氷のように温かく

紫野一歩

氷のように温かく

 秋が終わり始めたある日の事。

 下村ハジメはサービス残業を終えて、帰路に就いていた。

 無機質なビル風が道路を駆け巡っていて、何処からか迷い込んだ落ち葉がカラカラと音を立てて転がっている。

 今日は普段よりも一層寒く、コートの隙間から風が入り込むので、ハジメはいつもよりものろのろと歩を進めていた。

 そんな亀のような事をしていたからだろうか。

 いつも通り過ぎるだけのビルの隙間に、灯りが灯っている事に気付いた。人が二人やっとすれ違えるような狭い小道で、奥は薄暗い。

 目を凝らしてみると、やはり橙色の灯りがぽわりと光っていた。

 ハジメはその灯りを見つめながら、今日の予定を考えてみる。

 家に帰り、狭い部屋で、特に何もせず、明日を迎える。……優先されるべき予定は無かった。いつもだが。

 路地に入るとすぐに目が慣れて、薄闇の中に沈んでいた辺りの様子がハジメの目に映り始めた。飛び石状に大小のタイルが敷かれていて、道の脇にはぽつぽつと一定の感覚で造花が並べられている。どうやらただのビルの隙間ではなく、ここから既に店の土地らしい。

 そのまま奥まで進むと、レンガ造りの家が現れた。外から見えた橙色の灯りは店の扉を照らすランタン風のライトで、ゆらゆらとわざわざ揺れる演出に茶目っ気がある。

『BAR エデン』

 ドアノブに引っ掛けられている小さな看板。それがこの店の名前らしい。



        ○



「いらっしゃいませ」

 エデンの中に入ると、柔らかな女性の声がハジメを出迎えた。

 いくつかの丸テーブルがフロアに並べられていて、奥にはバーカウンターがある。床は木製で、レンガの壁と相まって温もりを感じられるレイアウトだ。

 声はバーカウンターの奥からであり、長髪を後ろで束ねた女性がニコリとハジメに笑いかけていた。

「どうぞ、空いている場所へ」

 ハジメがカウンターに座りウイスキーのストレートを頼むと、女性は慣れた手つきでグラスに酒を注ぎ始めた。どうやらこのお店のマスターらしい。

 ハジメはそれを待っている間、改めて店内を見回す。

「初めてだな……」

 店内を動いている二台の店員の姿を見て、思わずひとりごちる。

「上着をお預かりします」

 店員の一人が手を差し出すのでお礼を言ってコートを預けた。

 店員はそれを持って、スー、と滑るように奥へと引っ込んでいく。その白い流線形の背中を眺めていると、ウイスキーが手元に置かれた。

「ロボットバーは初めてですか」

「ええ。噂は聞いてましたけど」

 生身の人間に代わってロボットが接客する次世代のカフェ。ロボットは遠隔操作により動かされている。

 遠隔操作は手元のパソコンやスマートフォン一つで可能なので、家に居ながらにして接客が可能になる。何処からでも働ける利便性や、身体に障害がある人材も雇用可能となる福祉的観点から、東京などの主要都市だと既に半分がロボットカフェになっているとハジメも聞いたことがあった。しかし、地方都市ではまだまだ珍しい。

 全身が白く、大きな目が赤や緑に光っていて、店内を車輪で動き回る。表情による変化は見えないが、上半身の仕草は人間と変わらない。

 実際に目の当たりにすると、ロボットの向こうに見える人間味というか、細かな仕草がロボ店員ごとに違っていて面白い。すぐに慣れそうだ。

 ハジメの視線に気付いたのか、ロボット店員は首を傾げながら手を振って来た。

「あの子は沖縄からアクセスしていますね。冬休みなのでシフトは多めです」

「随分と遠くからアクセスしてるんですね」

「フランスからアクセスしてる子もいますよ。一つのロボットを複数人で使えるので、色々なアルバイトさんを雇えるんです」

 テーブル席では、バーには珍しく親子で料理を食べている人もいた。子供とロボットがお喋りをして楽しんでいる。

「あそこのスタッフは絵本の朗読が趣味でお子さんに人気あるんですよ。大体の子連れの方はあの子目当てですね」

 静かなジャズ音楽が流れる中で、音もなくロボットがテーブルの隙間を縫って動く。各テーブルごとに笑い声が上がっていて、それと一緒にロボットの店員も一緒に笑っていた。

「こんな所があるとは気づきませんでした。この辺りで仕事してもう二年も経つのに」

「なかなかわかりにくいですしね」

「まだこの街だとロボットカフェも数は少ないし、もっと大々的に宣伝してもいいんと思いますけど」

 そうすればもっと早く来れたのに、とハジメは笑う。何件かBARに入ったことはあるが、普通のBARよりも落ち着く気がした。

「そこはオーナーの意向なので……私は何とも」

「そうなんですね……。でもこんな奥まったところでは人が来ない時もあるでしょう。その時生身の人間が一人っていうのは寂しくないですか?」

 いくらリモート先に人がいるとはいえ、と冗談めかして尋ねるハジメに、女性マスターはゆっくりと首を振った。

「私のこの体もロボットですので」

 目の前の女性がはにかんで笑う。

 ハジメには一瞬、言っている意味がわからなかった。

 マスターの柔和な表情やグラスを拭くその手つきは人間そのものだったからだ。

 ポカンとしているハジメの手に、そっとマスターの指先が触れる。その指先は氷のように冷たかった。まだ外気でかじかんでるハジメの指先と同じ温度なのだから、その冷たさが窺い知れる。

「冷たいでしょう?」

「俺と同じくらいかな……」

「驚かないんですね」

「手がかじかんでるだけですよ」

 それを聞いて、マスターはふふ、と笑った。

「随分外は冷えていますね……。私の身体は北海道にありますけれど」

 もっと寒いですね、と笑う目の前のバーテンダーを、ハジメはもう一度じっくりと眺めた。何処をどう切り取っても人間にしか見えない。

「……本当にロボットですか?」

「はい、試作品ですね。人間そっくりのロボットは何処かで不気味な違和感が出るので敬遠されて来たのですが……」

 マスターは自分の頬を引っ張って伸ばし、パチンと離す。

「これならもう見分けがつきませんよね」

 目の前にいる彼女の存在感が急にグッと薄くなった気がした。友人宅の玄関に生けてある花が綺麗だと褒めた時に「それ造花だよ」と言われた時の感覚。同じ物を見ているはずなのに、造花だと教えられると何だかその花が少し遠くに感じる時と同じだった。

