#7

『まったく、人間の心理は面白いね。愛とはいつだって与える側のエゴだ。君はユガミを大事に思うあまり、彼女の願いを叶えられない』


 そんな訳がない、とは言えなかった。今まで一緒に過ごしてきたが故に、僕は恐れている。ユガミの自我が虚無の暗黒に飲み込まれて、無価値となることを。完全に覚醒した彼女が、僕の名前を二度と呼ばなくなることを。


『だからワタシは実存体を半覚醒に抑えたんだ。そして、今の君には選択肢がある。このまま実存体の融合を見守って君の言う“ユガミ”を失うか、非常に不本意だが実存体を連合に引き渡すか。本当はワタシの方に返してもらう予定だったんだが……背に腹はかえられないね!』


 最後の言葉を告げると、データチップの再生は止まる。ロイは僕の手から再生機を回収すると、吐き捨てるように呟いた。


「……いけ好かない男ですね」

「アンタらが一枚岩な訳ないよな。どうせ聖教会はユガミを手元に置いておきたいし、クーガーとアンタは殺しておきたいだろ?」


 若き聖職者は曖昧に笑った。様々な感情を絞り出すかのような、複雑な表情だ。ロイは俺の近くで座り込むと、付近の水溜まりに声を掛ける。


「おいで、パトリシア」


 水溜まりから顔を出した猫が、ロイの脛に頬を寄せる。“それ”は液状化した身体を固体に戻し、彼の膝の上に乗った。


「そいつは……?」

「この子は、セルジオの研究成果です。可塑性のある猫で、液体と固体の姿を持つ。彼が生み出した実験動物を、私が引き取りました」


 ロイの指先がその首を撫で、猫は満足そうに鳴く。毛の目立たない身体は、どこか陶器めいた光沢さえ感じさせた。


「聖教会の教義に照らせば、バイオ猫の製造は背信行為だ。セルジオの行った生命操作は、本来なら神の領域です。異端尋問官として、その罪についてはしっかりと処断しなければならない。ただ、それによって生まれた命に罪は無い。そうも思い始めていました」

「それがそいつを引き取った理由?」

「……父の罪滅ぼしでもあります。なぜ教義に反するホムンクルス研究が黙認されていたのか。教導師長である父親がこの研究を主導していたからです。誰よりも神の教えに厳しかった父親が、その裏でセルジオと協力して人造天使を作ろうとしていた。……何を信じていいかわからないんですよ、今でも」


 信仰を失った者の眼だ。追うべき背中を見失って、迷える者の眼だ。ユガミと出会う前の僕も、こんな顔をしていたのだろうか?


「これは飽くまでも私の意見ですが……君がユガミのことを大切にしたいなら、教会からもセルジオからも完全に縁を切って平穏に暮らす選択肢も考慮に入れていいと思います。その方が、お互い余計な血を流さなくて済むはずなんですよ」


 弱々しく笑うロイの表情は、それが脅しではなく本心からの言葉であると思わせるには充分だった。数秒の沈黙が場を支配し、僕たちは互いに次の言葉を待つ。


「……アンタがその考えだったとして、クーガーはどう思ってるんだ?」

「あの人は……何も変わらないですよ。憎いほどに何も変わらない。私にできるかは分かりませんが、君たちの平穏の邪魔をしそうになれば何とかして止めます。私にできるかは分かりませんが……」


 ロイは立ち上がると、僕と視線を交錯させる。顔立ちと背丈は同年代のようだが、ロイの方が5歳ほど年上に見える。だが、その視線に見せる迷いはよく似ていた。


「もう二度と会えないことを祈っていますよ。次に会った時はお互いに無事ではいられないでしょうから」


 若き神父は僕とユガミを注視することなく去っていく。

 ユガミに従うか、セルジオに従うか、ロイの提案を呑むか。僕に選べる選択肢は3つだ。


「なぁ、ユガミ——」

「いくよ、ルーくん。もうすぐあたしの願いが叶う!」


 その瞬間、僕は自らのエゴを恥じた。彼女の幸せが最優先で、僕の願望は後だ。あの日足りなかった覚悟を示す時は、ここなんじゃないか?


「着いていくよ、地獄まで」

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