムリープの……成功? せ、成功、なのよね!?」


 思考も精神も現実的で、頬を抓れば痛覚も触覚も、五感が機能している。

 まだ油断しては駄目……そう脳裏を過るも、成功の可能性が高い状況に感情が昂る。

 突然過ぎる豹変具合に、瞳に映る春妃は呆気に取られた表情を浮かべている。でもそんな事はお構いなしで私は、湧き上がり続ける歓喜の感情から春妃に抱き付いていた。

 普通なら困惑する状況――だと言うのに春妃は私を力強く抱き締める。


「す、涼花……お前は、ほ、本当に『涼花』なんだな?」


 当然ながら私は私で、私以外に誰が存在するって言うの?

 逆に春妃の言動にほんの僅か冷静さを取り戻す私、彼女の言葉に束の間私は思考を巡らす――耳元で囁く様に『よかった』と言い続ける春妃、次第と涙声に変わり始める。その反応に驚きを隠せない私は咄嗟に抱き剥がれて彼女の顔を窺う。

 静かに啜り泣く春妃、人前で、いや私の眼前ですら泣顔を見せた事なんて……隅々まで記憶を巡っても過去に一度たりともない。


「な、何だかごめんなさい。落ち着いて、春妃?」

「んくっ……いや、んっ……私こそ、すまない。……もう希望は捨てていたからな」

「つまり、それは――」

「もう隠す必要もないだろ。涼花、永らくだな。……おかえり」


 その言葉の意味……つまり春妃も『成功』と言う現実に、私は無意識に涙を溢す。


「おかえり……ね。本当に、そうね。ただいま、春妃」


 喜びを共有する私と春妃――ただ喜悦に浸るのは後にしようと、春妃が言葉する。

 それは私も同意見、まず状況把握も兼ねて幾つかの質問を投げる。応接間で目覚めた事や制服姿から察するに、二十年前の西暦二〇二五年である事実は明白……重要なのは今日が『いつ』であるかと言うこと。

 それに春妃以外の時間跳躍タイムリープ成功者は誰がいるのか。


「今日は五月の最終日、日付が変わって六月一日だ。予定通りか?」

「はぁあ……まあ成功しただけでも御の字だけれど、最悪に変わりないわね。指定期間は三月一日だもの……この誤差は想定外もいいところよ」


 だって【羽乃坂通り魔事件】が確か……今日? ――今日じゃないの!? 咄嗟に左手首に装着しているスマートウォッチに視線を向ける。春妃の言う通り六月一日の日付、ただ問題は現在時刻で――深夜の午前十二時三十七分と表示されている。

 私の計画では、この事件の結果如何で【惨劇】を阻止できる可能性が高まる。


「は、春妃! 私たち悠長に話している場合じゃないでしょ!?」

「えっ? ……ああっ!? 起こした理由を忘れてたぞ」

「いやいや、忘れてたで済む話じゃないわよ!」


 羽乃坂通り魔事件と呼ばれる女生徒殺傷事件。

 日付が変わって西暦二〇二五年六月一日の午前一時五分に発生――カルミア女学園高等部一年生の大友優菜と中等部三年生の大友由衣の二人が被害者、姉の優菜は命を奪われて、妹の由衣は重傷を負いながらも一命を取り留めている。

 容疑者である男性は現場から逃走、二〇四五年時点でも逮捕されていない。

 ――と言うのは表向きの話ね。逃走中の男性は架空の人物だし、警察から報道機関に提供される事件情報の大部分が捏造、予期されたかの様に用意周到に世間を欺いている。

 真実は全く以て異なる。確かに被害者は二人で相違はない……ただ首謀者は山吹女学園の生徒会長である雨小衣あまおいしずく、彼女の命令を受けた部下三名による襲撃に遭って、姉の優菜は妹を守り抜いたものの戦闘の末に命を奪われた。

 

「とにかく時間がないわ。急いで!」

「お、おい待て! 戦闘は避けられないだろ?」


 突然ティーセット等の洋食器が整然と収納された食器棚がスライド移動する。

 すると壁面に埋め込まれた指紋認証方式の小型金庫が姿を現す。春妃は金庫を解錠して、中から小振りなジュエリーケースを取り出すると私に見せてきた。


「めちゃくちゃ苦労したんだぞ。上級術式が組み込まれた媒花結晶石CFCだ。まあ少ないけどな」

「この時代に良く手に入れられたわね……でも相手は学生でド素人よ? 必要ないでしょ」

「とは言っても人一人を殺している以上、恐らく殺傷花術シカリアを使ってくる可能性も高い。お前が何時も言ってるだろ? 油断は大敵だってな」

「まあ、それもそうだけれど……分かったわよ」


 この媒花結晶石CFCと言う小粒な結晶石は、自然植物から抽出した精油オイルを無色透明の天然結晶石に注入したもの。花術フロリスの発動に必須で、二〇四五年の時点で約千種類を超えている。

 花術師フロリストは自身が所持する花術制御端末FCDにCFCを装填して使用する。

 そして春妃が所有するCFCは試験製造段階の未流通品。そもそも華丘島北部の政府直轄区にある地下施設で厳重保管されている為、先ず以て入手は不可能なはず。

 とりあえず入手方法は後で問い詰めるとして……。


「これでいいわ」

「月下美人が内包する花術ってレーヴェテリテンプスMFMー830だろ? 使いどころあるか?」

「使わないから問題ないわ。まあ御守り代わりね」

「まあそう言うなら構わないが……」

「それより早くして、羽乃坂まで最低でも十分は必要なんだから」


 腰に装着したホルダーからFCDを抜き取ってイジェクトボタンを押す。後尾から最大六個までのCFCが装填可能なカートリッジが飛び出した。

 既に攻性花術アグレシオ防性花術カストルム、それと支援花術メリウスを内包する合計四個のCFCが装填済み、追加で月下美人を装填する。月下美人以外、何れも下級花術が中心、一部は中級もあるけれど……確かに心許なさはある。でも春妃も居れば問題ないはず。

 準備を終えた私と春妃は、急ぎ羽乃坂に向けて走り出した。

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