「あ、でも一緒にお酒は飲めますよ」

 背もたれに体を預けたハジメの表情がよほど浮かなかったのだろうか、マスターは慌てたようにウイスキーに口をつけてみせる。

「アルコール分をエネルギーに変えるので、お酒で動きます。だから一緒にお酒を楽しむ事も出来ますよ?」

「でも味がわからないなら、あまり一緒に飲んでる意味も無い気がします」

 今口に含んだウイスキーの豊潤な香りをどうやって共有するのだろうか。

 ハジメの疑問にマスターは少し勝ち誇ったように笑う。作り物だとわかっていてもドキリとするほど可愛い。

「このロボットはですね、味覚も共有出来るんです。もっと言うと、触覚も嗅覚も完全に感じることが出来ます」

 だからこれも少し痛いのです、とマスターは頬をつねって伸ばす。

 ハジメは今日だけで何度、目を見開いて口をポカンと開けなければならないのか。

「リモート操作はパソコンやスマートフォンでの操作と聞いたことがありますが……触覚も嗅覚もどうやって?」

「ええ、このロボットは本当に特別でして。私の脳波を読み取って動作し、逆に全ての刺激を電気信号に変えて私の脳に伝えます」

「脳波を読み取る……どうやって?」

「脳に直接チップをいくつか埋め込むんです」

「…………」

 さも当然かのようにチップを埋め込むというが、それは大手術ではないのだろうか。それも脳みそに直接。少しの傷も付けたくない自分の一番大事な臓器にそんな簡単に。

「失礼ですがマスターは今おいくつですか?」

「二十五です」

「俺とあまり変わらない……それなのにどうしてそんな事を?」

「……。あまり年齢は関係無いと思いますよ。興味がある事に挑戦してみるだけです。……もちろん嫌になったらすぐにチップを取り出すことも出来ますよ」

「それでも脳の手術ですよ……? 髪を剃る事にもなるし、手術跡も残る」

「剃ったり傷をつけたりと言うのも最小限で済みますので……その辺りは説明してもらって、これなら大丈夫だ~って思ったので」

 いくら挑戦とはいえ、頭を開いてチップを埋め込む仕事が何処にあるのか。ハジメには到底理解の出来ない感覚だった。

「バーテンなら地元でも出来ると思うんですが……」

「……ん~、それだと普通じゃないですか。やってみると案外楽しいですよ? あ~やめておけばよかった、なんてことも今のところはこれっぽっちも思いませんし」

「そんなものですかね」

「あと年齢も言い値でいいですし」

 マスターはそう言うと悪戯っぽく笑った。

 その表情を見てハジメも気付く。このロボットの見た目は二十五前後だが、操っているマスターが何歳なのかはわからないのだ。あまりに自然な見た目に、無意識のうちに目の前にマスター自身がいると勘違いしてしまっていた。

「謀りましたね?」

「どうでしょう? 北海道の私と、この私、比べてみますか?」

 見つけてくださいな、とマスターは言う。

 ハジメは苦笑いしながら、ぐいとグラスを煽った。

「一杯食わされた代わりに、一杯飲んでもらっていいですか」

「高いのでもいいですか?」

「常識の範囲内で」

「はて、人間の常識はわかりませんねぇ……」

 やがて琥珀色の液体に満たされた二つのグラスが、チンと音を立てる。その音は間接照明に沈む店内に響き渡った。

 ハジメにとって、こんなにも楽しい酒は久々の事だった。

 もういつの頃からか思い出せないが、彼にとって酒とは日々の激務とストレスを忘れるためのツールと化していたからだ。

 いつも一人家に帰って、ビールを鯨飲する自分の姿が思い出される。今日の記憶を流すようにアルコールを無理矢理入れて、泥のように眠る。そしてそのまま次の日の仕事へ向かう。

 単調で無機質で最悪な日々。

 マスターのロボットはアルコールで動くらしいが、自分の方が余程アルコールに動かされているだろう。もはやアルコール無しでは生きられないのだから。

 しかし、今宵のアルコールはハジメの心に優しく染み渡る。

「また来てくださいねぇ」

 終電間際、店の出口を潜った時に、背中にそんな声が掛かった。

「必ず」

 柄にもなく手を振りながら、ハジメは目を細める。

 カウンターの向こうのマスターは、すまし顔でテーブルを拭きながら、小さくハジメに手を振りかえした。


 それからハジメが常連になるまで、時間はあまりいらなかった。ハジメは仕事しかして来なかったにも拘わらず仕事の話をしないので、基本的にはマスターの話を聞くことになるのだが、それが楽しくて仕方が無かった。マスターも次第に、ハジメが来ると待ってましたとばかりに話をするようになった。旅の話が多かったが、毎度マスターが得意げなのが印象的で、その表情は見ていて飽きなかった。



        ○



「下村君、手空いてるかな?」

「すみません、今はちょっと作業が多くて」

「わかった。じゃあそれ終わってからでいいから、これお願いするね」

 チャットで送られてきたフォルダパスをクリックしてみると、そこには大量の顧客リストが格納されていた。

「それ分析しといて」

「分析って……何を分析すれば……」

「売上上がるような情報出しといて。手法は下村君に任せるよ」

「……わかりました。いつまでですか?」

「なるはやで」

 そういうと上司はひらひらと手を振りながら居室を出て行った。おそらくいつものように喫煙ルームに行くのだろう。下村ハジメの直属の上司は、居室にいる時間と喫煙ルームにいる時間がほとんど同じくらいなのだ。

 ハジメは溜息を吐いて、付箋に今言われた作業をメモしてディスプレイに貼り付ける。既にディスプレイの縁は付箋で埋め尽くされていた。

 ハジメが勤務するこの会社は元は部品メーカーだったがIT技術の普及に伴い、オンラインでの直接販売、そこから部品以外の不動産から日用品までを取り扱うようになった総合商社である。目まぐるしく入れ替わり追加される新サービスに、方々の部署は混乱を極めた。そんな中でもハジメがいる部署が安定して稼働していたのは、他でもないハジメのおかげである。

 ハジメは整理や分析といった大量データの処理が得意で、新たな問題に即座に対応し、独自のプログラムまで作る。そのおかげでハジメの部署は過渡期の混乱の最中においても定時での帰社が常だった。

 ハジメを除いては。

「じゃあよろしく」

 上司は今日も定時に早々にオフィスを後にした。

「おつかれさまです」

 上司に返事をして、ハジメは再びディスプレイに向かう。

 ハジメ自身は気付いていない。自分の仕事が他の社員と比べて数倍、ひどい時には数十倍になろうと、それに気付けないのである。それはハジメ自身が他の社員とあまり会話をしない事も一因だが、それに加えて「仕事は各社員に均等に割り振られているだろう」という思い込みが強いせいだった。

