絵画の天使

「はあ~……明日は日本に帰るのかぁ……」


茜は残念そうにため息をついた。

それは別に彼女が今食べているホテルの朝ご飯がおいしくなかったわけでは無い。

その理由とは、変異生物である巨大ミミズの調査及び捕獲をしに間中最中と複数の研究員と共にはるばるカナダまでやって来た。

調査とその捕獲の予定は三日間はあったが初日で巨大ミミズの捕獲に成功していた。

その後は自由時間として最中たちと観光する気でいたのだが——。


『えー!最中ちゃんたち行っちゃうのかー……』

『まー、仕方無いよ。だってあのミミズが次いつ暴れるか分からないしさ』


——変異生物である巨大ミミズを人目のつかない別の場所へと移動させるのに、最中たちは付き添いとして行ってしまったのだ。

しかしそれも仕方のない事なのかもしれない。

あの巨大ミミズは飢餓状態で凶暴だったのにも拘わらず突然大人しくなったから、また急におかしくなる可能性だってあったからだ。

最中たちはミミズを大人しくさせたのは茜ではないかと推測していた。

その考えに至った理由は、あのミミズは茜のいう事だけは素直に聞いていたからだ。

——そして茜はこの事を知らないし、自分が大人しくさせたなんて考えてもいなかった。


「そんなに落ち込まなくてもいいじゃないか。帰ったら友達と遊んだりするでしょ?それに、サファリパークに行く約束だってあるしさ」


彼女の正面に座って同じ朝食を食べている一人の男性がいた。彼は茜からおじさんと呼ばれている研究所の職員の一人で、最中たちと入れ替わりで昨日来てくれた。


「でもせっかく海外まで来たのに、どこも行けないのはつまんないよ」


彼女は昨日、ホテルの外に出られなかったため、部屋でテレビを見るかホテルの中にある売店を見る事くらいしかする事が無かったのだが、今日はおじさんがいるから、どこかへ出かけられないかと期待していた。


「そうだなあ……確かロビーにこの辺の観光情報が載ってる冊子があったから、それ持ってくるよ」


彼は食べ終わった食器を返却口へと持って行ったあと、食堂を出てホテルのロビーへと向かい、すぐに戻って来た。


「とりあえずこの辺りを案内してるやつがこれだけあったよ」

「へー。近くに色んな所があるんだね」


彼が持ってきたのは何枚かのチラシと冊子だけ。他にも周辺の案内図などがあったようだが、どれも英語の文章ばかりだったので茜が読めないだろうと判断した結果、写真が多めに掲載されていたものを持ってきたらしい。


「あっ遊園地だって。おじさん、ここ行ける?」

「ここかい?行けない事は無いけど、移動時間が長くなるかな」

「ふーん……じゃあいいや。ここはどう?この博物館っぽいとこ」

「えっと、この博物館って人気らしくて予約が必要みたい」

「えー……結局どこにも行けないじゃん」


彼女は数枚のチラシを見たが、どれも行けそうにない事が分かり、見る気をなくしたのか食べ終わった食器を持って行った。

その間も彼は持ってきた冊子に目を通していたが、彼女が戻ってくるまでに今日行けそうなところは見つけられなかった。


「意外と行けるとこ少ないんだね……」

「仕方ないよ。明日帰るってなると行けるのは近場くらいだし」


席に戻って来た茜はよっぽど行きたかったのか遊園地と博物館のチラシを見ながらため息をついた。

その様子を見た彼は申し訳なさそうにしながら、冊子をめくっていく。すると——。


「お、ここなら行けそうだけど、どうかな?」

「本当にそんな所あるの……?」

「ほら、これ見てよ」


彼がそう言いながら茜に見せたのは美術館の紹介をしているページ。そこに何が書いてあるのかは彼女には分からなかったが、そこに掲載されていた写真で美術館だという事が分かった。


「ここって美術館?……じゃあ博物館と同じで予約しなきゃダメなんじゃないの?」

「それが予約とかしなくても大丈夫みたいなんだ。だからこの後行こうと思えばすぐに行けるよ。もちろん君が行く気ならだけどね」

「ここ以外行けるとこなさそうだし、行ってみようかな」


彼女たちが今居るホテルは都心部にあるため、周辺の道路は車が非常に多く、渋滞する事もしばしば。

そのため近くであったとしても車が必要なら時間がかかってしまうのだ。

しかし、その美術館はホテルから歩いて十数分のところにあったため、車で移動する必要が無かった。


「わー。すごい渋滞してるよ」

「これじゃ車で行くようなところだと無理だったかもしれないね」

「これから行く美術館が歩いて行けるところでほんとによかったー。……そういえば結構歩いたけど、まだ美術館にはつかないの?」

「そろそろ着くはずだよ。——ほら多分あの建物じゃないかな」

「あそこかー!速く行かないと時間無くなっちゃうよ!」

「そんなに急がなくても時間は沢山あるって!」


彼が指をさした先にあったのはとても大きな建物。

目的地がもう目の前にあると分かった途端、待ちきれなかったのか茜は走り出した。

おじさんも慌てて後を追う。


「うわー!すごい大きい建物なんだね。ここ全部が美術館なのかな?」

「うん、そうみたいだね。まさかこんなに大きいとは思わなかったな……」

「でも全然人が入ってかないね」

「普段の様子を知らないから何とも言えないけど、」混んでるよりはいいと思うよ。さ、早く入ろう」

「……あっ、待ってよおじさん!」


建物の玄関扉の横にあった看板を見る限り、どうやらその建物全体が美術館のようだ。

大きさの割に全然人が入って行かない事に、この美術館は大丈夫かという心配が少しばかり頭をよぎったが、おじさんはあまり気にしていないらしく先に美術館へと入って行った。

