#13

 屋上の風は温く、位置は無限だ。アンテナから放たれる電波が広がる空は窮屈で、地上から飛び去っていくのを防ぐために巨人が蓋をしたのかと錯覚するほどだった。

 安アパートの屋上からの風景など、見飽きたはずだった。兄貴分に着いていくように世界を垣間見ながら、当時の僕の心は地面を這いずっていた。地底から地上を眺めて、生きることに喘いでいたのだ。

 それが、今では世界を見下ろすような言葉を吐くようになった。遠くを覗けば高層ビル群があり、空は相変わらず広告ビジョンのスクリーン代わりだ。それでも、目を閉じた僕の意識はより上のヴィジョンを俯瞰している。


「いけるか、ユガミ?」


 ユガミはファインダーを覗くように指で四角を作り、ビル群の風景を切り取った。僕が見る限りだとそれはファッションホテルの煉瓦造りの外壁だが、彼女が言うには「その奥が大事」らしい。


「……位置は、この辺り。ちょっと遠いけど、同期はできるってとこか」


 対象を確認したのか、彼女はバルコニーの転落防止柵に寄りかかって笑う。今から彼女は飛ぶのだ。落下ではなく、浮遊なのだという。


「真の交感のためには、ある程度意識を飛ばす必要があるんだ。そのために、あたしはキミを選んだ。あたしを信じて、身を委ねてほしいんだよね」

「……危険は?」

「4%くらいの確率でルーくんの身体がぐちゃぐちゃになるかもしれない。奇跡に必要なエネルギーを吸うためなんだ。当然、受け入れてくれるよね?」

「それで、ユガミの望みが叶うなら」


 僕はデタラメなマントラを唱えながら、ユガミと初めて会った数日前を思い出していた。あの日もこんな風にアンテナに向かって祈りを捧げていたものだ。兄貴が言った電子の女神とは。あの日感じた特有の高揚感の正体は。何かが自分の中で繋がる感覚に胸を高鳴らせながら、逆に頭は冷静だ。

 信じるべき存在のために死ぬことを、シンリエや聖教会では“殉教”と呼ぶらしい。数日前まで理解できなかったが、今はなんとなく理解できる。好きな人のために死ぬのと、似ているかもしれない。


「ルーくん。手、繋いで」


 彼女の滑らかな指に触れる。折れそうなほど細く冷たい手を包み込み、熱を伝える。自分はこんなにも想っている。ユガミのためなら死ねる、そんな風に。

 彼女は僕の肩を抱き、バルコニーをよじ登る。僕の高揚は、そこがピークだった。


「……ひッ」


 眼下は暗黒だ。見えるはずの地面は霧の中で、代わりに闇が広がっている。落ちればひとたまりも無い。

 瞬間、僕は思い出す。目の前から家族が消えたあの夜を。兄貴分が死んだ、あの黄昏を。

 あの日の僕が作り出した“名前のない怪物”の正体は、虚無だ。蒸発も、突然死も、喪失と虚無を理解できない幼い僕が全て怪物の仕業に変えたのだ。その怪物が、想像そのままの姿で大口を開けている。僕はそれに気圧され、


 奇跡は連続して起きない。それまで楽しげに笑っていたユガミは赤い眼光を散らし、何事でも無いかのような声色で呟く。


「嘘吐き」


 僕という存在すべてに興味を失ったような、ゾッとするほど冷たい感情だった。

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