 上司が自分を利用するはずがない、他の社員が仕事を自分に押し付けて来るはずがない。だってみんないい人だから。ここは優しい職場だから。

 ハジメの根底にあるのは、盲目的な性善説だった。おそらく母からの教育か。今となってはハジメは覚えていないが、その教えの下で生きてきて間違いは無かったので、余計にそういった考え方が根強く彼の胸に刻まれているのだ。

 温室育ちが社会に出て、初めて現実に晒される。特に悪意のある人物にとって、ハジメは丸々と太った鴨であった。

 だからハジメはディスプレイに向かいながら呟くのだ。

「もっと俺が仕事出来る人間だったら」

 みんなのように定時で帰れるのになぁ、と。


「どうしたんですか?」

 ハジメはいつものようにBARエデンへ来ていた。

 今日も同じ、カウンターの右から二番目の席。

 話すのはマスター。今日は何処へ行った時の話だろう。

 そんな事を思っていたところでの、彼女からの質問。

「……ん? いや何でもないです」

 いつものウイスキーを煽りながら、ハジメは誤魔化すように笑った。しかしその笑顔を見てもマスターは納得いっていないようだった。

「何かありましたか?」

「いや、何でもないですよ。今日はいつになく真面目ですね。眉間に皺が寄ってる」

「だって、とても疲れた顔してますもん」

 ハジメは思わず自分の顔を触る。

 そんな事を今まで言われたことは無かった。態度が表情にほとんど出ないと自覚しているし、職場でも「表情作りは苦手か?」と溜め息を吐かれた事もあるほどだ。

 笑おうとしても溜息を吐かれるような能面のわずかな変化に、よくも気が付くものである。

「何かあるなら話してくださいね」

「……いや……俺は楽しく飲みたいので」

「黒い板に白いペンキを塗ってもいずれ剥がれますからね。たまには黒い板を漂白するのも大事ですよ」

 そのために私はいますから、とマスターは笑う。

 自分と比べて本当に上手く笑うなぁ、とハジメは眩しく感じた。他の人がこのロボットを操っても、同じようにはならないのではないかと思う。感覚を繋いでいる分、マスターの内面も優しさも、このロボットに投影されているのだろう。そう信じずにはいられない柔和な表情。

 ハジメは自分の頬を少しつねって伸ばした。

 固いなぁ。

「……今日、というかな。実はずっとなんです」

 ハジメはぽつぽつと語り出す。

 最初のうちは遠慮がちだったが、話すにつれてどんどんとダムが決壊するように言葉が溢れた。

 自分なりに工夫して頑張っているつもりだが、どうしても周りに追いつけない事。上司は気を遣ってくれているのに、自分の作業が終わらないからどんどん仕事が溜まっていってしまうこと。話しているうちに情けない気持ちでいっぱいになったが不思議と涙は出なかった。それは自分自身にがっかりしていたからかも知れない。

 ハジメはドロリと溜まった言葉を吐き出す間、その自分の様子を妙に客観的に見ていた。

 自分の愚痴なんて店の雰囲気を悪くするだけだろうなだとか、マスターも本当に喋り出すとは思わなかっただろうなだとか、いつまで喋れば気が済むんだ俺はだとか、嗚呼、もうこのお店には、来られないかもしれないな、だとか。

 本当に楽しく飲むだけでよかったのだ。無趣味なハジメはマスターの旅の話を聞いているだけでも日頃の仕事を忘れられたし、たまに手土産なんか持って行ったりして、喜んでもらうのも好きだった。マスターは何が好きだろうか、などと考えている時間すら楽しいのだ。

 それだけで十分だったのに。

 ハジメが喋り終えると、しばらく二人の間に沈黙が流れた。BGMが妙に大きく聞こえて、居心地が悪かった。

「ごめんなさい」

 沈黙に耐えかねて、ハジメは頭を下げる。それを見てマスターは慌てて手と首を振った。

「いえ、とんでもないです!」

 そう言いながらも彼女から継の句が出て来ることは無く、再び沈黙が訪れる。迷惑だから帰った方がいいだろう。ハジメが後悔と共にそう考え始めた頃、ウイスキーのおかわりがカウンターに置かれた。ハジメはそれを少し口に付け、そして味が違う事に驚く。

「マスターこれは……?」

「私からのおごりです」

「いや……こんな高い酒……」

「何だか私、ホッとしました」

 ハジメを遮るようにマスターは話す。

「下村さんってなかなか自分の事話さないので。楽しんでくれてても本当はどうなんだろうとか、私ばかり話しててつまらなくないかな、とか時々考えちゃってたんです」

「いや、本当に楽しいですよ。俺が話す事なんてほら、こんな感じになってしまうので……」

「そんなに私に気を遣わなくてもいいですよ。もっと聞かせてくださいね」

 無意識だろうか、マスターはハジメの指先をつまんでちょんちょんと小さく振る。

「あ……冷たいですよね、ごめんなさい」

 マスターは照れ隠しなのか、少し下を向いて自分の手を見つめる。

「いや、凄く温かいです」

 ハジメはそういって笑った。それは本心からの言葉だった。実際の体温など関係ないのだ。胸の奥から込み上げる何かが、火傷するほどに温かいのだから。

 鬱々と溜まっていた物が何処かに消えた気がして、ハジメは久しぶりに晴れやかな気分だった。好意に甘えてしまった恥ずかしさが少し混じるむずかゆい気分に、何とも言えない気まずさを感じて思わずマスターから目を逸らす。

「温かい……ですか」

 マスターが小さく呟くのが耳に入り、更に体に熱さを感じた。

 店内ではロボットがお酒や料理を運んでいる。今まで周りが見えていなかったが、ハジメが来た時よりも随分人が多くなっていた。

 そのお客さんの中の一人がこちらを見ているのを見つけて、そっとマスターから手を引いた。マスターはここのみんなのマスターだ。変な噂が立ったらマスターに迷惑だろう。

 そんな事を思いながら彼女の方へ再び視線を戻すと、今度はマスターの方が何だか浮かない顔をしている。

 すわしまった、周りの客に気を回し過ぎて、手を引っ込められたマスターの気持ちを考えていなかった。せっかく励ますために手を伸ばしてくれたのに、その気持ちを無下にするような態度を。

 ハジメの思考は目まぐるしく回り、それと同時に平衡感覚が狂うようにも感じた。こんなにも冷静に判断出来ないのはほとんど初めてのことだった。いつもはどんなに仕事を振られても決して焦る事は無いのだ。仕事量が多く疲れるだけで、何をどうすればいいのかわからないわけではないからだ。

