20230228

この文章を僕はイオンのフードコートで書いている。音楽はポール・ウェラーの『ワイルド・ウッド』。今日は休みなので、ゆっくりくつろぎたいと思っている。晴れた日、さしあたって予定はなく……人から見ればぜいたくな悩みというものかもしれないけれど、時折僕はこの人生とは何なのだろうと考える。今年で僕は48になるのだけれど、この歳まで生きてしまい恥ずかしながら自分はもう「上がった」かなと思う。家族はなく、子どももなく、特に偉くなったわけでもなく、守るべきものも築かずに生きてきたのだけれどこれからもそんな人生を送るのかなと思う。ああ、何だったんだろう自分の人生は……そう思うと過去に僕はさんざん「この人生は何なのだろう」「生まれてきた意味はあるのだろうか」と考えたことを思い出す。結局その答えの片鱗さえもつかめないまま、いつも「まあ、楽しければいい」「これからのことはこれから考えよう」と思って、そして生きてきた。今まで……そしてこれからも。


いや、誰だってこうした問いにぶつかるのろう。そしてその問いに答えはあるのかどうかわからない。自分がそれを「これが答えだ」と思ったらそれが答えなのだろう(と、同語反復/トートロジーに陥る)。僕は人よりしつこいのだ。きれいに言えばそれは「自分をごまかせない」ということでもあるだろうし、あるいは単にあきらめが悪いということなのかもしれない。ならば僕の中で今まで答えが見つかったという感覚がない以上、これから答えを見出す可能性に賭けるしかないのだろうか。答え……自分の人生は何なのだろう、という堂々めぐりというか千日手を打破する答え。それは結局のところそれでもなおこの人生を生きて、決定的な事柄が起こるのを「待つ」こと、自分を開いて生きて外部の介入を受け容れることを意味するのかもしれない。「窓は開けておくんだよ いい声聞こえそうさ」(フィッシュマンズ「ナイトクルージング」)……。


戯れに、外にあるものに目を向ける。リルケ『マルテの手記』の主人公のように、僕は見ることを学ばなければならないのかもしれない。耳を澄ませて例えばポール・ウェラーの歌声を聴き取り、外に広がる晴れ渡った午前の空気に満ちた風景を見る。今日もいい天気だ。春が確実にそこまで来ていることを知る。マスクを外してもいい春になるのだろうか。ならば花見だってできるかもしれない。今年の桜はリアルなものを見られる、と考える。桜が美しい映画というと、僕は北野武や是枝裕和の珠玉の逸品を思い返してしまう(北野武は記憶違いかもしれないけれど)。再び映画に触れることもいい経験になるかもしれない、と思う……ここまで考えたことを僕はこうしてロジクールのキーボードで書き留める。身体が暖かくなってくるのを感じる。僕にとって書くことは興奮する作業であり、一種のフィジカルな経験だ。


ああ、こうした朝の爽やかな時間、自分の中が空っぽの状態のまま迎える時間を僕は過去にさんざん酒に溺れて過ごしてきてしまったのだった。アンニュイな時間、退屈な時間をつぶすための方法を酒を呑むということしか思いつかなかった自分はあの頃、浴びるように朝から酒を呑み、泥酔した頭でやがて来るべき栄光の日々の妄想に溺れた。今はこんな環境で腐っている自分だけれど、いずれビッグになってやると……何を勘違いしていたのだろう。人と比べて自分がいかに偉くなったか確かめることも生きる上では大事なことだろう。それを僕は否定しない。だけれど、結局僕は自分の好きなことに没入して生きている間が幸せであって、そうなると人との比較もさほど興味を感じなくなる……今日もロジクールのキーボードのタッチに誘われて、まとまりのないアモルファスな文章を綴ってしまった。

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