ルーク編 その①
#1
コウロ地区、雑居ビル屋上にて。
ビル屋上の簡易アンテナは曇り空に向けて伸び続け、
だから、その状況は異常事態だった。目の前で血溜まりに変わった〈黒曜の手〉は僕の兄貴分で、肉親に捨てられた僕を拾ってくれた存在だ。機械いじりが趣味の寡黙な男で、時折訓示めいたことを僕に語ってくれる。その右手は機械油で真っ黒に変色していた。
アンテナ修繕中に企業のハッカーにニューロンを焼かれたのか、最初は瞳を鈍く発光させながらその場を転がり続けていた。兄貴は僕に向けて真っ黒な手を伸ばし、助けを乞うように何度か口を開く。僕が手を伸ばそうとした瞬間、眼前で玩具でも扱うように身体が捻れ、爆ぜてしまった。数年の絆は、たったそれだけで終わるのだ。
温かい鮮血を浴びながら、僕は反射的に幼い頃の恐怖する対象を思い起こしていた。“名前のない怪物”だ。
父も、母も、姉も、僕を残して皆消え去ってしまった。その原因は、怪物の仕業に違いない。僕たちが感知できない世界にいる存在が虚空に巨大な口を開き、家族を皆食べてしまったのかも。父親が貯蔵していた汚い金、皆で身を寄せ合って過ごしていた家。それらが突如として失われた理由も、きっと怪物が現れたからだ。
怪物は、よりによって僕が後ろを追う存在を狙う傾向にあるらしい。
コウロ地区のストリートギャングは余所者を受け入れない。貧しさを糧に生きる閉鎖的なチームの中で、兄貴はいつも夢を見ていた。空に延ばしたアンテナに向かって自己流のマントラを唱えながら、隣に立つ僕に荒唐無稽な未来像を話す。
「こうやって祈ってるとな、電子の女神が俺たちを救済してくれるんだ。シンリエの連中は自己救済を信条としているが、そんなもので人は救えない。今がダメでも、そのうち誰かが救い上げてくれる。それを信じることが大事なんだよ……」
僕は兄貴を真似て、よく似たマントラを唱える。僕を地獄から救い上げてくれた“誰か”は隣に立っている。それだけでよかったのに。
兄貴の肉片は焦げ付き、血が沸騰していく。呆然とする僕の眼前を、何かの巨大な影が横切る。企業のステルス航空機か、戦闘用ドローンか、或いは……兄貴の言うオカルティズムの具現物か。僕はそれを例の“怪物”だと解釈し、静かに頭を抱える。
とにかく、僕が実の親のように尊敬していた兄貴は呆気なく死んだ。腹の底から湧く感情は怒りではなく、恐怖と虚無感だ。
「……救いを。どうか救いを」
墓標めいたアンテナに必死に祈っても、空の形は変わらない。広告ホログラムは簡易葬式の宣伝を始め、『格安で極楽浄土へ行こう!』と明るいキャッチコピーを垂れ流す。信じるものが呆気なく消えても、このクソみたいな街は動き続ける。
だからこそ、均衡に生じた微かなノイズに敏感にいられたのかもしれない。鬱陶しい広告音声が一瞬だけ止まり、誰かが歌うように哭いている声が耳に届く。凪の中、恐怖と虚無感が鎮痛剤のように鎮んでいくのを確かに感じる。
不思議な高揚感だった。頬を濡らす涙がコンクリートに落ちても、僕は祈りを止めないでいた。
そこには進むべき未来がある。背中を押す風がある。全てを受け止める、暖かな光がある。いつの間にか隣に座る少女に身を預け、僕は数年ぶりに泣きじゃくっていた。
少女の指が僕の頬を拭い、くすくすと笑う声が耳に届く。慌てて隣を見れば、彼女は遠くの空を惚けたように眺めていた。
「……誰?」
返事の代わりに、彼女はアンテナを指さす。広告ホロは歪み、ハックされたかのように不明瞭なアブストラクト・パターンを刻んでいた。
「世界の歪み、だよ」
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