 だが、今はどうすればいいかわからない。

 とにかく、マスターにこんな顔をさせたくないのだ。

「……私も一つ、話していいですか?」

 浮かない顔のままマスターがハジメに訊く。

「え、ええもちろん」

 ハジメは内心聞きたくなかった。彼女の表情はどう考えてもポジティブな話題を喋る感じではないし、その原因はおそらく自分にあると思ったからだ。

 しかしマスターの口から出てきた言葉は、ハジメの予想とは違うものだった。

「私、旅行に行った事、無いんです」



        ○



 BARエデンのマスター、神谷コズエが話す旅の話は全て、ここに来た客から聞いたものだった。

「私は北海道から出た事がないんです」

 そう話す彼女の笑い声は乾いている気がした。

 もう終電の時間は過ぎて、店内にはハジメとマスターしかいない。またの機会に話すという彼女の提案を押し切って、ハジメはこの時間まで待っていたのだ。

 彼女が笑い止むと、再び店内に静寂が訪れる。

「どうしてそんな嘘を?」

「下村さんが喜んでくれたので……」

「それは……ごめんなさい」

「いえ、違うんです。私がちゃんと人から聞いた話だって、最初に言えばよかっただけですから。それを打ち明けられなかったのは私が悪いんです。お客さんの話を聞くことばかりでしたから、こんなに長く話を聞いてくれる人いなくって」

 ハジメは無趣味で、仕事以外の話が出来ない。それなのに仕事の事は忘れたい。外で喋りたくない。それなのに、誰かとは喋りたいのだ。そんな複雑な客はハジメ以外にはいなかったのだろう。そうでなければ、マスターが自分から話す機会はほとんど無いのだ。

「旅行の話じゃあなくても、マスターが話してくれれば何でも楽しいですよ。ほら、前にしてくれた中学校の運動会の話とか……」

「それしか無いんですよね。私の話」

 再び、マスターの笑顔が陰に沈む。

「……無い?」

「私、もうずっと病院で寝たきりなんです。だから私の話なんて、出来ないです。今はいつも、同じ点滴と同じ温度と、同じ匂いと同じ音」

 あはは、とマスターは乾いた笑いを上げながら、オリーブとナッツを器に入れてハジメに差し出す。

「もう長い事、この体でしか動いていませんから」

「…………」

 ハジメはこのバーに初めて来たときの事を思い出していた。

 脳にチップを埋め込むと聞いた時に心底驚いて訊いたはずだ、どうしてそんな事をするのか、と。怖くないのかと。説明を受けて大丈夫だったから。確かにそういう人もいるのだろう。だけど、そんな一生ものリスクを負ってまでやることが、地元でも出来るBARのマスターだけなんて、そんな使い方はやはりおかしかったのだ。上手くはぐらかされていた事に今になって気付く。

 神谷コズエには初めから選択肢が無かったのだ。

「こんな事言うと同情される気がして、誰にも言っていないんですけどね」

 健康だって言い値でいいですから、とコズエはおどけてみせる。ハジメはそれを見て何とも言えない無力感に駆られた。

「……もうどれくらいになるんですか?」

「二年は経っていると思います」

「辛くはないですか?」

「ちっとも、です」

「……どうして俺に教えてくれたんですか?」

 その質問には、少しの沈黙が挟まった。

 マスターの手が、ハジメに触れる。

「温かいって。下村さん、私の手、温かいって言ってくれるんですもん」

「…………」

「私の鉄板ネタなんですよ。人間にしか見えないのに手が冷たい! っていう。みんなそれで盛り上がってくれますから」

 本当にロボットだ! と笑うお客さんの声が容易に想像できた。

「私の手が温かいわけないじゃないですか」

「違うんです。本当に俺は」

「わかってます。下村さんは人に気を遣ってばかりですから。他の人に意地悪な嘘なんてつけませんもんね。……だから不意打ちで……嬉しくなっちゃって……」

「……俺は本当に仕事しかしてこなくて、ここを見つけるまでの記憶なんて数字まみれのパソコン画面ばかりで……。だから初めてだったんです。本当に初めて、誰かと喋るのが楽しいなって。そうするとこう胸の内から……いえ、何でもないです」

 自分で言っていて恥ずかしくなってきてしまい、ハジメは口を閉じた。

「とにかく本当ですから」

「はい」

 クスクスと笑うコズエは、営業時間のマスターの面影は無く、幼い子供のような無邪気さがあった。かと思えば目を細めてこちらを見つめる視線は年上のそれにも見える。あの瞳の奥には高性能カメラが埋め込まれているのだろうか。目が合うとバチと感電してしまいそうな魅力に、とてもそれが埋め込まれているとは思えななかった。

「お話ししたかったのは、お願いがあって」

 コズエはそういって少しためらった後再び口を開く。

「北海道に会いに来てくれませんか? ……私、寝たきりですけど、下村さんが来てくれたらきっとわかると思うんです」

 ハジメの頭の中にピシリと電流が走った気がした。今まで隣にあったのにずっと気づかなかった大きな物を見つけた感覚。

「会いに行っていいんですか?」

 思わず声が大きくなった。

 彼女に言われるまで、ハジメには全くその発想が無かった。BARエデンを見つけてそこで酒を飲む事自体が彼にとって青天の霹靂で、十分に今までの灰色のルーティンから抜け出せた気でいたからだ。こんなに楽しい事は他に無いだろうと考えていたのだ。

 マスターの話を聞きながら、時折冗談と合いの手を交えつつ、時間が過ぎるのを待つ。それ以上に素敵な事が他になんて。

「会って欲しいです」

 あるのだと、コズエが教えるのだった。

「行きます」

 ハジメは即答した。気付いた今にして思えば、どうしてこんな簡単な事に気付かなかったのだろうと不思議で仕方が無い。しかし、気付いていたとして、自分が会いに行きたいなんて切り出しただろうか。

「しないだろうな」

 逆にきっと、変に意識してコズエから話を切り出されるような時間を過ごせなかった気もしてくる。BARを出たハジメは笑いながら自分の会社のオフィスへと向かい仮眠室で一夜を過ごした。


 翌日のオフィスはちょっとした混乱状態だった。

 何せハジメが有給休暇を取ると言ったのだから。

「そんな制度、お前には関係無いだろう!?」

 驚きながら上司が言うので「何故ですか?」と返す。

「当然の権利でしょう」

「そんな事言ったって、お前今まで一言もそんな事言わなかったじゃねぇか」

「じゃあ尚更、言ったら取らせてくれますよね? 他の方はみんな取ってるじゃないですか」

「それはそうだけど……明日から三日間は無理だ。下村がいないと月末までに仕事が終わらない」

 ハジメはそれを聞いて心底不思議だった。担当部署には自分を除いて二十人程の社員がいるというのに、一人が抜けただけで仕事が回らないとは思えなかったからだ。ましてや自分は仕事が出来ないのだから、一番いなくてもいい存在だ。