それを追うように茜も中へと入る。


「はいこれが君のチケット」

「え、もう買ったの?って受付の人以外誰もいないんだね……」

「中にはお客さんいるみたいだから大丈夫だって」


受付には誰も並んでおらず、おじさんが既にチケットを買っていたので、それを受け取り館内へと入場する。


「へー、結構色んな絵が飾ってあるんだね。それにちゃんとお客さんもいるし。でもみんな絵を触ってるけど、大丈夫なの?」

「それは大丈夫。ここの絵は全部レプリカだから、触ってもいいんだよ」

「ふーん……そうなんだ」


直接絵に触れるという事に茜はあまり興味を示さず、淡々と絵を見ていく。しかし彼女の気に入るような絵が無いのか、順路をどんどん進んでいた。


「結構進むの早いけど、あんまり絵に興味なかった?」

「ううん。別にそういうわけじゃないんだけど……絵を見てもなんて言うか、すごいなーとか、上手だなーって感想しか出てこなくて、すぐ次の絵を見に行っちゃうんだよね」


彼は茜が絵に興味が無いとばかり思っていたのだが、それは違ったようで内心ほっと息をついた。

——もし彼女の口からつまんないなんて言葉が出てしまったら、彼は結構なショックを受けたことだろう。だって彼女が行きたそうにしていたのは遊園地や博物館だったのだから。


「あれ、ここで何かイベントみたいなのやってるんだね」


茜が進んでいくと、フロアの一角がイベントスペースのような場所になっていて、毎月特定のテーマに沿った絵が館内から集められるようだ。

そしてこのイベントスペースに飾られている絵を見る限り、今月のテーマは天使が描かれた絵を集めて展示しているようだ。


「わーすごい。天使が描かれた絵が沢山あるよ」

「今月は天使が描かれた絵を飾ってるみたいだね」

「へー。じゃあここにある絵には全部天使がいるのかー。これは人と話してるけど、こっちは空を飛んでる!しかも流れ星みたいになってて綺麗だな~」


ここも今までと同じように一通り見て次に行ってしまうかと思われたが、それとは反対にそれぞれの絵を比較して見て回っていた。

あまりの変わりようにおじさんは驚きながらも、茜と一緒に見て回る事にした。。


「あっ、この絵なんて天使がすごい大きいよ。空一面が羽みたいなやつに覆われてるし、これ雲がこんな風に見えたのかな?——あれ、この列の絵に描かれてる天使の姿……全部真っ白だ」

「本当だ。どの絵も同じだね」

「作者も同じなのかな?」

「どれどれ……いや、全然違う人だね。しかも国も違うみたいだ」

「描いた人が違うのに、同じ姿なのは皆同じ天使を見たって事なのかな」


イベントスペースの壁際の列に展示されていた絵画に描かれていた天使は、どれも同じような描かれ方をしていた。

服装はそれぞれ違い、顔も多少の差はあったのだが、他に同じ外見的特徴は髪が長い事だろうか。

そして山よりも大きく、空一面を覆うほどの巨大な天使と思われる物体は真っ白な体をしており、まるでこの天使が光で構成されているようにも見える描き方だ。

——彼は描いた画家がそれぞれ違う事には気づいたが、それ以外にも地域と年代まで違っている事には気が付かなかった。


イベントスペースを抜けた後は美術館に入った来た時と同じように、じっと絵を見ては次の絵を見るの繰り返しでスラスラと順路を進んでいく。

彼女が再度足を止めたのは美術館の売店コーナーだった。


「何かお土産でも買っていく?」

「うん。友達とかに何か買おうかな。ちょっと見てくるー」

「じゃあこの辺の物を見てるから、買う物決まったら声かけてね」


茜はカゴを手にじっくりと品定めをしている。心なしか絵画を見ている時よりも真剣な眼差しをしていた。

その様子を見ていたおじさんは時間がかかりそうだと思っていたのだが、ある程度買うものを決めていたのかパパッとカゴへ入れていく。

茜がおじさんのもとへ戻って来たのは十分もかからなかった。


「おじさん、選び終わったよ」

「えっもう終わったの?それよりも買う物は……ノートとかキーホルダーだけでいいの?絵画の図鑑とかあるけど」

「これだけで大丈夫。図鑑は高いし、私のお小遣いだと買えなさそうだから、買わないことにしたんだ」


茜はせっかく来たんだから寮にも何か買おうかと売店を回って見つけたのが、絵画とその説明が載っている図鑑だった。

寮の本棚には図鑑も置いてあったから、この絵画の図鑑もお土産にはちょうどいいなと思って図鑑の値札を見て買うのをやめた。彼女の手持ちのお金だと足りなかったのだ。


「そんなに高いのかい?でも今回の件は君のおかげで解決できたんだし、買ってあげるよ」

「やった!おじさんありがと!」


レジで会計を済ませた後、ホテルへと帰るその道中、おじさんは天使の絵の事を茜に聞いた。

あんなに食いつくように見るとは思ってもいなかったし、彼女があのような絵の事を知っているのかが気になっていたからだ。


「すごく熱心に天使の絵を見てたけど、ああいう絵が好きだったの?」

「ううん。別にそういうわけじゃないし、私もあの絵を見たのは初めてだよ。どうしてそんなこと聞くのさ」

「いや、特に意味は無いんだけどさ。ずいぶん熱心に見てたから、ただ気になっちゃって」


彼は茜が研究所に来る前にテレビか本で天使の絵でも見たんじゃないかと予想していたが、どうやら違ったらしい。


「——でも、あの白い光の天使……なんていうか初めて見た気がしなかったな」


彼女がぼそりと呟いたその言葉は街の喧騒に飲み込まれ、おじさんの耳に届くことは無かった。

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