#8

 立体駐車場は幼い頃からの安全基地だった。屋根があるから雨も防げるし、停まっている車から物資も調達できる。昔は車からガソリンを抜き取り、燃料代わりにしていたものだ。

 廃棄されたドラム缶に燃料を注ぎ、火を灯す。封鎖された区間は冷たい風が抜けるが、慣れたものだ。段ボールでバリケードを作り、暖を取る。


「ここで寝るの!? ホテルでいいじゃん……」

「足がつくとまずいし、チェックインに身分証が必要なんだよ。とりあえず、一晩はここで我慢してくれ」


 ユガミは防寒具として纏っていた黄色いレインコートを乾かすように炎に近づけ、ひと息つく。露わになった肌は陶器のように滑らかで、僕は思わず目を逸らす。人造天使の肢体は、誰が見ても美しいと感じるほど均衡が取れているのかもしれない。


「ルーくん、寒い!!」

「着替えは一応買ってある。気に入らなかったり寒ければ僕のを……」

「違くてー! 人間の体ってものは不便でー、そういうのじゃどうにもできなくてー!!」


 表情を悟られないように手を繋ぐ。ユガミはそれでよし、と笑った。

 彼女の手は冷たい。天使への覚醒が進むごとに彼女の身体から熱が逃げていくのを感じ、ふと“ユガミになる前の彼女”に思いを馳せる。獄門會のボスから寵愛を受けていた少女が、いかにして天使の器になったのか。


「君は、いつからユガミになったんだ?」

「生まれた時から……と言いたいところだけど、ルーくんと出会う1週間前だね!」


    *    *    *


 最初に感じたのは、魂を引き裂かれるような痛みだったという。朧げな視界の中、“それ”は自らの存在を初めて知覚した。そこに居るのは無数の光の粒子で、浮遊したまま身動きの取れない概念だった。


「“それ”は受動的だ。分かたれた半身の出涸らし側。誰かを助けることしかできない、ちっぽけな自己認識イドの塊。ただ強い願いに引き寄せられるかのように移動する願望器。そんな存在が彼女と出逢ったのは、ある意味必然かもしれないね」


 薄暗い地下室には先約がいた。首輪で繋がれ、膝を抱えて座り込む少女だ。彼女は痩せ細り、丈の合わない服から覗く肌には痛々しい“教育”の痕が残っていた。

 強い願いの発信源は彼女だ。それがどんな内容かは、訊かずとも理解できたという。本来なら視認できないはずの光の粒子に対して真っ直ぐ向けられる視線は、この世界への絶望と憎悪が込められていた。


「彼女は衰弱していた。血の混じった吐瀉物を吐くと、そのまま横たわって動かなくなった。生存本能と諦念がせめぎ合うような表情で、ただ彼女は希求した。復讐と、この世界の改革を」


 “それ”は信仰によって奇跡を与える。彼女が祈った最後の灯火を頂戴するかのように、その存在は彼女を取り込んだ。脆い存在に自我と肉体が生まれ、名前を得る。“それ”はユガミと名乗り、命を繋いだ。


「それがあたしだ。不完全な天使の片割れが偶然得た肉体。この世界における歪みが産んだ、頼りない救世主!」


 まず彼女を甚振いたぶっていた獄門會の下っ端の一人に同じ痛みを喰らわせると、ユガミは窮屈な地下室から脱出しようとしたという。封鎖された狭い室内と、電波の届かない携帯端末。ビリーバーの居ない人造天使に奇跡を起こす力はない。だから、ユガミは活路を外に求めた。


「あたしに残っていた権能は、近くにいた誰かの祈りをキャッチする。〈電子の女神〉を信仰の依代にすれば、デタラメなマントラさえも召喚呪文になる!」

「……だからあの場に現れたのか?」

「君の知り合いの人が死んだでしょ? アレを殉教ってことにすれば、信仰のエネルギーは溜まる。本来なら一時的なエスケープのはずだった。そこで出会ったのが、君だ」


 ユガミは真っ直ぐに僕を見つめた。その眼はまだ桜色だ。天使の権能によって赤く染まってはいない。


「……最初は他の誰でも良かった。あたしを信じてくれるなら。一緒に逃げてくれるなら。あのヤクザに追われるのは時間の問題だったから、とにかく誰かと契約をしないといけなかった。それでも一緒に過ごしているうちに、その気持ちが変わったんだ」


 ユガミは言葉を選びながら、僕の手を何度も握り返す。長い爪が僕の掌を撫で、小さな傷を残した。


「ホントに不合理で恥ずかしい話なんだけど、ルーくんが居ないとダメなんだよね。あたしを助けて、自由にして、一緒にデートして、ご飯食べて……。だから、最後にあたしの願いを叶えてよ。一緒にこの世界を作り変えて、ビリーバーを増やして、遍く万民を救済する。そのために着いてきてほしいんだ」


 夜霧に雨音が響く。その音さえ邪魔なほど、僕の思考はクリアだった。


「明日晴れたら、目的地まで一気に行こう。例えどんな障壁があろうと、君のことを信じるから」

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