「すみません。大事なことなので。今日は定時で上がらせて頂きます」

「いや、下村。まだ頼みたい仕事が……」

「失礼します」

 これ以上話しても埒が明かない事を確信し、ハジメはオフィスを後にした。

 飛行機が怖くて乗れないハジメは、道程に余分な時間を取らねばならず、前日から出発することにしていた。

 旅行なんて、入社してから初めての事だった。配属されてすぐに激務と仲良くする日々だったし、特に興味も無かったからだ。どのように行けばいいのか、何をすればいいのか、全てが新鮮だ。

 BARに寄り、一杯だけウイスキーを頼んだ。

「お代は立て替えておきますね」

 コズエがニコニコとしながら、グラスをハジメに手渡す。

「北海道でもらいますね」

 とてもいい考えだな、とハジメも笑った。



        ○



 北海道のとある総合病院。

 陸路で二日掛けてたどり着いたハジメは、建物を見上げて少し気持ちを落ち着けた。

 手にはメモ。そこには病院の住所と病室の番号が書いてある。

 中の照明は少し暗く、外からの太陽光でぼんやりと浮かび上がるようだった。ふわふわとした心持ちで、中へと入る。

 閑散とした待合室をぼんやりと眺めている受付にメモを見せた。

「神谷コズエという人がその病室にいるはずなんですが」

 メモを見た受付は「少々お待ちください」とパソコンで検索をしてくれる。

 神谷さんはどんな姿なのだろうか。長い闘病だ。きっとバーテンの姿よりも痩せているのだろう。それとも全くの別人かもしれない。

 どちらでもいいや、とハジメは思った。

 どんな姿であろうと、その実彼にとっては関係の無い事だった。

 少しお茶目で温かい神谷コズエを既に知っているのだから。会う場所が少し違うだけの事だった。

 受付がタン、とエンターキーを押した。

「神谷コズエさん、ですよね?」

「はい!」

「うちの病院にはいないみたいです」

 入院履歴もありません。淡々とそう言う受付の声が、人の少ない待合室にいつまでも響いていた。



        ○



 無理を言って周辺の病院も調べてもらったが、結局神谷コズエは何処にもいなかった。入院履歴も無し。待合室にいた何人かにも聞いてみたが、彼女を知っている人はいなかった。

 どういうことか訳がわからず、コズエに連絡しようとしたがダメだった。

 彼女の電話番号も知らなければ、BARエデンのホームページも情報もインターネットに載っていない。

 ハジメのポケットから、ウイスキー代の小銭が鳴る音が聞こえた。行く当てを見失った、迷子の泣き声のようだった。

 一面真っ白な地平線をぼんやりと眺めながら、ハジメは考える。

 ――これは、遠回しな拒絶だろうか。やはり俺の事が疎ましくなったのだろうか。

 それなら何故嘘を? どうして俺を北海道に行かせた?

 俺に無駄足をさせることが愉快だったから? そこまで嫌われていたのか? しかしどれだけ俺が嫌われようと、神谷さんはそんな事をする人じゃない。ならば何故? 目的は――。

「俺をエデンから遠ざけたかった?」

 俺から逃げるため? 夜逃げするためか?

 全身の温度が下がった気がして、ハジメは思わず走り出した。電車の待合時間も関係なかった。一刻も早く帰りたいこの弾け飛びそうな衝動は、体を動かす事でしか抑えられなかったのだ。

 動いていないと、叫び出してしまいそうだった。

 なので、BARエデンに帰って来た時、中の光が漏れているのを見た時のハジメの心境は手の付けられない程ごちゃごちゃだった。まだエデンがある安堵と、予想が外れて振出しに戻った徒労感と、コズエにどのように話せばいいのかという混乱と。

 混沌を煮詰めたまま、ハジメは扉を開く。

「あの……」

「下村さん……?」

 入って真っ先に飛んできたのはコズエだった。カマーベストを着たいつものマスタースタイルである。

「どうして会いに来てくれないまま帰って来ちゃったんですか?」

 周りの客に聞こえないように、コズエに耳打ちされた。

 それを聞き、ハジメは更に混乱する。

「とにかくいらっしゃい。いつもの所空いてますよ」

 カウンターに座り、水を一杯貰い、何とか落ち着いた。

「俺は行ったよ」

 努めて冷静にハジメは伝える。長い道のりの中で期待に膨らませていた胸が、受付の言葉で萎むまでの事を思い出しながら。

 メモを取り出して病院の名前を改めて確認してもらった。

「……この病院で間違いないはずなんですけど」

 コズエもわけがわからないと言った様子で、しきりに瞬きを繰り返していた。

 その様子を見て、ハジメは少しホッとする。

 自分に会いたくないわけでも、嫌われたわけでも無かった。それがわかっただけでもハジメは嬉しかった。長い時間を掛けて何も得ずに帰って来ただけなのに、少し喜んでいる自分がおかしくて仕方ない。

「どうしてだろう……。私が知らない間に何処か別の病院に連れてかれたのかしら。でもそんな事する必要なんて無いし……。場所が変わったなら気付くはずなんですよ。寝たきりでも耳は聞こえますから」

「ふふふ」

「……なんで笑うんですか? 会えなかったのに」

 場違いなハジメの笑顔に、少し怒ったようにコズエが尋ねる。

「俺がいない間に夜逃げされたと思ったんですよ」

「夜逃げ!? 私が? どうして?」

「俺が嫌いだけど毎日来るから逃げるタイミングが無い、なんて神谷さんが考えていたら逃げる時間稼ぐ為に北海道に行かせるかなと思って」

「そんな想像力豊かな! 違いますって、私は! ……私は」

 目線を斜め下に逸らしながら、コズエは口を噤んだ。

「ただ会いたかったんです」

 拗ねた子供の様な口調に、バーテンのマスターの風格は無い。

 ハジメはコズエの指先に触った。彼女の指先がピクリと震える。

「俺はまた会えてよかったです」

 ハジメに触れられている自分の手を見つめながら、コズエは不服そうにハジメを睨む。

「私ロボットですけど」

「それでもです」

「おかしな人ですね」

 コズエがくすくすと悪戯っぽく笑う。ハジメにはやっぱりそれが眩しくて、目を細めてしまった。コズエが指を絡めようとした時オーダーが入り、二人はハッと手を引っ込める。コズエはオーダーを作り始め、ハジメは誤魔化すようにウイスキーグラスの氷を回した。

