20230304
村上春樹『村上ラヂオ』を読んでいたら、人間の本質が変わりうるものか変わらないものかという話題について触れられていたので僕自身このことについて考えてみたくなった。例えばこの僕自身は変わっただろうか……人からは僕は変わらない人間だと言われることがある。現に僕はずっと独身を貫いてきたし、一貫して昔から本を読んで過ごしてきた。そういうところは10年前から、いや20年前からも変わっていないと言える。1人もガールフレンドを作らない暮らしというのは根源的に寂しいものではあるけれど、その分気楽な人生とも言えるので僕はそれを楽しんでいる。ただ、それでも10年前と比べて自分は変わったところはあるとも思っている。それがどこなのか考えている。
10年前、僕はまだ酒に溺れた生活を過ごしてきた。酒に溺れた事情はいろいろあるのだけれど、ひと口で言えば自分自身が嫌で嫌で仕方がなくてその自分を殺したかったからなのだろうと思う。緩慢な自殺のために呑む、というセルジュ・ゲンズブール的な身振り。その他にも10年前は今のようにジャズを聴いたりせずにもっと暗いレディオヘッドみたいな音楽を聴いて過ごしていた。もっと他にも10年前と違った点はあるかもしれないけれど、何せ酒に呑まれていた時期のことだから記憶が覚束ない。そう思えば自分は10年間で長足の進歩を遂げたとも言えるのかもしれないな、と思う。今のように英語を学ぶことも始めていなかったし、日記なんてぜんぜん書いていなかった。
ただ、そうした変化を遂げた自分自身の内面はどうかというとこれがまたややこしくなる。僕の内面的なものはそうした生活面での大きな変化にも関わらず、今と違ったものになったという実感が湧いてこないのだ。ずっと自分は酒に溺れていたあの日々、死にたい死にたいと願って過ごしていた日々とそう変わらないまま歳を取って今に至ったようなそんな気がする。これからもそれは変わらないのだろう。いきなり別人になるなんてことは無理だ。僕は僕なりの成長を、少しずつ坂道を上っていくようにして辿っていくしかない。そんなことを考えながら僕は『村上ラヂオ』を読む。そうすれば僕もまた村上春樹との出会いのような劇的な事件と遭遇する日が来るかもしれない。
変わった、変わらない……小説を書いていた頃、僕はその作業を通して自分を変化させたいと思っていた。変わらない自分自身を誇るのではなく、その自分自身をかなぐり捨てたいと思って試行錯誤したものだ。今は僕はこの僕自身を誇れる。もちろん欠点は山ほどある。美徳なんてないかもしれない。でも、僕はそんな不完全な自分自身に殉じて、その自分自身を貫くことを(岡本太郎的に、あるいは坂口安吾的に)決意して生きている。そうした腹の括り方こそがこの10年で学べたことなのかもしれない。そうして、今日も僕は仕事をこなしてグループホームに戻り、部屋でソニー・ロリンズを聴く。明日は休みだ。明日天気だったら、どこか遠くに出かけてみるのも悪くはない。
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