クーガー編 その②

#1

 バスタブに溜まった水は冷たく、浅い。俺はコートを着たまま、水面を揺蕩うように脱力している。不思議と息が詰まるような感覚はなく、むしろ心地良い。このまま出なくてもいいような気さえする。

 浴槽は灰色の大理石。俺の住むペントハウスとは異なるが、見覚えがあった。記憶を辿ってみれば、顳顬こめかみが軋むように痛む。耳の奥で流れ続けている誰かのハミングを掻き分け、俺はその正体を探った。


「……例のホテルだ」


 思い出した。あの日、仕事を依頼されて赴いたホテルで、俺は人を殺した。日常の作業だ。今さら垣間見ることもない。唯一違うとすれば、それは……。


『お前は必ず裁きに遭うぞ! 私の“神”が、きっと——』


 視界が赤く染まる。水はぬるく、鉄錆の匂いが鼻腔に傾れ込んでくる。息が出来ない。首筋に触れる何かの気配が、俺の命を強く締め上げる。

 そうか、これは“罰”だ。俺を水底に引き摺り込もうとする手は無数に存在し、引き上げる者は誰もいない。肺の中の酸素が口から漏れ、生命が潰えていく様をリアルに想像してしまう。


 嫌だ。

 嫌だ、嫌だ。

 まだ人生に納得していないのに。自我が消えて、ただの浮揚する肉体になるなんて。死の苦しみよりも、虚無への不安が俺の胸を往来する。今まで殺してきた連中も、こう思っていたのか?


 瞬間、俺は目撃する。水面越しに俺の首を絞める何者かの正体を。不思議と驚きはなかった。


『報いを……受けろ……!』


 合点がいく。俺はこれを恐れ、心の奥底で望んでいるのか。因果は巡り、罰は還る。それなら、納得ができる。

 ロイという名の若い信徒。俺が殺したかもしれないあいつの父親に比べると、ずいぶん非力な腕だ。これも彼を利用したツケだろうか。怒りに震える表情は、悲痛な色を湛えていた。


 俺みたいなロクでもない奴に、あんたが手を汚すこともないのに。意識が遠のき、俺は自嘲じみた表情を作る。脳の奥から聴こえる声は穏やかなハミング。恐怖は和らぎ、そして————。


 目が醒めた。


    *    *    *


 網膜に飛び込む光刺激を朝日と認識するまで、数十秒かかった。窓際のベッドは広く、カーテン越しに見える外の風景は相変わらずのビル群だ。少なくとも、ここは風呂場でもなければホテルでもない。

 虫食い穴めいたトラバーチン模様の天井に、消毒液の匂い。視線を動かして身動きが取れない身体を観察すれば、無数のチューブや点滴が自分の身体を生かしていた。

 おそらく病室に運び込まれたのだろう。モニタに表示されている心電図の波形は、徐々に安定を取り戻している。


「……っ、クーガーさん!?」


 聞き慣れた声に思わず身を竦める。カソックコートを脱ぎ、シワのないワイシャツにロザリオで自らの役職を示す気弱そうな青年が、そこに立っていた。


「よかった。目、覚まさないかと思ってましたよ。ずっと心配してて……」


 嘘を吐いている様子はない。あれは俺の深層心理が見せた悪夢で、現実ではないのだろう。無造作に跳ねた髪を揺らして駆け寄るロイを眺め、俺は酸素マスクが口元を塞ぐのを煩わしく思いながら言葉を発する。


「何日、寝ていた……?」

「4日くらいです。あの日、僕が警備を呼んだ後、エンリコの敷地内で気を失ってるクーガーさんを見つけて……」

「……クソッ」


 ロイから見れば、俺は高層ビルの屋上から身を投げたようだという。“天使の幽霊”に魅了されて祈りの形を取っていたのも、状況だけを判断すればそう解釈されるのだろう。

 運が良かったのか、俺が着地したのはアスファルトではなく、たまたま停車していた軽バンのルーフだったという。重力に任せた自由落下でも、無意識に頭を庇っていたのだろう。背中から衝突し、停まっていた軽バンは廃車になった。

 

「折れた肋骨が臓器を傷付け、大量出血していました。急いでエンリコ傘下の病院を手配し、開発されたバイオ医薬を導入しました。あと少し処置が遅ければ、全身サイバネ化手術が必要だったそうですよ」

「……助かったよ。あの機械化だけは死んでも嫌なんだ」

「その、自ら命を断とうとした件については……」

「それに関しては逆だよ。俺は死にたくないし、殺されるつもりもない。だから、こうやって感謝してる。ありがとうな、ロイ」

「……いえいえ。それと、もうひとつ謝らせてください」


 ロイは微かに表情を曇らせ、俺の個人情報が記載された電子カルテを指す。そこに記載されているのは、俺の戸籍上の名前だ。


「ジャン・クーガーは偽名だったんですね、ラルフさん。入院中に少しだけあなたの素情を調べました。勝手なことをしたのは謝ります」

「……どこまで調べた?」

「コウロ地区のタワーマンション〈涅槃〉の最上階に住んでいること、両親を早くに亡くしていること。そして……現在どの宗派にも入信していないこと」

「信仰も多様性の時代だ。俺が無信仰者エイシストでなんの問題がある? 布教でもするつもりか?」

「布教はしませんよ。ただ、教えてほしいだけです。どこから人造天使の情報を得たんですか? 何のために、今回の調査を行なっているんですか?」


 俺はロイの視線を観察する。目の下の隈と、疲れ切った表情。そうか、彼は本気で俺のことを見舞っていたのだ。

 今から話す内容は、ロイの俺への信頼を失わせる事になるかもしれない。それでも、ここで話さないといけないことだ。


「俺は依頼されたんだよ、シンリエ宗の奴らに。『人造天使について調査をしろ。報酬はいくらでも払う』ってな」

「……やっぱり、シンリエですか」

「別に信徒でもなければステークホルダーでもない。それでも、ロイが他の宗派の人間と協力したくないなら……」


 ロイは吹き出すように笑う。何度か首を振ると、笑みを浮かべながらゆっくりと口を開いた。


「逆ですよ。聖教会とシンリエ宗が協力体制を取る、と上層部が決めたんです。現状、この2組織は同盟関係です。人造天使の確保に向けて、異端尋問部を中心に特殊部隊が組まれるとのことです。……そこに、僕の名前もあります」

「コウロ地区内での影響力を考えると、シンリエ宗と組むのはメリットしかないだろうな」

「どちらにせよ、セルジオには聞きたいことがたくさん有るんです。聖教会が人造天使を使って何をしようとしているのか。父親はその計画にどう関わっていたのか。それを調べるためにも、まずはセルジオを確保したい」


 俺をまっすぐ見つめ、ロイは静かに口を開く。


「怪我が治ったら、特殊部隊の仕事を手伝ってください。クーガーさんがやろうとしている事にも協力します。だから……!」

「『怪我が治ったら』? そんな悠長な事言ってる場合かよ。俺は直で天使の権能を見た。アレが誰かの手に回ると、この街自体が大変な事になる」


 無信仰者エイシストである俺でさえ、哭き声を聞くだけで自我を上書きされそうになった。あれは新たな価値観を強制的に植え付ける洗脳装置だ。俺の行動が呼び水となり、とんでもないものを顕現させてしまった。


「俺が天使を殺る。だから手伝ってくれ、ロイ」


 心の奥底で感じている恐怖を振り払うように、或いは自分に言い聞かせるように。俺の宣言を聞いたロイは、決断的に頷いた。

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