おばけユダの木の下で

 火にかけた大釜の蓋を取ると、地下室に香草の匂いが漂った。じめじめした鼻につく臭いはあっという間に華やかな香りへと上書きされる。少年は白い煙を手で払いながら大釜を覗き込む。大釜の中では澄んだ緑色の液体がコポコポと音を立てながら大きい泡を吐き出している。

 

 少年は木製のお玉で自身の制服とローブに中身が飛ばないように気をつけながら、ゆっくりとかき混ぜていく。時折手を止めてぶつぶつ呟きながら粉末状の植物の根や乾燥した木の実を加え、最後に白い花の蕾を入れて蓋を閉じた。


 続いて大釜から少し離れた所の椅子に腰をかけ、机に向かってノートにペンを走らせる。


 ひと段落ついて背中を伸ばしていると、キイイ……と扉を開ける甲高い音が聞こえてきた。少年は露骨に嫌そうな顔をしてペンを置き振り返る。そこにはローブを着た一人の少女が立っていた。少年はその姿を確認するや否や溜息をついた。


「また、君か」

「またってなによ? ひどくない?」


 少女はエナンをポールハンガーにかけて大釜に近づく。マフラーを手で押さえながら様々な角度から大釜を眺めた。


「開けないでくれよ。また作り直さないといけなくなるから」

「触らないわよ。……これって今日授業でやったやつ? 魔力の栄養薬でしょ」


 少女は本棚のすぐそばの椅子を大釜の近くまで持っていって座った。


「蓋取らずによく分かったね」

「匂いで分かるわ」

「他にも似た匂いの魔法薬、いっぱいあると思うけど」

「効果は絶大だって先生が言ってたね」

「その効果とやらは僕には確認のしようがないけどね」


 少年も椅子を大釜の端まで運ぶ。

 それから二人は大釜の火に当たりながら他愛もない話をした。話とは言っても少女が一方的に喋り、少年は大釜の様子を見ながら「ああ」とか「うん」とか相槌を打つだけだった。これがこの地下室での日常であった。


 少年は少女を一瞥する。可憐な笑顔を浮かべ楽しそうに話す少女は本当に可愛らしかった。そしてこう考えるのであった。



 彼女にこんな研究室は似つかわしくないと。



 中央から下がった電球の灯りは弱々しく、一つしかないので中央以外は真っ暗である。勿論窓もないため空気が重く、隅にカビが繁殖し、埃が薄っすら積もっている。そんな暗くて汚い地下室に、部屋中を真っ白に照らしてしまうほど可愛い彼女はここへ来るべきではないと思った。


 いや、理由はそれだけではない。先程、「彼女にこんな研究室は似つかわしくない」と述べた。少年は自身と彼女の関係に対しても同じことが言えると思った。自分と彼女はあまりにも不釣り合いのような気がしてならないのである。


 社交的で周りに人が集まる彼女、内向的で周りに人なんかいない自分。

 明るく愛嬌のある彼女、暗く無愛想な自分。


 しかし、少年がこの日常が嫌だとは決して思わなかった。多少の妬みはあるものの、少女が毎日のように顔を出してくれることに喜びを感じている。少年はこの時間が好きだった。


 ※ ※ ※


 外はすっかり気温が高くなり、蒸し暑い日々が続いた。少年は日干しした薬草を籠に詰めて研究室を訪れた。扉からもうもうと熱気が立ち込め、カビ臭さも相まって不快な気分になる。


 それでも少年は鞄から大量のドッグイアがついた分厚い本を取り出して、必要な物を確認しながら魔法薬生成の準備に取り掛かった。薬草、鉱石、小動物の干物といった材料の分量を丁寧に量って大釜に入れていく。最後に水を加えて火にかけた。


 時折ハンカチで額を拭いながら本を読み進める。しかし5分も経たないうちに集中が切れてしまった。もう一度読もうと試みたが、てんで駄目である。少年は本から目を逸らしお玉で大釜をかき混ぜながら薬の様子を眺めた。


