20230305
今日、村上春樹『村上ラヂオ』を読んでいてふと(どうしてそういうことを思いついたかわからないのだけど)「自分は環境に染まりやすいというか、たとえ適応できないとしても適応する努力はしてみる人間なのかもしれないな」と思った。つまり、一方の極に「環境が合わないなら環境を変える」人間がいてもう一方に「環境が合わないなら環境に合わせる」人間がいる。ならば僕は後者だ……と思ったのだった。喩えるならシェフがとっておきの料理を作ろうとして、何かのはずみで揃えたい食材が手に入らないとする。ならばあるシェフは料理を作る日を改めてしまうかもしれない。そして別のシェフは、とりあえずどこからでも手に入る材料をかき集めて(不十分な出来かもしれないにしろ)料理を作るかもしれない。ならば自分は後者なのかな、と思ったのだ。
これを考えると僕自身の来歴についても考えてしまう。僕は実は今の仕事を20年以上続けている。でも、僕はここまで自分が長く仕事を続けるとは思わなかった。続きうるとも思えなかった。仕事の内容をつまびらかにすることはできないが、肉体労働をベースにした地味な仕事なので大学で学んだことはぜんぜん生きてこない。こんな仕事をやるために頑張ってきたのかなあ……と思わなくもないのだけれどそれでも習慣というものは恐ろしい。もしくは僕の頭ではなく身体がそうした環境に適応してしまったせいか、僕は職場に行くと身体が興奮してくるのを感じるし頭もさっと仕事モードに切り替わる。顔色ももしかしたら変わっているかもしれない。環境に馴染んだと言えるのかもしれないな、と思う。
だが、そうした「環境に合わせる」ことはいいことばかりではない。僕の悪いところはそうして「環境に合わせる」ことで自分の中の大事なものまで譲り渡しかねないことだ。例えば僕がもう少し生まれてくるのが早かったら、もしかしたら僕は他人にそそのかされるままオウム真理教などのカルトに入っていたかもしれないと思うこともある。あるいは僕は一度リアルに極左の団体に入ったこともある(ただ、さすがに「おかしい」と思ったこともあって抜けてしまった)。世が世ならナチス・ドイツに希望を見出し彼らの思想を支持していた可能性だってある。いずれも「良心」が倫理に反する最悪の結果を生み出しうるという事例だ。僕の中の倫理観がそうした「良心」の命令に屈しないという保証はない。
そんなことを思うと、自分の心のバランスを取るのは実に難しいと思う。僕は結局そんなに強い人間ではないので、しばしば何者か/何物かに屈することだってある。だが「面従腹背」で、心の中ではそうした屈してしまったことを覚えていたいとも思う。ごまめの歯ぎしりというか、弱い人間である僕だってそうしたプライド/矜持は持っていたいと思うからだ。そう考えると僕がこういう文章を書くのはオーウェル『1984年』の主人公が日記をつけたのと同じ意味があるのかもしれない。書くことで自分の中の何かを確かめ、自分の中の「良心」と倫理観を戦わせる。もし無理がある戦いなら僕はスキゾ・キッズ(浅田彰)的にスタコラサッサと逃げることも考える。でも、それは成功しているのだろうか?
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