第5話 令嬢、当て馬であったと自覚する5


屋敷に帰ってきたアイリーシャは湯浴みを済ませ部屋着に着替えてから、自室で一人物思いに耽っていた。


「お嬢様、夜会ではあまり飲食できないものと聞いております。ですので何かお夜食をご用意いたしましょうか?」


アイリーシャ付きの侍女エレノアは、帰宅した主人の様子がおかしい事には気づいているが、侍女という立場を弁えている為、不用意に踏み込んだ発言を自分から発することは出来ずもどかしさを抱いていた。


「有難う。でも今は要らないわ」

アイリーシャは静かに微笑んで返答するも、その目は、誰が見ても泣き腫らした目である事が明白だった。


「でしたら、ホットミルクは如何でしょうか?」


詳しいことは分からないが、何か辛いことがあったのだろうとエレノアは察していた。

しかし、事情が分からない為、慰めの言葉をかけることも出来ず、憔悴している主人を見守ることしか出来なかった。

なのでせめて、温かい食べ物や飲み物などで身体の中を温めて、張り詰めている気持ちが少しでも和らいで欲しいという、エレノアなりに考えての、自分が今の段階で出来る精一杯の気遣いだった。


「そうね、ホットミルクならいただこうかしら。」

「かしこまりました。直ぐにご用意いたします。」

自身の提案が受け入れられてエレノアはホッと胸を撫で下ろし、彼女は直ぐに用意の為に部屋を出て行った。



するとアイリーシャは、いよいよ部屋で一人になってしまった。


明かりを灯してはいるが、夜の闇で部屋の中は薄暗い。


月明かりがやけに綺麗に見えるこの部屋で、物音一つない静寂の中アイリーシャは一人取り残されたような錯覚に陥っていった。



王太子殿下の婚約者になれなかった悲しみ。


そもそも、お慕いしていたアイリーシャに優しい手紙をくれる王太子殿下は、幻想だったという喪失感。


そして、お祝いの場に最後まで残って祝福を出来なかった自分への不甲斐なさ。



幾分か落ち着いたと思っていたが、一人で暗闇の中にいると、様々な負の感情が襲ってくる。


(こんなにも心乱され、自身を蝕む物なのか……)


アイリーシャは、それはそれは大切に育てられた箱入りのお嬢様だった。


なので生まれて16年間、失恋は勿論のこと、挫折なども経験したことがなく、自分の中に生まれたこのような感情を如何にすれば昇華できるのか分からず苦しんだ。


暫くするとエレノアがホットミルクを運んできたので、負の感情に落ちていく感覚はそこで一度掬い上げられた。


アイリーシャはエレノアからホットミルクを受け取ると一口飲み、胃の中がじんわりと温かくなっていく感覚に、次第に気持ちが落ち着いていった。


「エレノア、私、王太子殿下の婚約者には選ばれなかったわ……」

ホットミルクをもう一口飲み、それからぽつりとこぼした。


「まさか?!あんなにお花やお手紙を送ってお嬢様のことを気にかけていらっしゃったのに?!

……言葉がありません……」


アイリーシャの告白はエレノアにとっても晴天の霹靂だった。彼女も手紙の存在を知っていたからだ。絶句とはまさにこの事だろう。


「今だから分かるの。あれは婚約者候補の御令嬢皆様に贈っていたのよ。私だけじゃなかったのよ。勝手に勘違いしてしまった私が悪いかったのだわ。」

「いいえ。お嬢様が悪いことなんて一つもありません。」

エレノアは本心からそう言い切った。


そして、もしお嬢様の推測が本当に正しくて、婚約者候補全員に対して自分が特別扱いを受けていると思わせて好意を向けさせだとするならば、なんて残酷な事をしたのだろう。王太子殿下は最低な男だ、と自分の主人を泣かせた男を心の中で罵った。


「お嬢様は非常に可憐でお美しいです。王太子殿下の婚約者候補から外れたとなれば多くの男性からのお声がかかると思われます。お嬢様、今はお辛いかと思いますが、お嬢様を真に愛してくれる殿方がすぐに現れます。だって、お嬢様はこんなにも可憐でお美しいのだから。」


アイリーシャの為に、エレノアはとにかく思いついた慰めの言葉を並べた。

その結果、可憐で美しいを二回言ったが事実だからしょうがない。

実際王太子殿下の婚約者候補の選別要素の一つに容姿端正さが含まれていたため、アイリーシャを含む選ばれた七名の御令嬢は皆とても美しかったのだ。


「きっと明日からは多くの男性からお声がかかって大変忙しくなると思いますよ。」

「まぁ、それは困るわ。感傷に浸る間もないのかしら。」


アイリーシャは自身の周囲からの評判を全く理解していない為、エレノアの言葉を過大評価と受け取り、実際はそんな事にはならないだろうと思ったが、困っているフリをしておどけて見せた。どうやらエレノアに話した事で先程の負の感情も、そのような態度が取れるまでに落ち着いてきていたのだった。


「ええ、きっとそうなります。世の中の男性がお嬢様を放っておくはずがありませんから。」

ニッコリと笑い、エレノアは自信を持って言い切った。


「有難う、エレノア。貴女の心が嬉しいわ」

弱々しくではあるが、少しアイリーシャに笑顔が戻った。それを見て、エレノアは差し出すタイミングを見計らっていたよく冷えた濡れタオルを主人に差し出したのだった。


「お嬢様、こちらをお使いください。この濡れタオルで目を冷やしておくと、幾分か腫れが和らぐと思います。」

「まぁ、エレノア準備が良いのね」

出来る侍女に感謝して、アイリーシャは有り難くタオルを受け取った。

この泣き腫らした目が、少しでもマシになる事を祈りながら、目を閉じて瞼にそっとタオルを当てたのだった。

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