 薬が煮立ってきた頃、キイイと扉が開いた。少女がやってきたのである。


「……暑すぎでしょ、ここ」


 彼女は不満げにそう言うとぼそぼそと呪文を唱えた。彼女を中心に風が渦を巻く。炎がゆらゆら踊り、少年の持つ本のページが中途半端にめくれあがる。冷たく気持ちの良い風が室内を巡り、不快な熱気を室外へと追いやっていく。


「今魔法を使うのはやめてくれるかい?」


 少年は呟くように静かに言った。すると、すっと風が止み次第に室温が上がる。


「迷惑だったかな? ごめんね」


 少女は顔の前で両手を合わせた。


「いや、そういうわけじゃ……ええと、ただ、薬が煮立ってきた、から……」


 少年は勢いよく顔を上げて弁明をしようとしたが、うまく言えずにゆっくり俯いて本に視線を移した。語調も一言目は多少なりとも強く言ったが、以降はゴニョニョと弱々しいものになってしまった。その様子を見た少女は「ううん、いいよ」と笑いかけて大釜を挟んで少年の前に椅子を持ってきた。


 それからいつも通り二人で他愛もない会話をした。少女は相変わらず普段の調子で話をする。しかし、少年はどことなく歯切れの悪い相槌をした。声も小さくなっていき、とうとう何も言わなくなってしまった。


「そろそろ私達卒業だね。卒業試験、頑張らないと」


 少女は何気なくそう言った。その言葉に少年はピタリと手を止める。グツグツと煮える大釜の音だけが響く。しばらく経ってお玉を動かして「そうだね」と弱々しく返事をした。


「……ねえ、どうしたの? なにか私悪いこと言った?」


 少女はようやく少年の異変に気がついた。緩く眉間に皺を寄せ優しい顔で少年の顔を覗き込む。少年は始めこそ本から目を離さずに無言を貫いていたが、熱心に心配をする少女に屈してしまい、彼女と目を合わせて口を開いた。


「卒業試験が不安なんだ。僕には魔力がほとんどなくて成績が壊滅的だ」

「でも魔法薬学は学年1位じゃん」

「それは魔力を必要としないからだよ。それに、こうやって黙々と作業をするのが性に合っている……んだと思う。まあ、そのおかげで学年1位になれてるわけだし、留年も何とか免れているわけだけど。でも逆に言えばこれしか才能がない。こんな状態で試験に臨むなんて、不安しかないだろ?」


 少年は言い終わると自嘲気味に笑う。「自分のことが嫌になるよ」と続けて言って大釜をかき混ぜる。

 少女は表情を一つ変えずに黙って聞いていた。


「分かるよ」


 少年が話し終えたのを確認すると優しく微笑んで声をかけた。

 しかし、少年は彼女の態度に苛立ちを覚えた。成績の悪い自分とは対照に彼女は魔法薬学を除いて全科目1位である。唯一魔法薬学は1位ではないが、毎回2位である。

 

 自分とは違う世界の人間なのは明確なのに、適当に流されているような気持ちになってしまったのである。少年はついに我慢が出来なくなって「わかるはずない」と声を荒げてしまった。


 微笑んでいた少女は驚いて弧状になった瞳を丸くして少し身を引いた。そういう仕草も少年をさらに苛立たせる要因となった。少年には煽りのように見えたのである。少年は立ち上がり、少女を見下ろしてこう言葉を続けた。


「ずっと憎かった。迷惑だった」


 少女は少年の顔をまっすぐに見つめていたが、やがて悲しげに目を伏せた。そして静かに微笑むと無言で研究室を後にした。我に返った少年は慌てて少女を呼び止めた。


 しかし、少女が戻ってくることはなかった。言うまでもなく少年はそんなことは全く思っていなかったのである。少年はその場に立ち尽くした。火にかけた薬は灰汁で満たされて吹きこぼれていた。


