#14

 死に対する恐怖で眠れなくなってから、俺は自分と他人の命を無意識のうちに切り離して生きていた。自分の命は地球より重く、誰かの命は蟻より軽い。そうすることで、自らの精神の安寧は保たれていた。

 それを“揺らぎ”と呼ぶなら、あの日の哭き声を聞いてからだろう。見えていたはずの光の道は徐々に見えなくなり、暗闇に叩き込まれるような感覚に苛まれる。身を委ねる神がこの世に存在していることを、俺自身が恐れている。


「……地獄行きだな、俺は」


 老龍が脚を高く上げてギロチンめいた速度で振り下ろす瞬間を、俺は静止画でも見るように見つめている。眼は捉えているが、身体は追いつかない。老龍に言わせれば俺はロートルで、報いを受けるべき時が来たのかもしれない。

 口から漏れたのは、笑いだった。頭では避けられないのを理解しているが、鉄火場で鍛えられた眼は必死に勝ちの手を探している。自分の死について納得したはずなのに、視線は老龍の“揺らぎ”を捉えてしまう!


「何が無信仰者だよ、老龍ラオロン。お前が無意識で信仰してるのは、過去の俺だろ?」


 粉塵が舞う。俺を裁く槌のように振り下ろされる蹴りは、俺の頭部を破壊しない。右腕を盾に、体に掛かる衝撃を全て受け止める。骨が軋み、砕けて使い物にならなくなっても、俺は意地で立ち続けている。


「昔の俺にどんな幻想を抱こうが勝手だ。ただ、悪かったな。あの頃より俺は……格段に生き汚くなった」


 飛び交う粉塵で視界は不明瞭だ。コロッセオの舞台が衝撃で砕け散り、偶然の目眩しを作り出している。白煙が巻き上がり、老龍は俺を見失う。それが勝機だ。

 光の道は薄いが、まだえる。奴も手負いなら、俺も手負いだ。どちらも右腕を所在無げに垂らしながら、間合いを見計らっている。互いの気配を捉えようと集中している今なら、先手の一撃に分がある。

 俺は瞬時に背後に回り込み、構えたマグナムの劇鉄を起こす。その微弱な音でさえ、老龍は捉えてくるだろう。振り向いた瞬間、俺は逆持ちしたマグナムの銃底で老龍の顳顬こめかみを殴り抜く! スレッジハンマーめいた一撃!

 怯む。その瞬間に引き金を引く。義体化した左脚に風穴が開き、老龍は片脚で何度もたたらを踏む! 獣めいた表情で歯を剥き出しにしながら、長髪の暗殺者は笑っていた。


「やはり同じだ、クーガー。俺も、お前も。所詮は信仰を持ち合わせていない獣だな」

「そうかもな。ただ、根本的に違うところもある」


 老龍は片脚で地面を強く踏み締める。明滅するクローム義体から火花が散り、エネルギーが全身を駆け巡る。


「……裡門頂肘、无二打」


 震脚で溜め込んだエネルギーが放出されるかのように繰り出される一撃は、槍めいた神速の肘打だ。鋼鉄の肉体が速度によって赤熱し、風を切り裂きながら襲いかかる!

 俺はそれを回避しない。肉体が爆ぜ飛ぶ未来を幻視しながら、巻き起こる風が身体を通り過ぎる瞬間まで動かない。これは、意地の勝負だ。


「俺とお前の違いは単純だよ、老龍。俺の方が生きようとする力は強い、それだけだ」


 俺に勝つには、手段を選ぶべきではなかった。最初の邂逅の際に喰らった神経毒ナイフを使えば、俺の心臓を確実に止めることができただろう。だが、老龍は真剣勝負の肉弾戦を選んだ。

 迫撃は寸前で止まる。静かに笑いながら、老龍のクローム義体は自壊していく。最後の一撃はそれ自体が強烈な負荷だ。連戦によって傷ついた肢体が軋み、クローム義体の暗殺者は機能を停止した。

 最後に身体を叩く衝撃をゆっくりと味わいながら、俺は老龍の胸で等間隔に輝く人工心臓を眺める。


「こ、ろせ……」

「……あぁ」


 きっと死後の世界は暗闇で、俺たちが眠るにはちょうどいい場所なのだろう。俺はマグナムを構え、数秒逡巡する。指先を噛み、血文字で老龍の首に“Atheist”の文字を刻んだ。


「サインだ。餞別に持っていけ」

「肉と骨になって朽ちるとしても?」

「今のお前は覚えてるだろ? それでいいんだよ」


 老龍は目を見開き、破顔した。


「……地獄で会おう。本当に有るかどうか、先に見てきてやるさ」


 引き金を引く。生命活動を停止していく老龍を眺めながら、俺はデタラメな祈りを捧げた。


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