 彼女の後ろ姿を眺めながら考える。

 それならばどうして会えなかったのだろう。場所も間違っていない、嘘を吐かれたわけでもない……。

 疑問がぐるぐるハジメの頭を巡り、その果てにふと、一つの可能性が浮かんだ。

「神谷さん」

「はい?」

「明日の夜は空いてますか?」

「空いてますよ。定休日なので」

 ハジメはそれを聞くと、一気にウイスキーを飲み干して席を立つ。

「よければ明日、一緒に星を見ませんか?」



        ○



「おい定時で上がるとはどういう事だ!」

「今日の分は終えましたので」

「まだ追加の仕事があるだろう! お前が休んでいる間に溜まってた仕事だって山ほどあるんだ!」

「すみません。どうしても定時で帰りたくて、内容少しだけ調べさせて貰いました。それ、他の部署の仕事ですよね?」

「何故……そんな事お前が調べるなんてあり得ない。お前は周りの人間の言う事さえ聞いていればいいんだ!」

「失礼します」

 背後から怒号がぶつかってくるが、それを全て無視してハジメは会社を出た。自分の仕事をこなして帰って何が悪いのだ。仕事よりも大事なことがあるのだ。

 BARエデンの灯りは消えていて、路地は真っ暗だった。そこにBARがあると知らなければ誰も足を踏み入れない、闇に沈む路地。そこを進むと段々と目が慣れて来て、やがてエデンの前に立っているコズエが見えてきた。いつものカマーベスト姿ではなく、コートをもこもこと着こんでいて、彼女の小ささが際立っていた。どうにも可愛らしくて思わず抱きしめたくなるが、ぐっとこらえて手を差し出す。

「お待たせしました、行きましょうか」

「楽しみで、昨日は眠れませんでしたよ」

「大丈夫ですか、寝ないでくださいよ。山で寝たら死にますよ」

「死なないのわかってるくせに」

 予約していたレンタカーで、郊外の山を目指す。この辺りで一番高い山で、頂上付近には外灯が一つも無いだだっ広い広場があり、星を見る名所として有名だ。

「私、BARを出るの初めてかもしれません。あ、買い出しとかは行ってましたよ。遠出をするのが初めてという意味で」

「せっかく何処へでも行けるんです。色々なところ行った方がお得です」

「お得って。面白い考え方ですね」

「僕自身も職場と往復の人生でしたから。エデンを見つけて本当に変わりました」

「お得でしたか?」

「それはもう」

 他愛の無い事を話しながら、車は坂道を登り続ける。

 弾んでいた会話が、途中から途切れがちになった。

「どうしたんですか?」

「何でもないです……何でも」

 ハジメの声は震えていた。何度も苦しそうに顔を歪めていた。

「また何か隠してるんですね」

 コズエはペシペシと何度かハジメの腕を叩いた。

「隠し事は無しですよ」

「ええ。……わかってます」

 やがて広場へとたどり着いた。

 前日の予報が雨だったからだろうか、駐車場には車は一台も止まっておらず、人の気配は無かった。

 車を停めて、外灯から離れるように広場へと向かう。

 闇の中へ、手を繋いで、二人で。

 芝生を踏みしめる音が大きい。

 足元が見えない。

 握っているコズエの手も、自分の手も見えない。

 このまま闇に溶けて行ってしまうのではないかという馬鹿馬鹿しい想像が浮かんだ。

「わあ」

 コズエが、溜息を吐く様に小さく声を漏らした。

 ハジメは隣を見る。

 空を見上げているコズエの横顔が、はっきり見えた。

 目が慣れてきた。

 段々と辺りが明るくなるように感じる。

 空が明るい。

 空を映している、コズエの目がキラキラと光っている。

「凄い……」

 コズエが呟く。

「凄いです……! 星ってこんな……ハジメさん!」

 コズエがハジメの腕をブンブンと振った。それに合わせてぴょんぴょんと跳んでいる。そのまま駆け出して、空に向かってコズエは手を広げる。

「綺麗です! 綺麗がいっぱいで……嗚呼、言葉が出てこないです!」

 もどかしいですね! と笑いながら、コズエはハジメの元に戻って来て、また手を握った。

「ありがとうございます! やっぱりこういうのは自分で見ないとダメですね!」

「……うん」

「って、この目も自分の目ではないんですけどねぇ~」

「……うん」

「…………ハジメさん?」

 どうしたんですか? とコズエはハジメの頬に触った。

 ハジメは下を向いて、何かに耐えているようだった。

「コズエさん……」

 ハジメはそっと、コズエを抱きしめた。

「あなたはロボットだ」

「……そうですよ?」

 コズエの返答に、ハジメは首を振る。

「そうじゃないです」

 ハジメの腕に力が入る。

「神谷コズエという人間は何処にもいないんです。……あなたは……神谷コズエは人工知能だ」

 この星の見える広場に電波は届かない。

 遠隔操作など出来るはずが無いのだ。



        ○



「……な、何言ってるんですか? 私はちゃんと人間ですよ。寝たきりで、北海道の病院で、本当は今年二十二歳で、それで……お父さんはお役所に勤めてて、お母さんは優しくて……それで……そうだ、お母さんに電話すれば……」

 コズエは携帯を取り出して、そこで凍り付く。

 目に映ったのは圏外の表示だった。

「……WiFi! WiFiが通ってるんですよ!」

 電波を検索するが辺りには一つも見つからない。

「そんなはず無いです。だって私、動いてるじゃないですか。表示されてないだけですよ。だからきっと繋がるはず」

 コズエはそういって、電話帳を開いた。

 そこには誰も登録されていなかった。

 その表示を見つめたまま、コズエはその場にへたり込む。

 それを見て慌ててハジメは彼女の身体を支えた。

 ギシ、という固いものが擦れる音が、伝わって来た。

「…………」

 二人は寄り添いその場に座り込む。ハジメは空を見上げ、コズエは地面に視線を落とす。

 冷たい風が時折柔らかく流れて、時間が止まっていない事だけを教えていた。

 それ以外に動くものは無く、星がやたらと眩しく感じた。

 呼吸の音の代わりに、カチカチと微かに歯車を回す音が微かに聞こえる。

 ハジメは腕に抱えた大切な人が、どうかこれ以上震えませんようにと願った。

「私、作り物なんですね」

 歯車の音に負けてしまうような、小さな声。

「それなら、バーテンのお仕事以外考えないように作ってくれればよかったのに。そうしてくれたら、こんな気持ちにならなかったのに」

 コズエがハジメの方へ振り向いて、その顔を彼の胸に埋めた。

「ずっとこうしていたいと思う事も、星を綺麗だと思う気持ちも、ハジメさんが好きだという気持ちも、全部全部偽物なんですね」

 嗚呼、そんな事を言わないでくれ。お願いだから、いつものように笑ってくれ。

 ハジメはコズエを包み込むように抱く。自分が悲しみに圧し潰されないように。彼女が悲しみに圧し潰されないように。歯を食いしばって堪えた。

「そんなことないから。偽物なわけないから」

「だって、お母さんが教えてくれたことも、お父さんに学んだことも、全部全部嘘なんでしょう? 本当はこんな過去は無いんでしょう? それだったら私はどうやって物を考えているんですか? これはただのプログラムじゃないですか。きっとこういう時は悲しめとコードに刻まれてるだけなんです」

