冷たいお弁当
4限終了のチャイムが昼休みの開始を告げた。
静まりかえる水面に大雨が降り注ぐかのように、学校中がガヤガヤと賑やかになる。購買へダッシュする者、机を突き合わせる者、カバンから弁当箱を取り出す者。
様々な学生がそれぞれの考えを胸に昼休みを謳歌しようとしている中、面白くなさそうに机の上にちょこんと乗った弁当箱を見つめている者がいた。その名を土田という。
「おう土田。今日の放課後どーする?」
「野球やるだろ?」
クラスメイトの上本と水島が土田の席に机をくっつけてくる。
高校に入学して2ヶ月。小中とそつなく学校生活をこなしてきた土田は、もちろん高校でもそつない。気の合う友人を少数作り、平穏無事に3年間を過ごす腹づもりである。人気者になるつもりはないし、誰とも馴れ合わずにひとりで自由奔放でいるつもりもない。
「ごめん。俺、バイト始めたんだ」
土田の言葉に二人は目を丸くした。
「え! マジで!」
「土田すげー。バイトとか怖くね?」
「慣れたら案外面白いよ」
土田の両親は共働きで夜遅くに帰ってくる。昨今の感染症による影響で最近はさらに帰りが遅い。つまりそうまでしないと、会社の売上が担保できないということ。ゆえに土田は今のうちからアルバイトで大学費用を稼ごうとしていた。いつ両親のどちらかが職を失うか分からないのだ。
学校での身の振り方しかり、将来を見越してのアルバイトしかり、この土田の計算高さは両親譲りなのだと本人自身も信じていた。
父親は宅配業。母親は電化製品の売場営業。
人に物を勧める話術と頭脳、時間配分とルート選定を両立させる手際の良さ。それらは常に一歩先を見る思考があるからこそ成り立つ能力と言える。そんな両親の間に生まれ、二人の生き様を側で見てきたからこそ今の土田がいる。
「ところで昨日の『溺れる世間は悪ばかり』見た?」
「あー見た見た! 丸野末三やっぱ藤野先生と似過ぎな。マジ笑う」
上本と水島が他愛もない話で盛り上がる中、土田は机の上に広げられた二人の弁当に目をやった。それからすぐに自分の弁当箱に目を落とす。
まだ開けていない弁当箱の中には綺麗に成形された小ぶりなハンバーグやコロッケなどが入っている。弁当の献立は複数あれど、変わり映えのしない見た目と味。毎日毎日毎日。同じ形の同じ味の食材が入っている弁当箱に土田は寂しい思いを抱えていた。
友人たちのざっくばらんな弁当の中身を見ていると、なお一層いたたまれなくなってすぐにでもどこかへ行ってしまいたくなる。
いつも形の違うおにぎり、焦げ目の位置が変わるソーセージ、異様に量の多いマヨネーズ。そこには確かに人の温もりがあった。
一方、自分の弁当と言えば冷凍食品100%で構成されている。夜遅くまで仕事をして、朝早くから仕事に出かけていく共働きの両親だ。時間短縮として冷凍食品を選択する気持ちは分かる。
だが母親は料理の専門学校を卒業している。手作り料理をちゃちゃっと弁当に詰めることくらいはしてほしいのが本音だ。
「どうした土田。なんか元気なくね?」
「たしかに」
心配そうに土田の顔を覗き込む上本と水島。土田は苦笑いを浮かべる。
いっそ素直に打ち明けてみるか、と土田は思った。
嫉妬していると思われるかもしれなくて嫌な気持ちはあるが、それでも自分の気持ちを理解してもらいたい気持ちの方が強かった。
「なんかさ、二人の弁当っていつも手作りじゃん? 俺の弁当いつも冷凍食品しか入ってないからちょっと羨ましいなって」
上本と水島はゆっくりと顔を見合わせて少し固まったかと思うと、ぷっと吹き出した。
「あはは! んだよ、そんなことで落ち込んでたん?」
「むしろ冷凍食品が羨ましいわ。俺のおかずいつも生焼けだったり逆に焦げてたりするしさ。味も薄かったりしょっぱかったりで、げんなりすんだよねえ」
「わかるわー」
うんうんと頷き合う二人を見て、土田は眉尻を下げた。
「そうかなあ。冷凍食品っていつも同じ味だし飽きちゃうよ」
笑顔の上本が土田の背中に手を回してバンバンと叩く。
「そんなこと気にするようなものじゃないって!」
上本が自分を元気付けようとしている気持ちは伝わっていたが、それでも土田の眉尻が上がることはなかった。
鬱々とした気持ちを抱えたまま、土田は帰宅した。
「ただいま」
玄関で靴を脱ぎ、床にカバンを置く。
「おかえり」
窓から差し込む夕日に横顔を照らされながら、流し台で洗い物をしている土田の母親。
土田は母親に顔を向けることなく、いそいそとカバンから弁当箱を取り出し母親に手渡した。
「おいしかった?」
土田は思わず両手を握りしめてしまう。いったいどういうつもりで聞いているのだろう。
「自分で作ったわけじゃないのに何で聞くの?」
言い切ってすぐに踵を返して食卓へと向かう土田。背後で悲しそうな表情を浮かべている母親に気付かない。
食卓には冷凍食品に加え、即席の味噌汁に料理の素で作った麻婆豆腐、お惣菜の揚げ物。
食べなくても味が分かるラインナップに土田はうんざりする。
