#10

「最近は不景気で困るねえ。娘の大学進学のために、おじさんの小遣いまで減らされてるんだよ。汗水垂らして働いて稼いだ日銭が生活費と寄進に消えて、将来建てる墓もアウトレット品だ。だから、治安維持と個人的な利益の両立も許してくれるよね?」


 組み伏せられ、後頭部に当たる銃口の冷たさに怖気が走る。警官の男は世間話でも話すように手錠を取り出し、僕を拘束しようと力を込めた。視界の端で、音もなくユガミが接近する。


「おい、居たぞ!!!」

「アイツ捕まえたら億万長者だろ! そうだよな!?」


 狭い路地裏に民衆が集い始める。それぞれが鉄パイプや角材、包丁などで銘々に武装をしているようだ。どこからかユガミの噂を聞きつけ、続々と集まっているらしい。5、10、15、20。足音を聞けばそれ以上だ。僕とユガミを取り囲むように、剣呑な一団が揃った。


「ストリート育ちの下層市民たちだ。一見すると統率が取れてるように見えるが、そのうち取り分を巡って争いはじめる。暴動が起きれば、君も、君の大切な存在も無事では居られないねぇ」

「ユガミに……手を出すな……」

「少しの間大人しくしてくれるだけでいいんだ。そうすれば、君の命はきっと助かる」


 危機的な状況だ。それでも、僕の思考は現状の打開策や命乞いの方法に割かれていない。

 そこに居るのは、かつて飢えていた自分の影だ。とにかく生きていくのに必死だったあの日の僕なら、金のために武器を取ってここに参加していた。例えそれが聖人だろうと、躊躇なく身ぐるみを剥いで身柄を売り渡していたのかもしれない。あの頃の感覚は、ユガミと一緒にいるうちに何処かへ消えたようだ。

 今の自分には、信じるべき存在がいる。命を張るべき信仰対象が、守るべき相棒がいる。それでいいんだ、きっと。


 袖口から取り出した刃渡り12センチのペティナイフは、ユガミが喚び出した唯一の武器だ。返す刀で警官を斬りつけ、手錠による拘束を回避! 僕はすぐさまユガミに駆け寄り、その首に届くギリギリの位置でナイフを構えた。


「お前ら、全員動くな! 動くとコイツ殺すぞ!!」


 咄嗟に口から出た言葉の陳腐さに拍子抜けしそうになるが、周囲の唖然とした表情を見れば問題なさそうだ。これでいい。外から見れば、これくらいの変わり身が与える印象は大きい。


「おいおい、気でも狂ったか?」


 斬られた右腕を押さえながら、警官がボソリと呟いた。その銃口は真っ直ぐに僕の方を向いている。その位置、その角度がベストだ。


「ルーくん、何するつもり……?」

「……殉教、信仰の中では一番強いエネルギー源だったよな?」


 例の特殊部隊も、ヤクザも、ここにいる奴らも、きっとユガミを殺す事はない。だとすると、この状況で真っ先に狙われるのは僕だ。

 そのうち弾丸が飛んできて、僕はその場にくずおれる。僕の視界が最後に捉えるのは、彼女の横顔になるのかもしれない。それを目に焼き付けて死んでいくのは、きっと幸福だ。


「祈るよ。祈るから、ユガミだけでも辿り着いてくれ。僕の命くらい簡単に使い捨てて、君の言う救済を世界に振り撒いてくれ。……それが、僕の人生の意味になるから」

「……そういうことね。OK」


 銃声が響く。僕の身体を貫くかもしれない弾丸は、風を切る音と共に降り注ぎ、命を狩らんとする。襲いかかる死の気配が僕の肌を刺し、痛みは……無かった。


「もらっておくよ、その立派な覚悟だけ」


 射撃の軌道が歪み、僕の身体をかわしていく。弾丸は拡散と収縮を繰り返し、着弾する直前で椿の花に変わる。ユガミの瞳は赤く輝いたまま、光輪ヘイローは幾何学模様を描くかのように回転し続ける。


「殉教にはまだ早いよ、あたしの一番のビリーバー! その覚悟だけで充分なエネルギーだ。さぁ、飛ぼうか!」


 僕たちに襲いかかった最後の弾丸が空中で静止し、警官は焦ったかのように射撃を続ける。


「止めときなよ。あたしに殺意を向けたら、全員が例外なく死ぬ。正当防衛、単純で分かりやすいルールだね」


 僕は幻視する。弾倉が空になった瞬間、警官の頭部がトマトのように爆ぜる様子を。ユガミに襲い掛かろうとした市民が、鉄パイプを振り回していた民衆が、狙撃しようとしたヤクザが、連鎖するかのように血溜まりに変わっていく様子を。

 攻撃の手が止まった。この場にいる全員が同様の光景を視認したのか、突如として訪れた静寂は時間を稼ぐのに充分だ。


「手、握ってて」

「……例の目的地まで、最短距離で頼む」


 目を瞑れば、もう1人の自分がどこかでボヤけた気がした。

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マーティダム・マーダー @fox_0829

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