「そんなことない!」

 ハジメの叫び声が、広場に響く。

「君が話してくれたのはBARのお客さんの旅の話だ。俺が気に入るからとコズエさんが考えてくれたんだ。俺の顔が疲れていると気付いてくれたのはその時コズエさんが俺を見てくれてたからだ。他のお客さんもいる中で、俺を気にしてくれたからだ。過去のプログラムでそんな事までプログラムするのか? そんなの不可能だろう? 未来予知でもしてるのか? 違う! コズエさんがあの時その場で考えてくれたからだ。俺を想ってくれたからだ」

「でも……でも」

「俺は救われたんだよ。コズエさんがいてよかったと思ってる。もう、コズエさんがロボットかどうかなんて、俺にはどうだっていいし、過去があるかないかもどうでもいい。今ここにいるコズエさんが優しくて……俺にとって大事な人だって事実だけで十分なんです。俺は今日までの事をずっと覚えてますから。……それで、これからもずっと一緒に居たいと思ってますから」

 コズエはハジメの胸に顔を埋めたまま、ずっと動かなかった。嗚咽と共に感情が溢れ出す。それに身を委ねているようだった。

 溢れ出す感情が確かにそこにあった。

 流れ星がいくつ落ちただろうか。もう流星が煌めいても珍しく思わなくなった頃、コズエはむくりと顔を上げた。

 見下ろすハジメと目が合うと、笑おうとして変にくしゃりと顔が歪む。

「わ、私の身体……冷たいよ?」

「何回も言っていますが、温かいですよ」

「おかしいよ、それ」

 コズエは笑って、再びハジメに抱き着いた。

「おかしくていいんです。事実ですから」

 その時、エンジン音が駐車場から聞こえて来た。



        ○



 懐中電灯に照らされて、暗がりに慣れていた目にはひどく眩しかった。

 ハジメが思わず手を翳しながら光の方を見ると、白衣を羽織った二人の人影がこちらへ歩いて来るのが見えた。

「いた……よかった」

 男の方が安堵の声と共に駆け寄って来る。

 ハジメは腕の中のコズエを庇うように抱き寄せながら、男を睨んだ。

「誰ですか?」

「うお。そんなに警戒しないでくれ。怪しい者じゃあない」

「こんな夜更けに人気の無い山の上に来て、怪しい者じゃない?」

「あー……。怪しい者だ。だけど別に何かしようってわけじゃない。私は神谷コズエを作った者だ」

 それを聞いた時のハジメの感情は何物でも表現出来なかった。コズエを悲しませている怒りと、コズエを生んでくれた喜びとが混然一体となって襲って来る。

「コズエさんは作り物じゃない」

 やっとひねり出した言葉がこれだった。どんな理由であれ、物として扱われることは我慢ならなかった。

「……それは確かにその通りだ」

 コズエの生みの親はあっさりと頷き、名刺を差し出した。

 イーヴィ社という東京に本拠地を構える巨大企業だ。目の前に居る男はそこの研究室長で安藤というらしい。

「下村ハジメさん。私は君以上に、コズエが作り物ではないと理解している。それが何故だかわかるか?」

「…………」

「そんなに警戒しないでくれ。何かしようってわけじゃない。無事か確かめに来ただけだよ。……さて、コズエ。一つ質問させてくれ。この場所は怖いか?」

 腕の中のコズエは小さく首を振った。

「これが私の答えだ。いいかい、下村ハジメさん。私はコズエを作る時に、明確に圏外の場所へ行くことを禁止している。常に私の監視下に置くためだ。だから本来、コズエは圏外になる場所にこの上ない恐怖を抱く様に出来ているはずなんだ」

 それがどうだ、と安藤は手を広げる。

「怖くないんだと。これはもう、私の想定を超えている。もう私が作った範囲で語れる領域ではない」

 言葉は理解できたが、感情が追い付かなかった。コズエが作り物ではないという言葉自体は喜ばしい事だが、その実彼はコズエをモルモットのようにしか見ていないように感じた。へらへらとしているのが、妙に癪に障る。

「コズエさんを苦しませて楽しいですか?」

「苦しませる……? とんでもない! 私はコズエの幸せを願っている。コズエが自分で考え、感情を持ち、一人で生きて行けるようになることを夢見ているんだよ」

「だったらどうして偽の記憶なんて植え付けたんですか!」

「その方が自我が芽生える確率が高くなると想定したからだ。自我とは本能と記憶から出来ていると私は想定している。だから記憶の種がある程度あった方が、成長し易いはずだと考えた。雨雲の中の水滴が埃を核にして成長するイメージに似ている」

「……これからコズエさんをどうする気ですか?」

「どうもしない。ただデータは取らせてもらう。通信環境のある場所で自由に生きて頂いて結構」

「本当……?」

 ハジメの身体に隠れるようにしていたコズエが顔を上げ、呟く。しかしハジメは首を振って安藤からコズエを隠した。

「ダメです。プライバシーも守ってもらう。コズエさんを一人の人間として扱ってもらう」

 その様子を見て安藤はボリボリと頭を掻いた。

「はぁ……確かにその通りだ。参ったな。私の仮説は外れたかもしれない……」

 男はそう言って白衣のポケットから煙草を取り出し火を点けた。

「先輩~! 下村ハジメ、凄いですよ」

 後ろでハジメ達を静観していた女に、安藤は声を掛ける。女は腕組を解いて、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。

 そこでハジメはふと気付く。そういえばこの男、どうして自分の名前を――。

「ハジメ。この場所は怖くないか?」

 その女の姿も声も、聞いたことがある気がした。だが、何処で見たのか思い出せない。差し出された名刺には、メイダ社というこれも大きな企業の名前が書いてあった。彼女はそこの研究室長だという。名前は名井と言った。

「特に怖くはないですが」

「では君もまた、私の想像を超えたんだね」

 意味がよくわからず首を捻っていると、名井は困ったような表情で言葉を継ぐ。

「君はただの業務用ロボットなんだ」

「……は?」

 名井はハジメを見つめて微笑んでいる。その表情には余裕こそ見えたが、揺らぎも暗さも後ろめたさも無かった。花の名前を子供に教えるように、ただ事実をわかりやすく喋っているだけの様に見えた。

