#15
重力に負けた。
高層ビルの屋上から風を切るように落下しながら、俺の頭はモヤが掛かったように揺らいでいた。逆順の記憶に、光の道。脳裏に浮かぶ記憶が、天使の哭く声で埋まっていく。
ヘリコプターを掴んでいたはずの手は、無意識に祈りの形を取っている。体感時間は遅く、俺は落下しながらエンリコのオフィスの様子を垣間見た。
深夜。普段なら仕事に邁進しているはずの営業社員や研究員が、揃って祈りを捧げている。だが、それは普段の儀礼的な祈りとは異なる。皆が一様に惚けたかのような表情で、同じ空間を見つめているのだ。
思い出す。天使が哭いた直後、ヘリコプターにいた武装集団も同じ祈りを捧げていた。最初は運転手、次にガスマスクの連中、俺を掴んで這い上がった老龍。
自動運転によって浮上する機体を意に返さず、奴らは皆同じ祈りを捧げた。狂乱に似た静謐の中でセルジオだけが冷や汗をかき、笑っている。
「……ハハハッ、私はとんでもないものを生み出してしまったらしいね!」
その中で、俺は奇妙な虚脱感に襲われる。人の命は有限で、呆気なく尽きていく。嫌だ。嫌だ。そんなもの、あまりにも救いがなさすぎる。
『……いいか、ラル。この像に毎日祈りを捧げて、私財を手放す。そうすれば、母さんは健康体で
そう俺に語った父親は、その半年後に笑顔で高層ビルから跳んだ。俺の母親にあたる自分の妻の医療費も碌に払わず、稼いだ金で〈より良い来世〉を生きることを望んでいた。家族想いで夢見がちな、無責任で最低な父親だ。
奇しくも同じ状況だ。命が尽きる瞬間、父親は何を考えたのだろうか。
* * *
ラルフ・クーガーは、コーポ勤めの平凡なサラリーマンである父親と病気がちだが愛に溢れた母親のもとで、普遍的な幼少期を過ごした。
数十年前のサン・ヴァルドは宗教組織の力が今よりずっと弱く、両親も熱心な信教などは持ち合わせていなかった。そのためか、俺は自らのある性質に対して、そこまでの違和感を感じていなかった。
母親は時折体を壊し、俺が成長するごとに病院にかかる頻度が増えていった。父親はその度に仕事を早退し、心配そうに病院に付き添っていたのをよく覚えている。
ティーンエイジの分岐点で、俺は大人への鬱屈した感情を徐々に発散していた。反抗期の訪れと共に家に居着くことが減り、仲間と共にモラル破りを楽しんで周囲に沢山の迷惑をかけていたのだ。近所の宣教師も俺たちにとっては五月蝿い大人の一人で、俺は信仰や教義によってモラルや道徳を決められることに言いようのないむず痒さを感じていた。
そんな折、母親の何度目かの長期入院が決まった。外で遊んでいた俺は知らなかったが、当時の医療では完治させることの難しい難病だったという。
痛みに苦しむ妻に何かできることはないか。悩んだ父親が手を出したのが、サイコパワーで痛みを癒すと豪語する怪しげな教祖の宗教だった。
父親は、見るからにのめり込んでいた。俺が久しぶりに家に帰ると、部屋中に奇妙な祭壇やよく分からない飲食物が並んでいる。痩せこけた父親は俺を見るなり、信仰の素晴らしさとそれによって齎される多数の現世利益について熱く語りだす。俺が
「……いいか、ラル。この像に毎日祈りを捧げて、私財を手放す。そうすれば、母さんは健康体で
「あのさ、親父。俺……」
「今度、説法を受けに行こう。
それから、俺は家に帰らなくなった。両親の訃報は、葬儀の案内メール越しに知ることになった。
父親が指定した葬儀は例の教祖によって考え出された形式であり、俺は不参加に○をつけた。そこからは、孤独の身だ。転がり込んだ裏社会で殺し屋を始め、今ではそれなりに名前も売れている。
最初の標的は、例の教祖だった。組織の金に手をつけたことがバレて、スポンサーのマフィアから抹殺命令が出されたのだ。俺は復讐の意味も込めて、なるべく惨たらしく殺した。
きっと、父親は暗闇が怖かったのだ。進むべき光の道が見つからず、いつか来たる死に対して恐怖した。そこだけは、俺も似たらしい。
今、光の道が示すのは何か。俺が無意識に祈ったのは何か。有り得ない。よりによって俺が、エイシストの俺が。
身体が楽になった。死は苦痛ではなく、再臨のための前準備なのだ。そう囁く声が、心地良い。
集合無意識か、これが信仰の統一か。
俺は惚けた顔で、例の天使の幽霊へ祈りを捧げていた。
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