20230303
イラク戦争が起こったのが今から20年前なのか、という軽い驚きを僕は感じている。というのはこないだ片岡義男『影の外に出る』という、まさにそのイラク戦争が起きた時期の時評集を買ったからだ。今から20年前の2003年、僕は20代の終わりを迎えていた。当時Twitterがあったかどうかはわからないのだが、あったとしたら僕はかなりヘビーユーザーだったのではないかと思う。あの頃は僕はネットに自己の存在理由を預けていたと言ってもいいくらいで、とにかく名を成したいとか有名になりたいとか(当時はさすがにインフルエンサーだとかアルファツイッタラーだとかいう言葉はなかったと思うのだけれど)、そんなことばかり考えて暮らしていたからだ。あるいはそれは、確実に人を堕落させる飲み物であるお酒とつき合って生きていたからかもしれない。
あの当時から、僕の考え方はリベラルというか「左」の方向に傾いていたと思う。と言えば聞こえはいいが、ある意味ではしばしば揶揄される「お花畑」「サヨク」の側面が強かったかもしれない。日本という国の歴史/来歴を知らず、したがってアメリカと日本との複雑な関係もアジア諸国での日本の位置も知らないままに「反戦平和こそポストモダンだ」とわけのわからないことを口走っていた。もっとも「じゃ今は何を信じるんだ」と言われれば答えに困ってしまう。まったく意見の異なる相手を説得するか、もしくはそうさせられなくとも相手の誠意に応じられるだけの暫定的な答えを用意できるだろうか? そう考えると自分は子どもじみた「わかりません」という答えに戻ってしまったのかな、と思わなくもない。
政治の話をしたいからこんなことを書いているわけではない。僕はこの20年でいったい何を学んだだろう、どう成長したのだろうというのが主題だ(退歩ではなく成長した、と仮定すればの話だが)。池澤夏樹や辺見庸、外岡秀俊の仕事に触れて自分なりに意見を磨いていた時期から20年。その間いろんなことがあった。僕の中の大きな変化といえば酒を止めてしまったこと、英語を再び学び始めたこと、発達障害者であることを知ったこと、などがあるかもしれない。それらは決してバラ色の思い出ではない。もう二度と酒を呑めないことも発達障害者として生きなければならないこともそれなりにシビアな、つらいことではある。だが、そのつらさを呑み込むしかない。そう思って生きている……。
そして今、僕は再び片岡義男のイラク戦争にまつわる文章を読もうとしている。もう時代はすっかり変わってしまったが、今から20年前を振り返って何が変わって何が変わらないのか確かめることも決して無駄ではないだろう。そして、これから5年後、10年後に自分がどうなっているかということを考えてみる。でもそれは到底無理だ。明日のことだってわからないのだから。明日になれば僕は片岡義男なんて読むのを止めてまったく別のことを始めているかもしれない。この文章にしたって僕はもっと別のたくらみがあって始めたことなのだけれど、結局日記のような心情吐露のようなよくわからないものになってしまった。これからどう書いていけばいいのか、僕はよくわかっていない。
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