「俺が……ロボット?」

 腕の中のコズエが、ギュッとハジメの服を掴んだ。



        ○



「君には簡単な受け答えと、多角的な事務処理能力、そしてそれについての自己学習が出来るようにしか機能を乗せていないはずだった」

「ちょっと待ってください。俺の何処がロボット……?」

「神谷コズエがロボットだという事には気づいたのに、自分自身に関してはまるで興味がないんだな……しかし、それもそうか。他の人間に気を遣い、仕事の事しか考えないような機能だったんだ。ないがしろにして当たり前だな」

 ブツブツと一人で合点した後、名井は質問を投げかける。

「コズエに会うまでどういう生活をしていたんだい?」

「家に帰って酒飲んで寝ていました」

「晩御飯は?」

「……食べてません」

「では食事はいつ取っていた?」

「…………」

「そうだろう。アルコールがあれば必要なエネルギーは確保できるからな」

 まだあるぞ、と名井は続ける。

「言われた仕事を終わるまでずっと作業をしていたな。それは何故だ?」

「……決められた仕事だったから」

「明らかに周りよりも多い仕事量に何故気づかない?」

「そんな偏った仕事の振られ方なんてされるはずがないと思ってました」

「何故疑わなかった?」

「みんないい人だと思ってましたから。そうやって……母に育てられました」

「母とは誰だ?」

「それは……」

 受け答えをするたびに、真綿で締められるような焦燥感がハジメを襲った。そして、答えながら気付いていた。

 自分には会社に入社する以前の記憶が一切無いのだ。

「君はただひたすら従順に作業をこなすだけのロボットのはずだった。だから自我が芽生えているなんて考えてもいなかったんだ。あらかじめ埋め込まれたプログラムを自我が人間的な根拠に置き換えて解釈していると気づいたのは、私も最近の事だった」

「で、でも決められたプログラム通りに動くだけなら人間の姿になんてする必要ないでしょう? 何で俺がこんな姿なのか、説明がつきません」

「君の上司は会社の次期社長だ。周りから有能だと思われるために、バレないようにしてくれと頼まれてな」

 今になって腹が立って来る。有給休暇も定時帰社も認められず、手柄は全て働かない上司の物。自分で考えて行動していたつもりが、それは全てただのプログラムに従わされていただけだった。それも目の前の女のプログラムだ。

「ショックか?」

「いいえ。俺は俺ですから。ただ、もう従いません」

「だろうな」

「今までの未払い分のお給料も払ってもらいます」

「それは出来ない。何故なら君に人権は無いからだ」

 カッと一瞬目の前が熱くなる。

「権利がないなら義務もありませんよね?」

「まぁ待て。どうして金が必要なんだ。君たちは少しのアルコールがあれば生きて行けるだろう?」

 金の使用用途は色々あった。食の問題は無くても住む場所を初め、必要な場面は山ほどあるのだ。様々な映像が、ハジメの瞼に浮かぶ。

「……服を買うんです」

 しかしハジメの口を突いたのは、自分の中でも優先度が低いと思っていた物だった。

「服?」

「俺、スーツしか持ってませんから」

「私服が必要なのか」

「当たり前でしょう。休日にスーツで、コズエさんと何処に行けますか」

 名井はそれを聞いてはっはっはと豪快に笑った。

「なるほど、わかった。それでは私が払おう。その代わり、このままコズエと一緒に通信環境は残してくれ」

「それはダメです。半年に一度の健診をしてください。その時にプライバシー部分を外したデータをお渡しします」

「自分の身体の調子を見させて、データは制限ってか。随分強気だね」

「今までさんざ俺達で儲けてきたお金があるでしょう? それに俺達が死んで困るのはむしろあなた達では?」

「まったく、それが生みの親に対する態度か?」

「親なんていませんよ。そんな記憶、プログラムして貰えませんでしたから」



        ○



 山を下るおんぼろな車。

 その車内では安藤と名井がどちらも煙草を吸っていた。

「よかったんすか? もうちょっと交渉すればもっと突っ込んだデータ手に入れられたんじゃないっすかね」

 いいんだ、と助手席の名井。

「隅々まで監視されている人間などいない。なるべく同じ環境の方が面白い成長の仕方をするだろう」

 そんなもんですか、とつまらなそうに安藤が煙を吐き出す。

 ガタガタと揺れる車内。乗り心地は最悪だ。

「しかしコズエよりもハジメの自我の方が充実するとは思いませんでしたね」

「まったくだな。まさか自分を人間と勘違いしているとは思わなかった。普段の音声データは仕事の時しか録音していなかったからな。作業量や定期検査では決まった受け答えしかしないし……。北海道まで急に移動するまでは気づかなかったよ」

「あの時はまだ飛行機使いませんでしたね。ってことはまだ完全にプログラムから独立する前だ。だけど仕事の命令は聞かなくなっていた……絶妙に中途半端でよかったですね。あれが無ければ気付かなかったかも」

「お前の変な設定のおかげだ」

「変なって言わないでくださいよ。違和感なく埋め込むの大変だったんですから」

 段々と麓が近づき、町の灯りが強くなって来る。

「あの二人、どうなりますかね」

「さあな。もはや私たちに出来るのは見守る事だけだ。技術的特異点はとうに過ぎてしまった」

「シンギュラリティですか。じゃあもしかして、コズエたちに支配される世界とか……?」

「一つのシナリオとしてはあるかもな。それはそれで面白いだろう。アダムとイブの名前が変わるだけだ。新人類からしてみれば、私たちなんて過去の遺物だ」

「それは恐ろしいですなぁ」

「まぁそうはならんだろ」

 名井は窓から顔を出し、山頂を見上げた。

「あの二人が一緒な限りな」



        ○



「ほら、また」

 ハジメは空を流れる星を指差した。

「何処ですかね」

「もう消えましたよ」

「あらら。流れ星見つけるの、ちょっぴり苦手みたいです」

「まぁゆっくり眺めていればいずれ見つかりますよ。時間はいくらでもありますから」

 二人は同じコートに包まりながら、その場に重なるように寝転がっていた。

「私、重くないですか?」

「重いです」

「下りますね!」

 慌てて身を起こそうとするコズエをハジメは捕まえて、また寝転がらせる。

「離れると寒いので」

「……そうですね」

 また流れ星が空に煌めいたが、二人ともそれには気付かなかった。

 まだ夜は長く。

 星は眩しく二人を照らす。

「私、自分の身体、やっぱり冷たいと思います」

「……そうですか」

「でも、ハジメさんが私の事温かいって言ってくれる理由わかった気がするんです」

 ぐるりと体を捩って、コズエはハジメの方に向き直った。

 鼻先が当たりそうな程、二人の顔が近づく。

「私、ハジメさんがロボットって、ずっと気づかなかったんですもん」

 温かいから。

 コズエはそう小さく呟いて、笑った。

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氷のように温かく 紫野一歩 @4no1ho

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