 ※ ※ ※


 それから卒業試験まで少年にとって苦痛な日々となった。学校で会っても目を逸らし、毎日訪れていた研究室にも姿を現さない。少年は卒業までこのままなのだろうかと思った。話すらすることもなく二度と会えなくなるのだろうかと思った。


 しかし、少女に話しかける勇気はなかった。


 卒業試験当日の朝となった。6時を告げる鳩時計が鳴り響く。少年はその音にまぎれて窓を叩く音がしているのに気がついた。音のする方に目をやると一匹の白いフクロウがくちばしで窓をこんこんと叩いていた。


 脚にはくるくると巻かれた手紙が括りつけられている。唯一の連絡手段、フクロウ便である。少年はフクロウを室内に入れて手紙を受け取った。


 送り主は少女だった。手紙には一言こう書いてあった。



 試験の前に謝りたいのでおばけユダの木の下で会いたい。




 少年は罪悪感に苛まれると同時に感謝の気持ちが湧いた。例の一件に関して少女は一切悪くないというのに謝罪を申し出てくれたからである。一雫の涙が頬を濡らす。主人公はすぐに返事を書いてフクロウを送り出した。その後すぐに登校する準備をしておばけユダの木に急いだ。


 おばけユダの木とは通学路の途中にある一年中花が咲くユダの木である。その大きさといい佇まいといい、まるで羽を広げて天に向かって咆哮を上げる紫色のドラゴンのようであった。少年はその大きな木の下で少女が来るのを待った。


 少女はなかなか現れなかった。

 もしかしてやっぱり会うのが嫌になってしまったのでは? という不安が少年の脳裏によぎった。いや、もしかしたら逆側で待っているのかもしれないとおばけユダの木の周りを一周歩いてみた。しかし、彼女はいなかった。考えたくもない想像だけが頭の中いっぱいに広がる。


 だが、彼女に謝るチャンスはおそらく今日しかない。彼女の家も知らないからこちらから謝りに行くこともできない。少年は途方に暮れながらも、まだ焦る時間ではない。余裕で学校に間に合うじゃないかと言い聞かせ、彼女を信じて待った。


 しかし、いくら待っても少女は来ない。卒業試験の時間が刻一刻と迫る。少年は懐中時計を開いたり閉じたりしてひたすら少女を待った。


 そろそろ学校に行った方がいいだろうかと少年はさすがに悩んだ。少女が約束を忘れているとは思えないし、彼女も試験を受けるはずだから遅刻するような時間には来ないだろうと思った。自分の人生と天秤にかけて考えた結果、結局少女をただ待つことにした。


 いよいよ時間がなくなってきた。少年は最後におばけユダの木を一周する。案の定少女はいない。続いて懐中時計を確認する。走っていけば何とか間に合う時間である。事件や事故に巻き込まれてるなら一刻も早く先生に伝えなければと駆け出す。


 しかし、ドンと思い切り何かにぶつかった。少年は驚いて辺りを見渡す。そこに障害になるようなものは何もなかった。今度はゆっくり前へ手を伸ばす。そこには確かに見えない壁が存在していた。


 結界だ。少年はすぐにピンと来た。この結界はおばけユダの木を囲うように張られていることも理解した。しかし、かといって魔力のない少年には結界を解く事が出来なかった。「誰か!! 誰か助けてください!!」と腹から声を出しながら見えない壁を強く叩いた。しかし、その周りには誰もいない。


 遠くから試験の始まりを告げる鐘の音が聞こえた。


 ※ ※ ※


 すっかり日が暮れてしまった。少年はなす術がなく木の下でぼうっと立っていた。

 草を踏み分ける音が聞こえる。少年がそこにぼんやりとした視線を向けた。そこには少女がいつもの笑顔で立っていた。


「やっと全科目1位になれた」


 美少女の顔がニヤリと歪んだ。

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