将来子どもができたらこんな思いをさせたくないと考えた土田は、社会に出て一人暮らしを始めたら全部自炊すると心に誓った。
あれから月日は流れ、高校3年間のアルバイトで貯めたお金を注ぎ込んで大学を卒業した土田は、新社会人として新たな門出を迎えようとしていた。
両親とはあれからも多少なりの感情のもつれはあったが、心身ともに成長して割り切れない感情を箱に詰めて一旦仕舞っておくことを覚えた土田は、母親とともに新生活に必要な品物を買いに来ていた。
一通り思いつく家電や消耗品を購入後、キッチン用品売り場へ足を運ぶ。
調理道具を一式買おうとする土田に「ちゃんと使うの?」と怪訝な顔をして母は言ったが「俺はお母さんと違って毎日自炊するから」と返した。
土田の言葉に母親は苦笑いを浮かべる。土田の脳裏にかつて友人に対して苦笑いを浮かべた自分の姿がよぎった。
土田はなんだかいたたまれない気持ちになって、すぐ側にあった全く興味のないフライ返しを手に取り、柄に取り付けられたバーコードタグをしげしげと眺めた。
一人暮らし初日。朝早く起きて土田は料理に取りかかった。
料理本を見ながら今から食べる朝ごはんと、昼食用の弁当の具を同時に作っていく。
四苦八苦しながら何とか完成させられたものの、流し台に溜まった調理器具を見て土田は肩を落とした。
それからも自分を律して自炊を続けるが、仕事でヘトヘトになった後の料理はとてつもなくしんどく、弁当を作るために早く起きるせいで睡眠時間も確保できない。
土田はまな板の上に乗せたばかりのキャベツを冷蔵庫に仕舞う。流し台にまな板を投げ入れ、家から飛び出した。
スーパーに駆け込み、決して買うまいとしていた冷凍食品と料理の素を買い始める土田。
胸の中で燻る黒い煙を抱えてレジに並ぶ。頭に様々な考えが行き交う。
日頃の仕事と並行して家事を何年もこなしてきた母親は、いったいどんな心境で毎日を過ごしていたのだろうか。
”自分で作ったわけじゃないのに何で聞くの?”
”俺はお母さんと違って毎日自炊するから。”
手前勝手な理屈で感情の剣を母に突き刺してきた自分を殺してやりたくなる。
かつて母は自分に”おいしかった?”と聞いた。あれは母親なりの救難信号だったのかもしれない。
人は完璧じゃない。こうしたいと心では思っていても全てをこなすことは至難の技。あれだけ忌み嫌っていた冷凍食品をカゴ一杯に詰めてレジに並んでいる土田が良い例だ。
けれどあの時、素直に手作り弁当が食べたいと伝えていられたならば結果は変わっていたかもしれない。
人は完璧じゃないが、誰かのためになら頑張れるものだ。母親はあの時、土田の口からハッキリと言われたかったのかもしれない。
土田は俯き、目を閉じる。
今回の件で母がどれだけ大変だったか痛感する。母に心のないことを言った件について直接謝ろうと、週末に帰省することを心に決めた。
夕日が母親の横顔を照らす。かつての母よりも目尻の笑いシワが増えていて、時の流れを感じさせる。
「それで菊池さんったらアザラシのお腹に顔面から突っ込んじゃってね」
「へえー」
心に決めた通り、週末に帰省した土田であったがなかなか母に謝罪できず時間だけが過ぎてしまっていた。午前に到着したにも関わらず、あっという間に夜だ。
母がよいしょと立ち上がり、土田へ優しく笑いかける。
「ご飯食べて帰る?」
ゆっくりと頷く土田を見てから母は台所に向かった。
間もなくして、この家でかつて感じたことのある懐かしい匂いが漂ってきた。
母が食卓へ運んできたのは紛うこと無き手料理だった。不均一な焦げ目とタレの量。綺麗に成形されていない具。作りたて特有の”温かい”湯気。
「手の込んだ料理にしたくって。それも沢山。だから昨日から仕込みだけしておいたの。ちゃんと作りたてよ」
土田の前にホクホクのご飯が盛られたお茶碗と、この家で昔から使っていた土田用の箸が前に置かれる。
母が土田の顔を覗き込むように寂しく笑う。
「忙しくてなかなか美味しいもの食べさせられなくてごめんね」
土田は両目から溢れる涙をおさえることが出来なかった。
「ごめん……母さん……ほんとごめん」
母は肩を振るわせて俯く土田をそっと優しく抱きしめた。
それから他愛のない話に花を咲かせながら、美味しい手料理で土田は心を満たした。いや、土田だけではない。母親も土田と同じ以上に心を満たしていた。
月が空のてっぺんに登った頃。土田は食事を終えて自宅に帰ることにした。
靴を履き、玄関の扉を開く。
「気をつけてね」
背後から聞こえた母の声。土田は憑きものが取れたかのようなさっぱりとした顔で振り返る。
「また来るよ」
脳裏によぎる小学生だった頃の自分と、まだ若かった頃の母親の姿。
いってらっしゃい。
行ってきます。
玄関をパタリと閉じ、月を見上げながら駅を目指す。
きっと母親も、自分と同じ光景が思い浮かんでいたろうと土田は信じて小さく笑った。
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