20230302

今日、僕は村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』を読んだ。大学生の頃、阪神大震災とオウム真理教事件に揺れた時期の後になって彼が満を持して……だったかどうかはわからないけれど、ともあれ震災をモチーフに書いた短編を集められたこの短編集が刊行されて、僕は買って読んだ記憶がある。その時はただそのストーリーの運びに感動したが、それ以上の感興が湧かなかった。今日改めて読み返して、自分自身はそうした若かった日々から遠くまで歩いてしまったことを改めて思った。遠くまで歩いてここまで来て、そこから過去のあの日々を振り返ってみると当時見えなかったものが見えてくる。それを人は成長と呼ぶのだろう。だが、若かった頃のような闇雲な読書はもうできないことも確かだ。


阪神大震災という未曾有の震災を、僕は東京の土地で知った。僕は当時早稲田の学生で、つまりは僕が生まれ育った宍粟市の土地から遠く離れた場所で知ったのだった。『神の子どもたちはみな踊る』を読んでいるとそうした「遠く離れた場所」で出来事を味わうことが持ちうる辛さというのが伝わってくると思う。テレビ越しに震災の出来事を見る。その時、世界は2つに分断される。にわかには信じられないような状況に見舞われた、非日常的な事態が露呈した場所としての「現場」とその「現場」から遠く離れた場所に位置する「ここ」である。「現場」と「ここ」は同じ世界の下でつながっているわけだが、同時に僕はそれらの彼我の間にある断絶をも意識させられざるを得ない。「現場」の非日常と「ここ」の日常の間の断絶として。


村上春樹の短編群はそうした断絶を巧みにすくい取っていると感じる。彼は生々しい「現場」の現実を書こうとしない。だが、その「現場」の惨事は確実に次々と露呈し僕にまざまざと「世界」の恐ろしさを見せる。そうした「現場」の恐ろしさと、にもかかわらず何も代わり映えしない「ここ」の平穏さ……そんな不条理を春樹は描いており、一見すると生暖かいヒューマン・ドラマのようでありながら実に深刻な、断絶がもたらすおぞましさを描いているように思われる。僕自身、あの震災の日々を思い出してしまった。当時、たくさんの学生がボランティアに行ったと聞く。もちろん慈善の精神はあっただろうが、彼らはもしかしたらそうした断絶に彼らなりに真摯に対峙するためにコミットメントを選んだのではないだろうか。


そしてあれから何十年の時が流れた。僕が生活している世界においてそうした「現場」とされる場所は数多く誕生し続けており、「ここ」の平穏さが生み出すギャップも膨らみ続けているように思われる。ウクライナでの戦争やトルコでの地震、そして「ここ」での平和な空気。僕自身もそんなに強い人間ではないので、時に「現場」と「ここ」の断絶に胸が痛む思いがする。そんな時はどうしたらいいのだろう。吉田健一を引用した小西康陽に倣って「戦争に反対する唯一の手段は各自の生活を美しくしてそれに執着することである」と構えるべきか。つまり、「ここ」の平穏さをより美しくして「現場」の不条理に対抗すること。それも1つの手かもしれない。僕はこれについてもっと深く考える必要がある。

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